『癒しをくださるお方』 2025年4月13日
- NEDU Church
- 4 日前
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説教題: 『癒しをくださるお方』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書53:1-13
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:14-17
説教日: 2025年4月13日・復活前第1主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今共に聴いておりますマタイ8章は主イエスの癒しの出来事が続いております。主イエスは小高い丘の上で、弟子たち、主イエスに従ってきた群衆たちに教えを話され、そして山を降りてこられました。村に戻られる前に最初の癒し、重い皮膚病の人が主イエスに近づいてきたのでありましょう。その人を癒され、次に百人隊長が近づき主イエスにひれ伏しました。百人隊長の僕も主イエスの御言葉によって癒されたのでありました。こうして長い1日が終わり、やっとカファルナウムの町の中にありますペトロの家に到着いたしました。主イエスはお体を休めて、1日の疲れを癒すそのようなおつもりでしたが、家に入ってみますと、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのをご覧になりました。このマタイ福音書の4章の18節以降、四人の漁師の召命のことが書かれておりました。最初の二人、つまり、ペトロとその兄弟アンデレとある、そのペトロです。彼はすぐに網を捨てて主イエスに従った、とそのように書かれていました。全てを捨てて、というようなニュアンスを持つ「献身」という言葉ですが、私はこの箇所との繋がりを読みます時に、変な言い方ですが、なんだかホッとした思いがするのです。なぜかと申しませば、献身して神に仕えるという厳しさの中にあっても、そこには家族があるということです。神に献身した者たちも、家庭を持ち、家族と共に歩み、そして主に従うということです。主に従う重さ、責任と一人の社会に生きる者としての家庭への責任を負うことが求められています。プロテスタントの牧師も、一信徒と同じであり、家族の問題を抱え、悩んだり、祈りつつ、主に従っていく、そのような道であると思うのです。すぐに網を捨てて従って献身したペトロにも家族があり、こうしてしゅうとめが病で寝込めば、ハラハラし、心配している妻と共に祈る生活があったのだな、とその光景が見えてくるような気がします。
■家庭の主
主イエスがペトロのしゅうとめの手に触れられると、熱は去ってしゅうとめは癒されました。ここで思いますことは、主イエスはそれぞれの家庭の中に入ってきてくださるということです。私たちは子どもの面倒を見たり、年老いた親があったり、または病気の連れ合いがあったり、と日々の生活の中で家族の心配をいたします。ペトロの家に入られた主イエスがその家のしゅうとめを癒してくださったように、私たちのところにもきてくださり、そして共に様々なことを担ってくださるのです。この世界全てを支配しておられる主は、それぞれの小さな家庭の主(あるじ)でもあるということが示されています。主イエスはこの世に人となってきてくださり、それは神の支配を知らしめるためであるのと同時に、私たちに仕えるために来てくださった、そのことがここにも示されています。私たちの日常と主イエスが人として過ごされた日常はこのように重なっているのです。そのことを改めて知ります時、主イエスによる慰めと癒しは、本当に私たちの身近にあって、主イエスによって神の恵みを日常においていただいているのだということを実感いたします。
■イエスをもてなす
そうして癒されたペトロのしゅうとめは「起き上がってイエスをもてなした」とあります。この「起き上がって、もてなす」という言葉は、聖書では頻繁に出てくる言葉です。「起き上がる」とは主イエスの甦り、復活、を言い表す言葉です。そして「もてなす」この言葉は「仕える」という言葉であり、新しい協会共同訳ではこの言葉が使われています。つまり、ここで示されていますことは、単に主イエスによって癒され、熱が下がって、元気になって、おもてなしをすることができたというようなことを言っているのではないのです。私たちは、洗礼によって罪に支配されていた古い自分が死に、そして主イエスによって罪赦され、主イエスの復活に与って、神の民として新しく生きる者とされます。新しく生きる、それはどのように生きるのでしょうか。ペトロのしゅうとめは「起き上がってイエスをもてなした」。主イエスに痛み、苦しみを担っていただき、新しく生かされた者は、主イエスに奉仕する者となったということが明確に言い表されているのです。このペトロのしゅうとめの病、癒しのことはマルコ福音書、ルカ福音書にも記されていますけれども、このマタイだけは少々違う書き方をしています。マルコとルカでは「彼女は一同をもてなした」となっています。しかし、マタイは「彼女はイエスをもてなした」と書いています。マタイは彼女が主イエスにお仕えする者となったということを強調しているのです。主イエスにお仕えして生きるというのは、決して特別なことではなくて、食事を用意したり、寝床を整えたりするという日常の出来事の中にもあるのです。
■多くの人々の癒し
この日、主イエスは皮膚病の人、百人隊長の僕、そしてペトロのしゅうとめ、と癒しの御業をなさってくださいましたが、それで終わりではありませんでした。マタイの16節には「夕方になると」と記されておりますが、ユダヤでは日没とともに1日が終わり、新たな日となるということでありますから、日付が変わったことを意味しています。このマタイ福音書でははっきりしませんが、他の福音書によれば、前日は安息日の土曜日で、こうして夕方になって日曜日となったということが記されています。ですから、大勢の人々が悪霊に憑かれた者や病にかかっている者たちなどを連れてきて、そして主イエスに癒しを求めたのです。そして主イエスは病人を皆癒されたと16節にあります。「全ての人を癒やされた」あっさりとその一言で書かれておりますけれども、この日の主イエスのお働きはどれだけ大変であったことでしょうか。しかし、「それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」とマタイは記すのです。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」先ほど旧約聖書イザヤ書53章の1節から12節を読みました。このイザヤ書53章は「苦難の僕」として知られている箇所です。「彼」が多くの人の罪や病を背負って死んだ。それにより多くの人が救われたとあります。この「彼」、「僕」は力による支配ではなく、他の人のために打たれ、苦しめられました。それも自らの不義のゆえに打たれたのではなく私たちの不義のために砕かれて、彼が受けた傷によって私たちが癒されたとあります。彼は黙って、人からは理解されないままに、その苦しみを受けました。そのように書かれています。この「彼」、「僕」が誰であるのか、イザヤ書ではもちろんはっきり示されていませんが、私たちにとって、その「彼」、この僕こそが主イエスであると信じています。この苦難の僕の姿は主イエス・キリストのお姿と重ね合わされます。イザヤ書のこの箇所が、マタイによる福音書の今日の箇所に引用され、そして主イエスの多くの病人の癒しはこの預言の成就である、マタイはそのように言うのです。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」と言います。主イエスは多くの人の病を癒やされました。わたしたちの側から見た「癒やされた」というそのことは何を意味するのでしょうか。私たちの病が治った、良くなった、ということは、それを担ってくださったお方がおられる。引き受けてくださったお方がおられるということです。私たちの病、私たちの罪、それは消えてなくなったのではなく、わたしたちの代わりに引き受けてくださった方がおられるのです。それが主イエスであられるということです。主イエスは一人一人、様々な病、苦しみ、悲しみを持っている人に向き合い、癒やされ、その全てをお引き受けくださって、背負ってくださるのです。主イエスがお引き受けくださったからこそ、わたしたちには平和が与えられ、そして主イエスが痛みを受けてくださったからこそ、わたしたちは癒やされたのです。それが主イエスの十字架への道です。主イエスによる癒し、救いは主イエスご自身が「苦難の僕」として痛み、苦しみと死を引き受けてくださったことによって実現したのです。
■受難を覚えて
今週の金曜日18日には受難日を迎えます。主イエスがわたしたちのためにしてくださったことをわたしたちはどれだけ自分のこととして受け取っているでしょうか。何も言わずに、十字架におかかりくださったこと、これは他の誰の身代わりとしてではなく、この私のために、十字架におかかりくださった、死んでくださったということが私たちの体に染み渡っているでしょうか。私の体が癒やされた、私の苦しみ、悲しみを受け止め、引き受けたくださったお方、その方にどれだけ、どのように想いを言い表しているでしょうか。2018年まで牧師を務められた鍋谷憲一牧師はその著書で「聖書はたしかに分厚いけれど、書かれていることは二言だけ。ごめんなさい、ありがとう。」であると書き残しておられ、まさに「ゴメンナサイ、ありがとう」というタイトルの説教集を残してくださいました。私たちの罪は主イエスが背負ってくださっている。そのことを思います時、本当に、神様、ごめんなさい、そしてありがとうございますというその二言しか発せされる言葉はないように思います。私たちは例えば、家族、身近な者が病になったらば、代われるものなら代わってやりたいと思います。それが小さな子どもであったならば、なおさらで、親は胸が締め付けられるようになり、自分の命と引き換えにして、というような思いまで持ちます。極めて自然で愛情に満ちたものでありますけれども、実際には決して代わることはできません。そのような思いはとても大きな愛情でありますけれども、身近な人の病、苦しみ、痛みさえ、背負うことのできないのが私たちなのです。けれども、主イエスは背負ってくださいます。私たちに背負いきれない病、苦しみ、そして罪を主イエスは背負ってくださった。そのようにして十字架におかかりになった方が私たちを癒してくださったのです。神様、私たちの罪を赦してください、ごめんなさい。そして、そのようにして私たちを癒してくださってありがとうございます、という言葉しか言えないのではないでしょうか。悔い改めと感謝の心を持って、主イエスの十字架を仰ぎ見るだけです。それが主イエスの求めておられることであり、天の父の御心であります。
■結び
私たち人間の罪は本当に深いものです。イザヤ書53章4節にありましたように、「わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだと」つまり、彼が神に対して罪を犯した、彼が悪いことをしたから、神に叩かれているに違いない、私たちはそのように考えるのです。実はそうではない、私たちの罪、病、悲しみを担い続けてくださっているのだ、ということに私たちは気がつかないのです。それが人間の罪深さです。しかし、この「私」を癒し、この私の罪を担ってくださり、この私のために、十字架におかかりくださったお方、主イエスに心からの祈りをお捧げする時、私たちは主イエスに仕える者として、人を愛することができる、主イエスが言われるような愛に生きることができるのではないでしょうか。それが私たちの信仰であり、愛は全てを完全に結ぶ帯である、と聖書がいう言葉の意味であり、その望みが私たちの信仰の歩みを支えるのです。主の御受難は私たちにとっても痛みであり、悲しみでありましたけれども、神は痛み、苦しみを受けられた主イエスを復活させてくださいました。私たちにはその喜びをも与えられているのです。次の主日は主のご復活の喜びを共に感謝を持って祝いたいと思うのであります。
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