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『終わりの時に与えられている約束』 2023年8月6日

説教題: 『終わりの時に与えられている約束』  聖書箇所: マルコによる福音書 13章14~27節 説教日: 2023年8月6日・聖霊降臨節第十一主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

このマルコによる福音書13章は小黙示録と言われておりますと申しました。前回はその第一段落から聴きました。この世の終わりはいつ来るのか、そしてどのようなことが起こるのか、弟子たちの問いに主イエスがお答えになっておられます。前回の1節から13節では、戦争やのうわさや地震、飢饉、民は民に、国は国に敵対する。しかし、それらのことはこの世の終わりではない、これらの苦しみは産みの苦しみである、だから慌てふためくな、忍耐して歩みなさい、と言っておられました。そして主イエスは今日の箇所でそれに続く大きな苦難を予告しておられます。


■憎むべき破壊者

さて、今日の箇所では14節、「憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つのを見たら」と言う言葉で始まります。聖書並行箇所のマタイ24章15節を見ますと、「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら」と書かれております。ダニエル書は、バビロン捕囚の時代に活動した預言者ダニエルによるものです。ダニエル書11章31節に「彼は軍隊を派遣して、砦すなわち聖所を汚し、日ごとの供え物を廃止し、憎むべき荒廃をもたらすものを立てる。」とあります。

紀元前2世紀、セレウコス朝の王アンティオコス4世エピファネスはプトレマイオス朝を圧倒してユダヤを支配下に治めました。そして彼は神殿の祭壇の上にゼウスの像を建てたのでありました。そしてこのことをきっかけにユダヤ全土に迫害の火の手が燃え上がり、ついに紀元前164年、ユダ・マカバイの反乱が起こりました。このことは旧約聖書続編マカバイ記Ⅰの1章41節以下にも記されております。旧約聖書続編と言いますのは、1世紀末にユダヤ教において聖書の正典を定める時に受け入れられず、今、わたしたちが使っている聖書の39の文書(もんじょ)には入っていないものです。しかし、歴史記述、知恵文学など幅広い様式で書かれた宗教的文書です。このマカバイ記Ⅰの1章54節に「王は祭壇の上に『荒廃をもたらす憎むべきもの』を建てた。」と記されております。

マルコは14節で、―読者は悟れ―と挿入句を入れて、読む人たちの注意を促しています。おそらく、当時の読者は、今お話しいたしましたアンティオコス4世のような独裁者、そしてまた、ローマ皇帝のような人物を思い起こしたことでありましょう。それから2千年の歴史において、「憎むべき破壊者」が立ってはならないところ、具体的な場所としてはエルサレム神殿、そして、神殿は本来、神が立たれる場であったにもかかわらず、人間が支配するために用いてきたのでありました。エルサレム神殿のみならず、本来は神の立たれる場所に人間が立つのを人類は何度目撃したことでありましょうか。人間の歴史はそのような罪を繰り返してきました。―読者は悟れ―今、このマルコ福音書を読んでいる私たち読者も、世界大戦におけるヒットラー、また、北朝鮮やロシアの問題など、立ってはならないところに立つ人の姿を思い浮かべます。そしてそれがどれだけ大きな苦しみを引き起こしているか、実際に知っていることなのです。大きな苦難は憎むべき破壊者が立ってはならないところに立つ、そのことによって起こるのであり、それは決して今のわたしたちと無縁ではありません。


■避難命令

そのような憎むべき破壊者が現れたら、すぐさま逃げよ。主イエスはそのように言われます。ユダヤにいる者は山へ逃げよ。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうと中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。まさにこれは緊急避難命令です。当時の家は外の階段で屋上に上がることができて、そしてそこは平らになっており、休息や祈りの場として使われました。この屋上にいる者はこのままそこにいなさいと言う意味ではなく、この外階段からそのまま逃げよ、何かを取りに家の中に戻ってはならない。同じように、畑にいる者は、働くときには脱いでいて寝る時に必要となる上着を取りに帰ってはならない、と一刻を争うことであると言われるのです。そして主イエスはそれらの日に対処することのできない身重の女性、乳飲み子を持つ母親は不幸だと言われます。本来、子供を持つことは女性にとって神の最も大きな祝福でありました。しかし、終末の日には、祝福は祝福ではなくなってしまうのです。身重の女性や乳飲み子を持つ母親たちは体力が元々ないのです。走って逃げることもできません。子供を抱えて逃げるということは大変なことであります。そしてこのことが冬に起こらないように祈りなさい、と続きます。私たちは東日本大震災の時の光景を思い出すのではないでしょうか。3月11日、暦の上では春とはいえ、東北はまだ寒さの厳しい時でありました。まさに着のみ着のまま、命の助かった方々が寒さに凍える様子が今でも目に焼き付いております。ユダヤでは少し光景は異なり、冬は雨季であります。山岳地帯に降った雨が平地に流れ込み、日ごろの川は水なし川であるのが、冬は激しい流れとなるのです。道はぬかるみ、谷間に洪水が起こったりするのです。そうなると逃げるに逃げられません。冬に起こる災害は厳しいものとなってしまうからです。ここで主イエスが「祈りなさい」と言われておりますのは、とても意味深いことです。まさに私たちは神の配慮を祈ることだけなのです。


■選ばれた人々へ

主イエスは次の19節20節でこう言われます。「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来る。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主はご自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださった。」今後も決してないほどの苦難が来る、と訳されております言葉は、原文では「それらの日々は苦難である」でありますので、苦難の日々が続く、毎日が苦難となるという厳しい現実を表すお言葉であります。しかし、わたしたちはその前半部分に目を留めるべきでありましょう。その厳しい苦しみや悲しみが続く世界、それは、神がお造りになった世界であるという創造、この世界がどなたのものによるのか、という揺るぎない世界を思い起こさせてくれます。そして、「主がその期間を縮めてくださらなければ」とも言われています。主である神は、選ばれた人々のためにその苦難、悲しみの期間を短くしてくださると言われるのです。これは神の深い愛の配慮であります。創造の時、神に似せて造られたにもかかわらず、神から離れ、神を知りながら神をあがめず、罪の中に生きる人間に対し、神は苦難という形で神の義を示されます。この人間の悲惨さは、罪に対する神の義の表し方なのです。そしてそのように裁きを示されながらも、神は人間に救いの道を用意されるのです。「主が縮めてくださる」この言葉は原文ではもっと明確に、「切って短くする」という意味です。神が苦しみの期間を切り捨ててくださるのです。この聖書では短い表現の中に、苦難の大きさ、人間の弱さ、そして、神の愛、神の配慮がはっきりと示されているのです。この「選ばれた人々」は旧約聖書においては、イスラエルの民を示しますが、主イエスの時代からは、主イエスに従う、主イエスを信じるキリスト者を指しているのは言うまでもありません。主イエスご自身がこの20節、22節、そして27節で、「選ばれた人たち」と深い愛を持って呼びかけておられるのです。


■偽預言者の惑わし

だから「あなたがたは気をつけていなさい。」と5節の終末の徴を語り始めた時と同じ言葉を繰り返されます。というよりも、この終末についての始めと終わりを「気をつけなさい」と言う言葉で締め括っておられると言ったほうが良いでしょう。「気をつけなさい」と訳されております言葉は、「きちんと見る」「見極める」という意味であります。偽メシアを信じるな、惑わされるな、と主イエスは言われます。人は弱さを覚えております時、藁にもすがる思い、と言う言葉がありますように、心地よく聞こえてくる言葉や、心地よく見えるものに心惹かれるものであります。しかし、主イエスははっきりと、ご自分以外はにせ者、本物のわたしがここにいて、この事を今、あなたがたにはっきりと言っておく、だから、それ以外の救いの言葉はすべて偽物なのだ、この事をきちんとわきまえておきなさい、と言われるのです。不思議な業で惑わし、力があるように見えても、それは見せかけであって、そこにわたしはいない、わたしを信じなさい。と主イエスは言われたのであります。


■人の子は来る

主イエスは24節から大いなる希望をお語りになられます。苦しみの後、どうなるのか。苦難は何のためなのか。世の苦しみの頂点を経て、罪と死に支配された古い世界は終わりを迎え、主イエスによる救いの恵みが実現するのです。そのことがここで力強く断言されているのです。「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。その時、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」預言者ダニエルもこのように記しています。ダニエル書7章13節、14節です。「夜の幻をなお見ていると、見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。」

私たちはこの「人の子」であられる主イエスが再び来られ、そして、選ばれた人たちとして私たちを呼び集めてくださる。その支配は永遠に続くものであり、滅びとは無縁なのです。このダニエルの見た幻、それによって記した預言はいい加減なものでしょうか。主イエスが語られたお言葉、それも単なる幻でしょうか。私たちの日本基督教団信仰告白の最後は「主の再び来たりたもうを待ち望む。」と締めくくられておりますけれども、この言葉は単なる「かもしれない希望」なのでしょうか。


■結び

主イエスが神の子であられること、救い主であられること、再び来てくださること、私たちを呼び集めて下さること、これらすべてを目に見える形で証明することはできません。主イエスは「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。」と言われるのです。私たちはその時、「見る」のであります。それを信じることがわたしたちの信仰です。目に見えない主イエス、目に見えない神様の支配、それを信じること、それが私たちの信仰です。この主の約束を信じる。最後の勝利は神の愛。私たちは神の選びの中にあることを確信して生き続けることができる、それが大いなる幸いであります。私たちに与えられている希望は「かもしれない希望」ではなく、確実な約束なのです。主が選び集めてくださった私たちは、教会の群れとしてそれを共に信じ、共に祈り支え合ってきたのであります。弟子たちが湖の上で舟を漕ぎあぐねて怖れを感じている時、主イエスはそばに行かれて、「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」と言われました。逆境にあっても、苦難、悲しみの中にあっても、主イエスは共におられ、恐れることはないと私たちに呼びかけてくださるのです。この世界にあるもの、いつかはすべてなくなります。形あるもの、いつかは消えます、消え去るのです。しかし、世の終わりの時にも、私たちに約束されているのは、滅びではなく、新しい命であり、そして主が共にいてくださること。天体が揺り動かされる時にも、私たちは揺り動かされることなく、主の支えがあるがゆえに立つことができるのであります。この幸い、平安に心から感謝いたします。


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