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『罪人を招くために』 2022年6月26日

説教題:『罪人を招くために』 聖書箇所:マルコによる福音書 2章13節~17節 説教日:2022年6月26日・聖霊降臨節第四主日 説教:大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今回は2章の13節から17節という5節のみ言葉に聴きます。これだけの短い5節の中に繰り返される言葉があります。それは、「徴税人や罪人」という言葉です。15節には、多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。16節には、ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事されるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。と何度もこの言葉がセットで繰り返されているのです。徴税人や罪人が主イエスの周りにいて、食事を共にしていた、というのが今回の場面設定です。

この時代の徴税人とは、どのような人のことを指しているのか、まずはそれを明確にしておきましょう。14節には収税所という場所が出てまいります。今でいえば税務署とか、税関というような感じでしょうか。当時、ガリラヤの領主はヘロデ・アンティパスでした。そしてローマ帝国の支配下にありました。ここカファルナウムはシリア方面から地中海に通じる貿易の要所でした、旅行者や物品が頻繁に通る所だったのです。収税所と言われるいわば関所で、通行人をチェックしていたのが徴税人です。関税を払わなければならない物をこっそり隠して通り抜けようとする者を監視して、呼び止め支払わせるのです。ローマ帝国は自ら税金を徴収するのではなく、それぞれの地域住民にその任を請け負わせていました。ですから、徴税人は、異邦人である外国人のために仕事を請け負い、同胞やユダヤ人から徴収する。当時はきちんとした課税率などもきまっていませんでしたから、うまいこと取り立てて私腹を肥やす徴税人も大勢いたそうです。そのようなことが皆に知れておりましたから、彼らは周囲のユダヤ人からは嫌われておりました。今日の聖書に記されているように、「徴税人と罪人」というように対句的に用いられて差別され、社会的に見捨てられた人、交わりを断たれた人でありました。それにユダヤ教の律法では、ユダヤ人は異邦人と交わりをもってはならなかったのです。しかしながら、彼らは異邦人の仕事を請け負うわけですから、律法の清めの戒律からも外れていたのです。ましてや彼らはユダヤ人でありながら、みずからその職業に就いたわけですから、その嫌われ方は尋常ではなかったようです。


■徴税人レビ

さて、収税所にアルファイの子レビが座っていました。彼は通行人に目を光らせてみていました。脱税して通り抜けるものはないか、そのような鋭い、そして高圧的な眼差しを人々に向けていました。そして通る人々もまた、そのような高圧的な視線に対する反発や、本来同じユダヤ人でありながら、仲間を売るような仕事をしているレビに対する軽蔑の視線を送っていました。そのように両者ともに差別しあう、冷たい緊張した視線が飛び交っていたのです。

そして、そこにまったく違う眼差しでレビを見つめるお方がおられました。主イエスです。

主イエスはレビに「わたしに従いなさい」と言われました。「従いなさい」そう言われたレビは、「立ち上がってイエスに従った。」と書かれています。これは神から人への招きです。そのことにすぐに従う。主イエスの招き、召しに応えて、レビは新しい道へと歩み出したのです。レビの心にどのような変化が起きたのか、そのことは全く書かれていません。1章で4人の漁師を弟子にした時も、主イエスは同様のお言葉を彼らに掛け、彼らはすぐに従ったのでした。レビの人生は主イエスの語りかけによって一変しました。座っていた彼が立ち上がり、仕事を捨てて、主イエスに従うという新しい生き方を歩み出したのです。どうしてそのような新しい歩みを始めることができたのか、何を思って主イエスに従ったのか。さきほども申しましたように、福音書はそういうことを全く語っていません。福音書記者は弟子となった人の心の動きには関心を抱いていないのです。

しかし、私たちはその事ばかりを考えがちです。こう考えたから、こういう条件が整ったから、というような納得のいく説明を求めたがります。それは裏返して考えると、自分にはまだこういう条件が整わないから、主イエスに従うことができない、弟子になることができない、というような言い訳を探しているということです。しかし聖書が語るのは、私たちの側の都合ではなくて、主イエスが目を留められ、「わたしに従いなさい」というお言葉、そしてその呼びかけに応える、新しくされる、この事実だけです。人間は、人間を信じ切る事のできない存在です。完全に信頼できるお方、主イエス、その方の呼び掛けによってのみ、条件なしに立ち上がることができるのです。

立ち上がって主イエスに従ったレビは、喜びをあらわすためでしょうか、主イエスと弟子たちを食事に招きました。多くの徴税人や罪人も一緒であったことが書かれています。多くの徴税人というのは、レビの同僚でありましょう、「多くの」というからには2・3人ではなく、すくなくとも5・6人、それ以上、そして主イエスと弟子たちですから、10人以上、15人ぐらいを招いて食事をしていたと想像できます。徴税人はうまく取り立てて私腹を肥やしていた者もあったようだ、と申しましたけれども、こんなに大勢を招くことのできる豪邸があり、宴会を開くことができるということからも、実際、そのようにうまいことやっていたのではないかという思いも致します。彼らは不当な利益を得ていた、と人々からは見られており、ユダヤ教の律法に反する者たちとして、人々との交際は立たれていました。ところが、主イエスと弟子たちはそこに食事に招かれたのです。


■招きの食卓

食事をするときに、皆さまはどのような祈りをお捧げしますでしょうか。ご家族で祈られる時もあるでしょうし、お一人で祈られる時、友人と一緒の楽しい愛餐の時の祈りもあるでしょう。ドイツの古くからの食事の時の定型の祈りにこういうものがあることを教えてもらいました。「主イエスよ、来てください。私たちのお客になってください。そして、あなたが与えてくださったものをここで祝福してくださいますように。アーメン」短い祈りではありますけれど、とてもすてきな祈りです。主よ、来てください。どうか、ここでお客様として一緒に座ってください。ここでいただく食事はすべてあなたからいただいたもの、あなたがくださったものをどうかあなたが祝福してください。そうしたら、この食事は真に祝福されたものになるのです。と神様への感謝と賛美が語られているのです。

徴税人のレビがこのような気持ちで祈ったかどうか、聖書は記していません。しかし、レビはそう祈り願ったのではないかと思えてならないのです。主イエスを招きながら、主イエスによって、招かれていることの喜びに溢れていると言えるのではないでしょうか。主イエスが客人として来てくださったことで、自分がこの方によって招かれ、迎い入れられたことを喜んでいるに違いないのです。


■罪人

さて、ともに招かれた罪人とはどのような人のことを指すのかと言いますと、神の掟に背く生き方をしている人全部を指す言葉です。当時の人々は、正しい人か、罪人か、の二種類しかいないと考えていたようです。正しい人は神の掟に従って、自らの生活を整えている。正しくない人は神の掟に背いている、といった感じです。神の掟に背いている人、それはまず、ユダヤ人でない人です。外国人、聖書ではよく異邦人と表現されています。生まれながらのユダヤ人でない人は、律法を知らない、ゆえに罪人である、という論理です。もちろん、ユダヤ人の中にも泥棒であるとか、いわゆる犯罪者と言われる人はありましたが、当時の掟の定めというのは、もっと普通のことに厳しいものでした。たとえば、「安息日には働いてはならない」という掟があったことは私たちも知っていますけれども、それ以上に、「何歩以上は歩いてはいけない」とか、「料理をつくってはいけない」というように本当に些細なことまで決められていたのです。そして罪を犯す人がいないよう、見守り、チェックしている人たちがいました。それがここに登場しているファリサイ派の人々です。


■ファリサイ派の律法学者

ファリサイ派はユダヤ人の中でも厳格に律法を遵守していこうとするグループです。律法を守るということには変わりはないもののその中でも緩やかなサドカイ派など様々な党派がありましたが、ファリサイ派は民の指導者を自認しており、会堂や学校などで厳格な律法を教えるグループでありました。律法こそすべてであり、それを民に浸透すべく熱心に活動していた人々でした。律法学者という言葉は、今でいう法学者です。ですから、ファリサイ派の律法学者というのは、律法遵守を目指した厳格な理想主義者というように理解したらわかりやすいと思います。彼らは神のことについて本当に熱心でありました。掟を守る事について熱心でありました。律法を守ることは、神に聖別された者として、自らを聖く保とうとすることであり、それが彼らの信仰の目標でした。それゆえに、神について熱心でない人、律法について熱心でない人たちを自分たちと区別することで自分とその正しさを証明し、自分を確保していたのです。「私はあの人とは違う」という区別は、時に差別となります。大なり小なり、意図せず、時に意図して、私たちもしていることです。いじめの構造も同じでしょう。弱い者や低いと思う者を、安心していじめながら自分を確保するのです。ファリサイ派の人々は神様よりも律法を大切にし、その律法を守る正当性ゆえに自分を正しいとしました。私たちも自分自身の中にファリサイ派の要素があることに気付く必要があります。

主イエスも律法の教師、ラビと見られておりました。ファリサイ派の律法学者たちは、主イエスの教えに共感することもあったでしょう。その主イエスの正しさゆえに、自分たちに近いとおもっていたことでしょう。ですから、その主イエスが「徴税人と罪人」と食事を共にすることは、ファリサイ派の律法学者たちにとっては、耐えられないことでありました。それゆえに、弟子たちに向かって、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難の言葉を浴びせたのです。

ここで覚えておきたいことがあります。罪人であったレビが主イエスに従い、主イエスを家に招いたことで、主イエスはファリサイ派の律法学者たちから批判されました。このような律法学者の批判は前回の2章7節にも出てきました。この2章以降で、律法学者やファリサイ派の人々の主イエスに対する反感、敵意が大きくなっていくことが語られています。その敵意は、少し先取りになりますが、3章のはじめには「どのようにしてイエスを殺そうか」という相談を始めるまでになるのです。主イエスの十字架への伏線はこうして語られているのです。この日、レビが主イエスを家に招き、多くの徴税人、罪人たちをともに招いたことは主イエスの十字架とつながっているということです。罪の中にある者が新しく立ち上がり、新しく生きるために、罪のない神の独り子である主イエスがその罪を代わりに背負ってくださっていることがここにも記されているのです。


■結び

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」主イエスは病人のために来た。病んでいる人のために来た、と言われました。丈夫で健康な人には医者はいりません。医者を必要としている人は、病や苦しみを取り除いてほしいと願う人たちです。主イエスは神から離れ、苦しみや悲しみ、絶望の中にある罪人を神のもとに立ち帰らせて、神と共に生きる者とするために来られたのです。

「正しい人」はひとりもいません。ファリサイ派の律法学者たちは、律法を正しく守り、自分は正しいと信じ、そのことを誇りにして、他の人を裁いていましたが、正しく義なる御方は神のみです。本当はファリサイ派の彼らこそ主イエスが必要であるのに、そのことに気付きませんでした。

主イエスはすべての人を招くためにこの世に来られました。その罪を赦し、神のもとに立ち帰らせるためです。そして罪人に声をかけて招き、立ち上がらせるだけでなく、食事を共にして同じところに身を置いて下さるのです。主イエスが罪人のもとに来られ、罪人と食事を共にする、ということは罪のない神の御子ご自身が、罪人と同じになるということです。そしてその究極はご自身が罪人として十字架で殺されるということであります。

人が病んでいる状態、それは罪の中で生きている状態です。

この世のものに価値を見いだし、自分が正しいと思っている人生も病んでいます。

自分には価値がない、愛されていないと思う人生も病んでいます。

人を信じられず、愛を感じられず、孤独に生きる人生も病んでいます。

私たちのそのような病を癒すために、主イエスはこの世に人としてきてくださり、私たちを見つめて、「わたしに従いなさい」と語りかけ、招いてくださいます。

レビは宴会を開き、主イエスや徴税人の仲間、罪人を自分の家に招きました。しかし、そのように開かれた宴会は、実は、主イエスが宴会の主人であり、レビを、多くの徴税人を、罪人を招いて下さったのです。本当に招かれているのはレビでありました。

主イエスは今も、私たちを食卓に招いて下さっています。次週から聖餐の恵みが再開されることになりました。主イエスが用意してくださる食卓に共に与り、主イエスの招きに応答する者として歩みましょう。


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