説教題:『罪を赦すお方』 聖書箇所:マルコによる福音書 2章1節~12節 説教日:2022年6月19日・聖霊降臨節第三主日 説教:大石 茉莉 伝道師
■はじめに
主イエスは再び、カファルナウムに戻っていらっしゃいました。「家の中におられることが知れ渡り、」とあります。誰の家なのかはわかりません。しかし、この「家」はシモンの家で、姑のもてなしを受けていたのではないかと想像いたします。
数回前にシモン・ペトロの姑が癒され、治った姑は一同をもてなしたというお話をいたしました。その時に、シモンの姑は、この日だけではなくて、その後もずっと主イエスと弟子たちをもてなすようになった、いつもお仕えするようになった、という意味が含まれている継続的な意味を表わす言葉が使われていると申しました。ですから、主イエス一行はカファルナウムでは、シモンの家を定宿にしていたのではないかと思うのです。
「主イエスが戻っていらした」このことは町中にあっという間に知れることとなり、大勢の人が集まりました。戸口のあたりまですきまもない程になったとあります。おそらく前回は時間がなくて癒してもらえなかった病人や悪霊の追放を願う人々が押し寄せてきたのでしょう。また、癒しの奇跡を直接に見たいと思った人たちもいたのではないかと思われます。そんな人々に対して、主イエスは御言葉を語られました。主イエスの癒しの御業を求める人々に対して、主イエスがなさったことは、御言葉を語ることでありました。主イエスの活動の中心は、常に「御言葉を語る」ことであり、それに伴って癒しの奇跡が行われたのです。まず、「宣教」がなされ、そして「癒しの御業」があるのです。
主イエスはどのような御言葉を語られていたのでしょうか。その語られた御言葉の中心は、1章15節にある「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」です。今日の中風の人の癒しもこの御言葉に照らしてみてみたいのです。
■四人の男
そうして主イエスが御言葉を語り、多くの人々が耳を傾けていた時、ちょっと私たちでは想像できないことが起こります。四人の男が中風の人を運んできて、主イエスがおられるあたりの屋根を引きはがし、寝ている床ごと吊り降ろした、というのです。中風の男は、手足が麻痺して半身不随となっていました。自分では立つことも歩くことも、起き上がる事すらむずかしかったようです。
当時の家の構造はどうなっていたのでしょうか。パレスチナの家は外に階段がついていて、屋根は平らで、屋上のようになっていて登ることができました。屋根は梁と垂木の上に取り付けられて、粘土で覆われており、筵や小枝でできていました。ですから、屋根をはぐことや穴をあけるということは簡単にできたようです。しかし、簡単にできると言っても、穴をあけるのみならず、中風の病人を床のまま主イエスの真ん前に吊りおろしたという常識はずれの行動が行われたのです。主イエスの話を聞いていたら、突然に、天井からパラパラと泥が落ちてきて、そのうち穴が開きました。空が見えます。その穴はあっという間に大きくなり、メリメリと天井が剥がされたと思ったら、あれよあれよという間に病人を寝かせた床が、四隅を吊るされて降ろされてきたのです、その場に居合わせた人々はその光景に驚いたことでしょう。
■彼らの信仰
当時の人たちにとっても、これは大胆な行動です。人の家の屋根を勝手に壊して、人を中に吊り下げるなどということは、誰がどう考えても全く非常識な行いでありましょう。普通ならば、入るために順番を待つとか、主イエスが出て来られるのを待つ、これが常識的なやり方ではないでしょうか。しかし、この4人の男たちは、集会が終わるのを待てず、人の家の屋根を壊して主イエスの前に吊り降ろすという行動にでました。病気の男は、おそらくもう長い間、寝たきりの状態であった事でしょう。急に病気になったとか、命に係わるような緊急性を要する病気ではなく、おそらく寝たきりであることが日常のようなそんな生活をしていたはずなのです。その病気には緊急性はありませんでした。それにもかかわらず、彼ら4人の男たちは屋根を壊し、主イエスの前に病気の男を吊り降ろすという非常手段に出たのです。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という主イエスのお言葉は、いわば緊急事態宣言ともいえるお言葉です。神様のご支配の完成の時が近づいている、迷っている時間はない、というお言葉なのです。それを聞いたならば、すぐに行動に移す必要があるのです。「ふ~ん」とのんびり構えている場合ではありません。この4人の男たちの非常識と思える行動は、主イエスの緊急事態宣言に応答する行動なのです。それは5節の言葉に裏付けられています。「イエスはその人たちの信仰をみて」と書かれています。主イエスならば治していただけるという確信や、病気の友人への隣人愛、いろいろと考えることはできますけれども、「時は満ち、神の国は近づいた。」という主イエスのお言葉に、具体的に緊迫感をもって応答したということなのです。そのことを主イエスは、彼らの「信仰」と言っておられるのです。
■罪の悔い改め
彼らの信仰をご覧になった主イエスは、中風の男に向かって「子よ、あなたの罪は赦される」とおっしゃいました。連れてきた4人の男、そして病いの癒しを求めていた本人、そこで見ている人たち、すべての人たちにとって、それは意外で、期待外れともいえる主イエスのお言葉であったと思います。おそらく今、これを読んでいる私たちも同じような思いを持つのではないでしょうか。汚れた霊を追い出したように、重い皮膚病の男を癒したように、この中風の男に対しても主イエスが触れるか、何かをおっしゃるかによって、癒されることを皆が期待していたのです。しかし、主イエスは癒しの御業ではなく、罪の赦しを宣言されました。主イエスの「時は満ち、神の国は近づいた」に続く神の国宣教のお言葉は、「悔い改めて福音を信じなさい。」であります。これは罪の赦しの宣言です。ですから、主イエスの神の国宣教のお言葉を聞いた4人の男たちが連れてきた中風の男に向かって、主イエスが罪の赦しを宣言されたのは、まさに「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということのつながりで考えたら、意外でもなんでもないのです。
しかし、これを聞いていた律法学者は、心の中で言いました。「罪の赦しは神のみに与えられた権限。それなのになぜ、このナザレの一介の大工の息子にすぎないというイエスはなぜ、このようなことを言うのだろう。神への冒涜ではないか」そんな律法学者の思いを主イエスはご自身の霊の力で見抜かれました。そして問われます。9節です。「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。
さて、どちらが易しいでしょうか。彼ら、そして私たちも実は心の中では、「あなたの罪は赦される」という方が簡単である、と思ってしまうのではないでしょうか。なぜならば、「起きて、床を担いで歩け」と言って、実現しなかったら、それは偽りの癒しということが明らかになるけれども、「あなたの罪は赦される」ということは、目の前で何かが変わるわけではないから、なんとでもなる、簡単なことではないかと。律法学者たちは、イエスは口先の言葉で人々を引き寄せようとしている、と考えていました。そしてここからわかることは、彼ら、律法学者たちは、口では、「罪の赦し」は神様しかできないこと、と言ってそれを大切にしているようでいて、実はそれを重んじておらず、実際には、具体的な病気や障碍が治る事の方が大切だと考えていたということです。律法学者たちの姿は私たちの心の一面をよく表しています。実は、私たちも同じように、主イエスに「あなたの罪は赦される」と言っていただくよりも、目の前の苦しみや辛さを解放してもらうことのほうを求めてしまうからです。
■あなたの罪は赦される
主イエスは、そのようにして律法学者や私たちの心を抉り出します。そしてこう言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」そのように言われると、その人は、主イエスのお言葉通りに起き上がり、そして自分ですぐに床をかついで帰っていったのです。
主イエスはわざわざ、ご自分のことを「人の子」とおっしゃいました。ダニエル書7章には、人の子が権威を受け、その支配はとこしえに続くことが記されています。13節、14節です。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り/『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」当時の律法学者がそのことを知らないはずはありません。主イエスのお言葉によって実現した奇跡は、主イエスが罪を赦す権威を持っておられる方であることを知らせるためになされました。主イエスによって、罪が赦される、このことは何を表しているかと言えば、神が私たちに恵みを与えて下さるということです、このことを主イエスは人々に告げ知らせようとされているのです。それこそが良き知らせ、福音です。
主イエスが持っておられる罪の赦しの権威は、具体的にどのようにして発揮されたか、私たちはそれを良く知っています。十字架にかかってご自分の命と引き換えにしてくださいました。ですから、「あなたの罪は赦される」というお言葉は、決して抽象的なものではなく、主イエスご自身の十字架の死によって、流された血によって具体的なものになっているのです。そこまでたどり着きますと、「あなたの罪は赦される」ということは「起きて床をかついで歩け」ということよりも、はるかに難しく、大変なことであるのかがわかるのです。罪の赦しは、主イエスが十字架にお架かりになってくださることで実現することだからです。「子よ、あなたの罪は赦される」という主イエスのお言葉は、この男ひとりに与えられたものではありません。私たちすべてに向けて言われたお言葉であります。そして言葉を補ってわかりやすく申しますと、「子よ、あなたの罪はすべてこのわたしが引き受ける。そしてわたしは十字架にかかる。それゆえに、あなたの罪は赦される。」なのです。ただの言葉ではなく、主イエスご自身によって実現する福音として響き渡り、私たちを生かしてくださる言葉なのです。
■結び
今日の場面は、シモンの家と勝手に想像いたしましたけれども、その家でのことでした。そこには実に多くの人がおりました。そもそも戸口のあたりまですきまもない程であったのです。そのすべての人たちの前で、主イエスの「子よ、あなたの罪は赦される」というお言葉は発せられました。そして続く、「床を担いで帰りなさい」というお言葉、寝たきりであった男が歩き出す様子、それらをその場にいた人たちはすべて見ていました。彼らは、「皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って神を賛美した。」と書かれています。驚きではあったでしょう。しかし、彼らが驚嘆したのは、罪の赦しに対してではなく、病の癒しを目の前で見たことでした。
詩編41編4-5節にはこう書かれています。「主よ、その人が病の床にある時、支え/
力を失って伏す時、立ち直らせてください。わたしは申します。「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒して下さい。」この詩編の作者もはじめに罪の赦しを求め、そして次に病の癒しを求めています。今日の男もはじめに罪の赦しを宣言され、そして癒されたのです。罪の赦しという目に見えないものよりも病の癒しという目に見えるものを求める私たちですが、この病の癒しに先立ち、神の出来事としての罪の赦しがあるのです。
そして私たちは、主イエスのように癒しを行うことはできませんが、主イエスの前に中風の人を運んだ4人の男たちにはなりえます。「時は満ち、神の国は近づいた。」と言う主イエスのお言葉に応答し、主イエスの前に人を運ぶ、その先は赦しと癒しを主イエスにお委ねする。私たちの教会が、シモンの家となり、癒しと、そして罪赦される場となることを覚え、主の僕として用いていただける幸いに感謝し、それぞれの場に派遣されて参りましょう。
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