『新しい家族』2025年10月19日
- NEDU Church
- 15 分前
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説教題: 『新しい家族』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編133:1-3
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書12:46-50
説教日: 2025年10月19日・聖霊降臨節第20主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所で12章が終わりとなるわけですが、今日の46節以下の出来事は唐突に語られているわけではありません。46節の始まりには「イエスがなお群衆に話しておられるとき、」とありますから、これまでの物語と結びついております。遡ってみてみますと、12章の始まり、ある安息日の麦畑の論争に始まる一連の出来事の終わりとして見ることができるでしょう。麦畑での論争の後、主イエスは会堂に入られたことが9節に示されていました。そこで手の萎えた人を癒されました。そして22節以下では悪霊に取りつかれて目が見えず、口の利けない人を癒されました。そのような癒しの物語の最後にこの46節から50節があります。ここに記されていますのは、その小見出しにありますように主イエスの母と兄弟が主イエスのところにやってきたということです。この出来事はマルコの3章にも記されています。マルコの3章21節以下には、主イエスの家族たちが何のためにやってきたのか、ということが書かれています。主イエスが悪霊に取りつかれた人を癒しているということは瞬く間に広まっていました。そして「気が変になっている」と人々から言われているのを聞いて、「取り押さえにきた」のでした。家族としてなんとか家に連れ帰らなければと思ったのでしょう。マルコ福音書からはそのような家族として心配している様子が伝わってまいります。
■外にたつ人々
しかし、このマタイ福音書にはそのような家族の心情などは一切記されておりません。何のために来たのかも書かれていないのです。そのような身内の心情、事情を一切取り除くことで際立ってきますのは、母と兄弟たちが「外に立っている」という46節の一言です。47節にも「お話ししたいと外に立っておられます」と繰り返されます。この時、主イエスがどこにいらしたのか、はっきりと記されてはいませんけれども、群衆に話しておられるとき、でありますから、どこかの家の中、もしくは屋外、いずれにしても主イエスは群衆に取り囲まれていたことは間違いありません。そしてそこへやってきた母と兄弟たちは、その輪の中に入り込んでくることはなく、その外に立っていた、その立ち位置が目に見えてくるようです。主イエスを取り囲む群衆の外にいる家族、その距離は同時に、彼らの心の位置をも表しています。家族としての心配よりも、主イエスを外側から評価、さらには批判する人々の姿を描き出しているのです。マタイはこうして主イエスの家族たちを、一般の人々と重ねています。そしてそれは私たちとも重ねて語っていると言えます。さらには外に立つ人々の代表として挙げられますのが、ファリサイ派、律法学者たちでありましょう。安息日における彼らの非難がこの12章の始まりに記されていましたが、それも彼らが自分たちの基準に照らして判断するということによって始まった論争でした。手の萎えた人の癒しも、ベルゼブル論争における悪霊に取り憑かれた人の癒しも、神の恵みの御業として見るのではなく、悪霊のかしらの成すことだと言ったのも、主イエスの愛の御業を共に喜ぶのではなく、その外に立ち、自らの基準に合わないものは排除するという姿勢を崩さないゆえに、理解できず、そして理解しようともしないのです。
■主イエスの拒絶
さて、主イエスの家族、母と兄弟たちは「外に立っている」と46節、47節で繰り返されますのは、このようにファリサイ派と同じ立ち位置にいるということをさし示しています。そのような家族に主イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」と驚くほどの厳しいお言葉を発せられました。主イエスは「わたしがすでにこの地に来ている。それは神の国がここに来ているのだ。」と28節で言われました。今、この地で行われている御業を共に喜ぶ者、それが父なる神を、共に父と呼ぶ家族である、兄弟である、と主イエスは言っておられるのです。そこには血筋、血縁は関係がないのだと主イエスは言われます。ただ、主イエスが母マリアに対して家族としての愛を持っておられたことは間違いありません。それは主イエスが十字架にかけられた時を記すヨハネ福音書19章に書かれております。愛する母に、愛する弟子を指して「あなたの息子です」と言われ、弟子には「あなたの母です」と言って託されたのです。人としてお生まれになった主イエスはこのように母マリアを愛し、兄弟たちを愛する兄でありました。人としての主イエスはこのように深い愛情を示されましたが、神のひとり子としての主イエスは天の血筋、天の父に連なる新しい家族としての絆を求めておられたのです。
■新しい家族
主イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」という言葉の後、弟子たちの方を指して言われました。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。誰でも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」主イエスは新しい家族の形、姿を見ておられます。主イエスは新しい家をお造りになりました。それは血のつながりによらず、天におられる父につながり、その神を私たちをも「父よ」と呼ぶことができる、そのような新しい家族なのです。天の血筋によって繋がる家族と言えるでしょう。主イエスが言われたこのお言葉、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」は主イエスの周りにいた弟子たちだけに言われたのではなく、今も私たちに向けて言われた言葉であります。今日、お読みいただいた詩編133編も同じように、単に血のつながりによる家族を指すのではなく、ともに礼拝を守る、信仰を同じくする兄弟がともにいることの喜びを語ったものです。教会そのものを指しているとも言えるでしょう。教会は、「あなたもわたしの家族である」と主が招いてくださって、同じ家に集う者たちの集まりであり、主イエスにつながる家族なのです。教会はそのようにして生まれ、そして続いてきました。さて、家族とは何でしょうか。私たちの実際の生活における家族、それは夫であり、妻であり、父であり、母であり、子供である、というそのような関係性にある者たちでありましょう。しかし、日本で世界で、どこにもあるのが家族の問題ではないでしょうか。夫婦の間に、また親子、兄と弟、姉と妹などの間に全く問題のない家族というのはないのではないかと思います。何かしらの問題、痛みを抱えています。なぜ、問題が起こるのか、なぜうまくやれないのか・・・家族なのに・・・皆、そのように思って悩んでいます。しかし、そもそも、家族は仲良くするものだ、仲良くできるものだと聖書は見ていないのではないかと思います。家族の関係の中においても罪がある、罪と全く無縁な家族など存在しないと見ているのではないかと思うのです。人類の始まりの家族のアダムとイブを見てみましても、せっかく神が彼にあう助ける者を造ろうとお考えになって、ベターハーフ、よき片割れとしてお造りくださったこの関係でありましたが、蛇の誘惑によって、お互いに責任転嫁するという罪を犯します。また、カインとアベルという兄弟はアベルへの嫉妬からカインがアベルを殺害するという恐ろしい出来事が起こっています。また、アブラハムの息子、イサクには、双子の息子エサウとヤコブという双子の息子たちが与えられますが、この二人も父の祝福をめぐって対立いたします。この後もヤコブの12人の息子たちも年の離れた弟ヨセフへの妬みから、兄たちがヨセフをエジプトに売るというとんでもないことが起きました。のちにはヨセフがエジプトの宰相になり、飢饉で困っているヤコブと兄たちを助ける、感動の再会を果たすという結末がありますけれども、兄弟は皆仲が良かったなどというわけではありません。イスラエルの歴史を見てみますと、その後もダビデは息子アブサロムによってエルサレムを追われるという出来事が記されています。これらをみてみましても、家族はただ家族であるだけで麗しい、それでよいのだということではないということが示されているのではないでしょうか。
■天の父の御心を行う人が家族
主イエスは天の父の御心を行う人が家族である、と言われました。それが何を語っているかと言いませば、人間に罪がある以上、家族という関係の中にも罪がある。それゆえに、神の御前において家族となっていくということが求められているのです。ご存知の通り、十戒の第5戒は「父と母を敬え」です。それは父、母、息子、娘、とつながる関係性の根底に神がおられ、神の御前において「家族である」という関係から、「家族となる」という歩みへと私たちを導いておられるのです。今日の49節で主イエスは弟子たちの方を指して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と言われたとありますが、この「指して」という言葉は、協会共同訳聖書では「手を差し伸べて」となっています。これは8章3節において重い皮膚病の人に触れられて、癒してくださった時の主イエスの仕草です。また、この後14章でペトロが湖で溺れそうになり、主イエスが手を差し伸べてくださり、助けてくださったということが記されています。つまり、主イエスが手を差し伸べるとは主イエスの救いそのものを示しているのです。ですから、私たちは主イエスを救い主と告白した時から、主イエスの家族とされています。その上で大切なことは主イエスから離れないということです。主イエスの御言葉を聞き、そのみもとに集う者であること。主イエスは「わたしにつながっていなさい」と繰り返し告げておられます。主イエスを愛し、主イエスを信じ、主イエスにお仕えする。そのような家族として私たちは加えられています。血のつながりによる関係を越えて、霊によって結ばれる家族、新しい家族となるのです。家族であることが大切なのではなく、主イエスのもとで家族となっていく、まことの家族となっていくのだということです。主イエスの母、マリアやその兄弟が単なる血のつながりによる関係ではなく、信仰によって結ばれる家族となったことは聖書が記しています。母マリアは主イエスの十字架をそばで見つめました。母としての悲しみはもちろんでありますが、自分の子供であるという以上の神の子としてのお働きを受け止めて、弟子たちと共に見届けたのであります。また主イエスの兄弟ヤコブはエルサレム教会で大きな働きをいたしました。母マリアも兄弟たちも、救い主、主イエスを信じる者として、外に立つ者ではなく、主イエスにつながる家族、母、兄弟となっていきました。
■結び
私たちのこの地上で生きる家族は、決して家族全員がキリスト者であるわけではありません。しかし、共に生きる血の繋がりの家族も神によって与えられた関係なのです。一人が主イエスにつながることによって、皆、聖なる者とされています。そして御言葉に聞き、集うための場所として教会が与えられています。私たちはそれを拠り所として、共に生きる家族のために祈り、そして主イエスのもと、与えられる平安、喜び、そして希望を分かち合い、共に主イエスにつながる家族となっていくよう祈り続けたいと思うのであります。
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