top of page

『種は蒔き続けられる』2025年10月26日

  • NEDU Church
  • 13 時間前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『種は蒔き続けられる』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:8-11

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書13:1-23

説教日: 2025年10月26日・降誕前第9主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

前回、共に聴きました12章の最後のところでは「外に立つ」ということが主イエスの母・兄弟たちによって示され、一方、主イエスと共にいる関係、天の父の元に集められている新しい家族としての歩みがその対局として語られていました。外に立つ者としての母・兄弟たちに対して厳しいお言葉を語られました。今日の箇所では、主イエスが「種を蒔く人」について、たとえで語られ、弟子たちにたとえを用いて話す理由を話され、「種を蒔く人」のたとえについて説明されるという3部構成になっています。たとえ、理由、説明という形で語られていますが、別の点にも目を向けたいと思います。それはたとえを群衆に語られ、理由と説明を弟子たちに話されたということです。それは前回の内と外ということともつながっているようです。つまり、同じ船に乗っている弟子たちと岸辺にいる群衆という位置関係です。たとえを外にいる群衆に向けてお話しされ、理由と説明を内にいる弟子たちにお話ししておられます。そのような視点からも今日の御言葉を聴いてまいりたいと思います。

 

■種蒔きのたとえ

3節から種蒔きのたとえが語られております。読めばわかる種蒔きのたとえです。私たちは種蒔きといいますと、まずは土を耕して、そして畝を作るというのが基本でしょうか。つまり、作物が育つように、土を盛り上げ畝を作って、そして畝に沿って等間隔で種を蒔いていくというイメージでしょう。しかしながら当時の種蒔きは家畜が種の入っている袋を背負って歩くというものでした。そして袋には穴があいているので、家畜の歩くその道筋に種が蒔かれる、蒔かれるというよりは袋から落ちるという仕組みでした。今日の御言葉の4節でも「種が落ち」とあるのは、まさにその通り、落ちるのです。そしてそのあとで、畑を耕すということだったそうです。ですから、しっかり土があるところばかりではなく、道端にも落ち、土の少ないところにも落ちる。茨の中にも落ちて、そこは耕すことはできないというわけです。そのようにして蒔かれた種、道端に落ちたものは鳥に食べられてしまいました。石だらけで土の少ないところに落ちたものはすぐ芽を出したものの、根をしっかり張ることができず、強い陽の光に負けて枯れてしまいました。茨の間に落ちたものは茨に遮られて成長することができませんでした。しかし、良い土地に落ちたものは、実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなったと言うのです。「耳のある者は聞きなさい。」このように主イエスは語っておられます。さて、たとえでありますから、何かのことがこの種蒔きにたとえられているわけです。さて、このたとえ話での種とは何であるのか。そのことは18節以下に示されています。

 

■福音の種

蒔かれた種とは御言葉。主イエスの語られた御言葉であります。つまりこの譬え話は、御言葉を聞いて、どのように理解するか、そしてさまざまな妨げに負けずに実を結ぶことができるか、と言うことが語られています。この譬え話はとてもわかりやすいものであると言えましょう。主イエスは天の国は近づいたと告げられました。この良き知らせ、福音を信じなさいとも言われました。そのような良き知らせ、福音という種はそれが蒔かれたところによって、その行方は異なるのです。私たちもこうして主の日ごとに、もしくは毎日、御言葉に触れ、御言葉を聴くと言うことを経験しています。耳で聴いて、頭で理解し、そして心に染み入っているでしょうか。4節からのたとえで4種類の種が示されました。第一は、道端に落ちた種です。道端というのは、人やそこを通る車などによって踏み固められていますから、根を下ろす余地はなく、当然ながら芽を出すにも至りません。そこでは福音は受け入れられないということです。そのような種は鳥たちによって食べられてしまいます。19節で悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取るという説明がなされています。第二は、石だらけで土の少ないところに落ちた種です。すぐに芽を出すものの、石に阻まれてしっかりと根を張ってはいません。太陽熱で結局枯れてしまうと言います。確かに何か悩みがあったりして、教会で癒されることを感じて、通ったものの、その悩みが解決した途端に教会へ行く意味を感じなくなってしまうということがあります。教会はその人にとってなくてはならないものではないというケースでありましょう。第三は茨の中に落ちた種です。この土地に落ちた種は芽も出しますし、根も張ることができます。しかし、茨に塞がれてしまうのです。茨とは外からの誘惑ということでしょう。ちょうど茨が伸びてきた茎を塞ぐように、さまざまな誘惑に負けてしまうということです。ここでは世の思い煩いや富の誘惑として示されています。私たちの生きるこの世はそのような誘惑に満ち満ちていると言えましょう。誰もがさまざまな誘惑と無関係では生きることができません。「思い煩い」と訳されている言葉は、6章25節で主イエスが言われた「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」の「思い悩む」と同じ言葉です。私たちは自分の命や、生活のことなどで不安になったりして、思い悩み、何とかしなければと思ってしまうのです。そのようなことと共に、私たちを誘惑が襲います。お金にまつわる美味しい話などはその代表です。誰もがお金と無縁には生きていけませんから、その持つものをうまく活用したいと思うのは自然なことであり、必要なことでありましょう。しかし、お金を増やすことが目的となった時、お金に支配され、お金の奴隷となり、本来の目的を見失うという愚かなことが起こります。そのような時、その中心は神ではなく、お金だけに目が向き、思いは神から離れているのです。さまざまな誘惑はそのように私たちの思いを神からそらせて、神とは別のものを見つめさせようとし、別のものに頼らせようとします。そうしてそのような別のものに目が向いた時、私たちの中に蒔かれた種、主イエスの御言葉は育つことはありません。信仰は育つどころか、遮られて枯れる、ということです。そして最後、第四、良い土地に蒔かれた種です。御言葉を聞いて悟る、と書かれています。良い土地に蒔かれた種は芽を出して、根を張り、育ち、そして実を結ぶようになる。つまり、人の心に染み込んだ御言葉は信仰として育ち、主イエスと共に生きる、ということです。

 

■すでに良い土地である私たち

このように4つのタイプを聞きますと、自分はどれに当てはまるだろうか、と考えます。どれもが当てはまるようにも感じます。時には自分から神に背を向ける自分がいて、それはまるで石だらけの土地に蒔かれた種のよう。そして時には誘惑に負け、神から離れてしまう私がいる、それは茨に遮られた種のようだと思うのです。最初に示された3つのパターンであることは間違いなく、第4の良い土地でありたいとは思うけれど、そうではないなぁと思ったりいたします。しかし、そのように自分がどのタイプかを考えさせるために、このようなたとえをお話しされたのではありません。また、だから誰が聞いても最善であるところの「良い土地」であることを目指しなさい、ということでもありません。

すでに「あなたがたは良い土地である」主イエスはそう言われます。それはつまり、わたしたちはすでに良い土地である、ということです。今日の最初に、前回とのつながり、外に立つ人と内にいる人の視点でも今日のたとえを見てみたいと申しました。前回そして少し前のところとのつながりで見てみますと、主イエスの御言葉を聞いても信じなかったコラジン、ベトサイダの人々、主イエスと同じ環境で生活していても悔い改めなかったカファルナウムの人々、そして血が繋がっていても外に立ったまま待つ家族がいました。それに対して、主イエスのもとに集い、主イエスの周りで御言葉を聞いている人々が母であり、兄弟であり、家族であると言われたのでありました。この種を蒔く人のたとえは、主イエスのまことの家族とされている人々、つまり、私たちは、御言葉を聞き、理解し、悟り、そして御言葉の種の実を実らせる者たち、豊かに実を結ぶ幸いなる者たちである、という主イエスの宣言であり、そして幸いなるかなという語りかけなのです。

 

■イザヤの預言

そのことが10節以下の「たとえを用いて話す理由」で示されています。11節にはこのようにありました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていない。」「あの人たち」とは誰でしょうか。この箇所では2節にあります「大勢の群衆」です。それが前回の言葉で申しませば、「外にいる人たち」です。「あなたがた」とは10節で主イエスに近づいて「なぜたとえを用いてお話になるのですか」と尋ねた弟子たちであります。さらに12節にはこう続きます。「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」持っていない人に蒔かれた種は鳥に食べられ、躓き、そして茨に塞がれたりいたします。しかし、持っている人は100倍、60倍、30倍にも実を結ぶということがここに示されています。14節以下に記されているイザヤの預言『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』とあります。イザヤは神から託された言葉を語りましたが、理解しない人々があり、受け入れず、悔い改めようとしない人々がありました。主イエスのたとえ話でも同じことが起こるのです。見ても見ず、聞いても聞かず、そして理解できない人々がいる。たとえ話はそのような働きをする、と主イエスはいっておられるのです。

 

■結び

しかしながら、ここまで聞いてきても、私たちがすでに「良い土地」である、ということにはどうにも納得がいかないように思うのではないでしょうか。タイプ1-3に挙げられた種、道端とか石地とか茨の間が私の姿、私の心と思うのではないでしょうか。そうなのです、それはその通りだと思います。しかし、ここで聴き取っていかなければならないことは、私たちのそのような石の心にも神は常に御言葉の種を蒔いて、蒔き続けてくださっている、ということです。別の表現で「天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせる」という言葉がマタイ5:45にありますように、神はどんな土地にも種を蒔き続けてくださっているのです。私たちの心が頑なで種が鳥に持っていかれようとも、表面的に神を受け入れて根を張ることができず、神を忘れてしまう弱い者であろうとも、また、この世のさまざまな誘惑に目を奪われて神から離れようとも、神は種を蒔き続けます。そして神が私たちを良い土地にするために、種が実を結ぶようにと耕し続けてくださっているということです。神の種蒔き、神の耕しの結果、私たちは神のしてくださっていることに気づくようになり、神からの語りかけに応答するようになっていくのです。堅い石地であった自分から石を取り除き、茨の覆いを取り除くという手入れをしてくださっているのは神様であるということに気づき、感謝することができるのではないでしょうか。実際、この時、主イエスのそばで「あなたがたは良い土地」と言われた弟子たちでしたが、主イエスが十字架にかけられた時には一人残らず主イエスの元から立ち去ってしまいました。蒔かれた種は枯れてしまったのか、とも思える出来事です。しかし、神様は復活という思いもよらない方法で、死んだ種から芽を出させて、文字通り、30倍、60倍、100倍、それ以上の実を結ばせられました。神はその望むことを必ず成し遂げられます

 
 
 

最新記事

すべて表示
『新しい家族』2025年10月19日

説教題: 『新しい家族』 聖書箇所: 旧約聖書 詩編133:1-3 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:46-50 説教日: 2025年10月19日・聖霊降臨節第20主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに 今日の箇所で12章が終わりとなるわけですが、今日の46節以下の出来事は唐突に語られているわけではありません。46節の始まりには「イエスがなお群衆に話しておられるとき、」とあり

 
 
 
『しるしを求める信仰』2025年10月5日

説教題: 『しるしを求める信仰』 聖書箇所: 旧約聖書 ヨナ書2:1-11 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:38-45 説教日: 2025年10月5日・聖霊降臨節第18主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに 「先生、しるしを見せてください」、律法学者とファリサイ派の人々が主イエスにこのように申しました。主イエスが神から遣わされた救い主であるということがはっきりわかる証拠を見

 
 
 
『救いの先駆者』 2024年12月15日

説教題: 『救いの先駆者』 聖書箇所: 旧約聖書 士師記13:2-14 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:2-19 説教日: 2024年12月15日・待降節第3主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

 
 
 

コメント


bottom of page