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『罪の歴史を断ち切るお方』 2024年7月7日

説教題: 『罪の歴史を断ち切るお方』 

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書53:1-12(旧1149ページ)

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書1:1―17

説教日: 2024年7月7日・聖霊降臨節第8主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

今日から再び福音書から説教をいたします。福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと4つの福音書があり、このマタイ福音書は新約聖書の始まりに置かれているわけです。それはなぜなのか、またこのマタイ福音書の中心メッセージは何なのか、そのようなことも見てまいりたいと思います。福音書とは福音を告げる書、つまり、良き訪れを告げるものということでありますが、この福音書はどのようなメッセージを届けようとしているのか、そして今日のこの始まり。ひたすら名前のつづく系図に込められた喜びの知らせとは何なのか、今日からマタイ福音書を紐解いてまいりたいと思います。

 

■マタイ福音書の成立

福音書が書かれた時代、それはいつ頃であったかと言いますと、一般的にはまずマルコ福音書が紀元70年ごろ、そしてこのマタイとルカが80年代と言われています。マタイとルカはマルコ福音書をもとにしてそれぞれの使信、つまり福音書記者と言われる人のメッセージを入れて編集したものです。これらの福音書は主イエスのお言葉や行いを伝えてはいますが、目撃者による忠実な記録ではありません。主イエスの弟子たちが指導者となってできた初代教会の第一世代から次の第二、第三世代が活躍するこの1世紀のユダヤとはどのような時代であったのかといえば、ローマの圧制のもと、苦しい生活を強いられていました。また、皇帝ネロによるキリスト教迫害(ローマの大火、AD64年)、さらにユダヤ戦争(AD66-73年)、エルサレム神殿の崩壊(69年)という時代でありました。エルサレム神殿の崩壊という出来事は、キリスト教がユダヤ教というこれまでの拘束から解放されて、社会的にもユダヤ民族の枠から抜け出るという歴史の始まりでもありました。そしてパウロもそうであったように、自分たちが生きている間に主イエスの再臨が来ると人々は待望していましたが、その時がなかなか来ない、それはいつなのか、と待たれ、そして主イエスと共に生きていた使徒たちが召されていく中で、人々は使徒たちが伝えたイエス・キリストについての証言を自覚し、正統的キリスト教への道を切り開こうとした、そんな混乱の時代に書かれたものであったのです。

 

■著者マタイ

さて、このマタイ福音書を著したのは「マタイ」と言われる記者ということになるわけですが、福音書そのものには著者に関する記述はありません。教会の伝統としては取税人であり、主イエスの招きに従って使徒となったマタイが著者であるとされています。この福音書からわかることとしては、ユダヤ人に向けて書かれていること、著者は教養あるユダヤ人キリスト者であり、旧約聖書についての知識があり、律法学者の伝承に通じていることが挙げられます。また、私たちは日本語の聖書を手にしていますが、その元々の聖書では、このマタイ福音書は流暢なギリシア語で書かれており、ヘブライ語からの翻訳ではないと考えられます。それはヘブライ語では表現できないギリシア語的な文法表現、文体が見られるということが根拠として挙げられています。そして、ちょうど私たちは今年度から毎回の新約聖書の説教において、旧約聖書を共に見ておりますけれども、このマタイ福音書には、「主が預言者を通して言われていたことが成就するためである」という表現が見られます。「預言者の言葉の成就」この言葉によって、このマタイ福音書を読む人々は旧約聖書の世界、環境、思想、とのつながりにおいてこの福音書を読むということになるわけです。旧約聖書のこのことからもこの著者は旧約聖書に通じており、この福音書のメッセージとして旧約聖書との連続性、旧約聖書との繋がりを示していると言えるのです。この「成就するためである」という言葉からわかりますことは、著者マタイにとって、旧約聖書はキリストの預言の書と理解していたということです。旧約聖書の律法は、神の聖なる意思を指し示すものであり、それは実践されなければならないものでありました。5章17節に象徴的な表現があります。主イエスのお言葉であります「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスは旧約の完成者としていらしたのだ、というのがマタイの意図するところなのです。

 

■系図というもの

さて、マタイ福音書の全体像をおさえたところで、やっと今日の御言葉から聞きたいと思います。今日の箇所は皆様がよくご存知の系図の箇所であります。教会では去年12月、アドヴェントにこのマタイ1章から2章の主イエスの誕生の箇所を説教いたしました。というように、この箇所は主イエスの出生にまつわる箇所であり、クリスマスの時期には開かれる箇所であります。しかしながら、この1節から17節の系図のところは、名前の羅列であり、それで?だから?というように読み飛ばされてしまうことの多い箇所でもあります。しかし、マタイはなぜ、この福音書の始まりに系図を長々と記すことから始めたのでしょうか?主イエスの系図はルカ福音書にも記されていますけれども、マタイはアブラハムから始まり、ずっと下ってきて、マリアの夫ヨセフへ。このマリアからメシアと言われるイエスがお生まれになった。とあります。ルカではイエスはヨセフの子と思われていた。ヨセフはエリの子、さかのぼって、ヤコブ、イサク、アブラハム、・・・ノア、エノシュ、セト、アダム、そして神に至る。となっています。そしてその登場する名前を見てみますと、ほとんどと言っていいほど異なった名前が記されています。これはどうしたことか、となるわけですが、一般的に言われていますのは、マタイはヨセフの父、その父、の名前を記す、つまりヨセフの家系図を記録しており、ルカはマリアの父、その父、というようなマリアの家系図が示されているということです。確かに人は父と母から生まれるわけですから、当然、遡るべきルーツは常に二筋あるわけです。系図は木を逆さまにした逆ツリー型で示されるわけですが、それをこうして言葉として書き記そうとしたならば、確かに一筋ずつしか表現するという形になるのでありましょう。

 

■マタイの系図

系図というものは基本的に男性の中心のものであり、あえて言えば、女性は誰でも良いという存在でありました。そのような系図、このマタイの系図にはマリアをのぞいて4人の女性が登場いたします。2節に記されます「アブラハムはイサクをもうけ」とありますが、これが「アブラハムはサラによってイサクをもうけ」というように信仰の母と言われるサラが登場するのであれば、なんの問題もなく受け入れられますが、サラは登場しません。そして、3節「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とあります。タマルはユダの義理の父でありました。長男の嫁であったタマルでしたが、跡継ぎが与えられないまま、夫が亡くなり、本来であれば、次男の嫁にですが、この次男も死んでしまいました。残る三男を舅のユダはタマルに与えませんでした。そしてタマルは娼婦に変装し、ユダと関係を持ち、タマルは妊娠。ユダはタマルの不貞行為を責めますが、実は自分の子供であることがわかり、タマルに謝罪する、という内容が創世記38章に記されています。「ユダはペレツとゼラをもうけ」と記してもよさそうでありますが、聖書にははっきりとタマルの名が残されているのです。そして二人目は5節のラハブは娼婦、ルツは異邦人。異邦人の名前をはっきりと記すというのは、普通では考えられないことでした。そして6節には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」と記されています。これはとてもおかしな書き方であることは皆さんもお分かりになることでしょう。ダビデとウリヤの妻、バト・シェバのことはサムエル記下11章に記されている有名なダビデの罪の物語であります。ダビデの部下ウリヤの妻、バト・シェバに目を止めたダビデは人妻を奪い、さらにウリヤを激戦地に送り戦死させ、バト・シェバを妻にいたしました。当然、それは神の御心に叶うはずはない、ダビデの犯した大罪であります。そのような出来事がこの系図にははっきりと書かれています。「ダビデはソロモンをもうけ」ではなく、「ダビデは人妻によってソロモンをもうけ」と書かれているということです。このようにこの系図には、人間の罪がはっきりと記されています。書き方に一工夫加えれば、表面的には罪を覆い隠した系図にすることができます。しかしながら、この系図はむしろその部分をあぶり出すかのように記されています。つまり、この系図は人間の罪の歴史としての系図であるということです。

 

■系図の終わりに

アブラハムはイサクを、イサクはヤコブを、ダビデはウリヤの妻によってソロモンを、ソロモンはレハブアムを、というように規則性を持って示されてきたこの系図でありますが、最後まで読み進めてまいりますと、16節が浮き立って見えてくるのではないでしょうか。16節、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」前半のヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。これは今までの表現と一緒です。注目したいのは後半です。今までのパターンに従ったとするならば、「ヨセフはマリアによってイエスをもうけた」というように書かれていてもよいのではな以下と思いますが、そうは書かれておりません。「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」とあります。これは今までのパターンを変える表現です。先ほど、この系図は罪の歴史の系図である、と申し上げました。そのように脈々と繋がる人間の罪が赤裸々に書かれたものであるからです。しかし、この系図の最後、16節、ここに示されているのは、神がこの人間の罪の歴史に介入なさり、処女マリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった、ということです。そうして初めて今までの罪の歴史が断ち切られ、新たな時代が始まったということが示されているのです。

 

■結び

人間の罪の連鎖は、脈々と続いてきました。しかし、神はその罪の連鎖を断ち切るために、主イエスを人としてこの世に送ってくださいました。私たちでは決して断ち切ることのできない罪を、御子イエスが私たちの罪を終わらせるために、そのために神が介入してくださったのです。このただ名前の羅列の系図、その人から人への連続には解決はありませんでした。アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンの移住、エコンヤまでが14代、そしてエコンヤからの14代目の主イエスにおいて、その罪の歴史が断ち切られることになったのです。アブラハムの選びに始まるイスラエル民族の歴史全体は最終的に主イエスへと導かれ、そして主イエスにおいて完成することがこの系図には示されています。この系図がそのような驚くべき神の壮大なご計画を表していると知る時、救いは私たち人間の中から出てくるのではなく、ただ神によってのみ、神の介入によってのみ可能であるということを改めて知るのであります。そして主イエス・キリストの十字架の贖いの御業に改めて感謝し、主イエスの系図に連なる僕として歩みたいと心から願います。

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