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『福音を聞くために』 2023年1月15日

説教題: 『福音を聞くために』  聖書箇所: マルコによる福音書 7章31~37節 説教日: 2023年1月15日・降誕節第四主日 説教: 大石茉莉


■はじめに

前回、ティルスというのがどのあたりか、ということをまず聖書巻末の地図でみていただきました。今日、共に聞く御言葉の始まり31節にはこうあります。「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」さて、今日もまた巻末地図6「新約時代のパレスチナ」を見てください。ティルスでシリア・フェニキアの女性の娘を癒された後、主イエスはその地、ティルスを後にされます。そしてガリラヤ湖へ向かわれるわけですが、地図で見ていただくと分かる通り、そのまま南にくだればガリラヤ湖です。しかし、主イエスは北のシドンへ行かれ、そしてガリラヤ湖東側のデカポリス地方を通って、ガリラヤ湖へとやって来られたと聖書は記しています。大変な遠回りをされたことがわかります。なぜ、そのような遠回りをされたのか、その理由が聖書に明確に記されているわけではありませんから、私たちは想像するしかありません。前回、24節にある「ある家に入り、だれにも知られたくない」と主イエスが思っておられたのは、すでに悪化していたファリサイ派を避け、また、ご自身の受難の前に弟子たちと深い交わりの時、神の御心を仰ぐために祈りの時を持つためであったのではないかとお話しいたしました。この後、8章において、主イエスは弟子たちにご自身の受難についてお話になります。ご自身による受難予告は3回なされますけれども、その始まりが8章です。ですから、この7章は大きな転換の時なのです。それゆえに主イエスは近づいてくる終わりの時に備えて、弟子たちと一緒にいる長い時間が必要だったと考えられ、そのために遠回りされたのではないかと思われます。


■デカポリスでの癒し

そしてガリラヤ湖と聞きますと、私たちは、主イエスのホームグラウンドと思ってしまいますが、地図を見ていただくと分かるように、異邦人の地デカポリス地方はガリラヤ湖畔まで続いております。ですから、主イエスはわざわざ異邦人の住んでいる地域を通って、ガリラヤ湖へ至るよう道を選ばれたことがわかります。このデカポリス地方はすでにマルコ福音書の5章に印象深い出来事があった事が記されておりました。5章1節から20節に記されております「悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす」です。この地で主イエスは悪霊に取りつかれ、墓場を住まいとする男から悪霊を追い出されました。そして正気になったその人は、主イエスと共に行きたいと願いましたが、主イエスはそれをお許しになりませんでした。5章19節にあるように、「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と言われ、主イエスはこの人を自分の家に帰されたのです。そして続く20節、「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広めはじめた。」癒されたこの人は主イエスの恵みを言い広めました。この人が最初の伝道者であるとまで言われます。かつては主イエスに出ていってくれ、と主イエスを追い出した地方ですが、この悪霊から解放された男によって、主イエスの力ある恵みの業を聞き、驚いた人々がたくさんいたのです。主イエスのことはこうして広まっていきました。その地デカポリスをこの時、主イエスが通られたのです。人々は、驚くべき御業をなさる方が来られた、と知って、耳が聞こえず、舌が回らない人を連れてきて、その人に手を置いていただきたいと願うのです。

この人は「耳が聞こえず、舌が回らない人」とあります。耳から聴くことと、言葉を発すること、これは密接につながっております。この人は全く話ができなかったわけではないようです。おそらく音を発することはできるのでしょう、ただ、言いたいことをはっきりということができない。耳がよく聞こえないために、うまく口がきけない、という人でありました。

この人は耳が聞こえない、とありますから、主イエスについて何も知らなかったことでしょう。人々が主イエスについて話をしていても、この人は何も理解できなかったのです。


■わたしのための祈り

「ある時、周囲の人がわたしの腕を取り、どこかへ連れて行くという。どこへ行くのか、何のためか、まったくわからず、不安さえ覚えます。そうして連れて来られたのは、あるお方の前でありました。この方の周りには人がたくさんいて、なにやら騒々しいものを感じます。人々の興奮する様子からして、何かすごいことをする人のようです。この方は、わたしを連れてきた周囲の人たちから引き離して、一対一で向かい合われました。この方のまなざしは、まっすぐにわたしに向けられています。この方がわたしに何かをしようとしているということはわかりました。そして、この方はわたしの耳に指を入れました。音は聞こえなくとも、目の前でこの方がなさっていることは見えますし、息遣いすら感じるぐらいに近くで向かいあっているのです、この方の肌を感じています。そしてその後は、その指に唾をつけて、わたしの舌に触れました。耳が聞こえず、うまく話せないわたしをどうしようというのでしょうか。何かをしようとしてくださるのはわかりますが、どうなるのでしょう・・・

そしてその後、この方は天を仰ぎました。これは祈りです。祈りの姿勢です。ああ、この方はわたしのために祈ってくださるのだ。そうわかりました。わたしもいままで何度も天を仰ぎ、ひとり祈ってきた。言葉にできない声を発してきた。でも呻くような声にしかならなかった。嘆き、苦しみ、悲しみ…この方はわたしの痛みを共にしてくださっているのだ。わたしは今、この方と共に天を仰ぎ、そして祈りを捧げます。」


■エッファタ

主イエスは深く息をつきました。この「深く息をつく」という言葉は、「うめく」という意味を持つ言葉です。主イエスはこの男の苦しみ、悲しみに共にうめき、この男の苦しみを引き受け、この男の代わりに天を仰いで、父なる神に祈られました。呻き、そして深く息をつかれたのです。この男のために、そして聞くべきことを聞けず、語るべきことを語れない、罪の中にある私たちのためのうめきを天の父に執り成しの祈りを捧げて下さったのです。そしてそれは主イエスがゲッセマネで、恐れ、苦しみ、そしてもだえながら、祈られた祈りであります。

主イエスは男に言われました。「エッファタ」。「開け」という意味です。主イエスのこのご命令によって、たちまち、この男の耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになりました。ここで起こったこの癒しの奇跡は、耳と舌、という身体的機能の回復ではありません。耳が開かれ、この男が聴いたのは主イエスの御声、主イエスのお言葉でありました。ローマの信徒への手紙10章17節にこうあります。「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」この男の信仰がここから始まったのです。そして彼のもつれた舌が解けたのは、神を賛美するためです。35節に「はっきりと話すことができるようになった」の「はっきりと」とは、滑舌よく、ということよりも、「正しいことを話す」という意味です。主イエスの救いの言葉を聞き、神を賛美し、そして御言葉の伝達者へと変えられたのです。聞くことも話すこともできないがゆえに、自分では救いを求めることができなかった一人の人が、主イエスとの出会いによって、神に応答する者となった、その救いの出来事がここに示されているのです。


■主イエスのご命令

主イエスはこの男のみならず、私たちに「エッファタ」つまり「開け」とお命じになられます。それはすべての罪人の耳を開き、そして福音を聞くことができるようにするためです。そしてすべてのもつれた舌を解き、主イエスの恵みの御業について語り、信仰を告白し、そして神を賛美することができるようにするためです。主イエスの「エッファタ」というお言葉は、私たちを罪から解放するお言葉であり、神に向かって開いて下さるお言葉なのです。主イエスの救いの御業によって、私たちはこうして福音を聞き、神に祈り、神を賛美することができるようになりました。私たちがこうして福音を聞くことができるのは、男の耳が聞こえるようになったのは、ただただ主イエスの「開け」というご命令によってです。主イエスのお言葉と出来事。その関係は神の創造の始まりにつながっています。神はそのはじまりに「光あれ」と言われました。そして光があり、神は光を見てよしとされたのです。神の言葉があり、そして語られたことはその通りに実現する。そして出来事となり、神はそれをよしとされる。ここで起こったことはそのように神の創造の出来事であり、神の創造の継続であり、そしてまた新しい創造でもあります。主イエスが働かれるところには、神の創造の継続があり、新しい創造があるのです。神は創造の働きを主イエスにおいて続けておられるのです。


■結び

主イエスは耳を開かれた後、「だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。』」ここでもまた「メシアの秘密」が出てまいりました。主イエスを正しくキリスト、救い主、神の独り子と理解されないうちには、イエスのメシアとしての秘密はかくされたままでなければなりません。ここで「この方のなさったことはすべて」と書かれております。この主イエスのなさったこと「すべて」とは、癒しの御業すべて、ではありません。主イエスがこの地上でなさった究極は十字架であります。ですから、この「すべて」というのは、この時までに人々が見聞きして知っている主イエスに関する一部です。この時はまだ、主イエスの救いの御業は完全には示されていないのです。ですから主イエスは口止めをされたのです。人々が言い広めてもそれは主イエスの救いの御業を本当の意味で広めることはできなかったのです。しかし、それでも人々は、確かに現された救いの御業に触れて、語らずにはいられませんでした。耳が開かれ、舌のもつれが解かれたこの男の人と一緒になって、神をたたえ、主を賛美したのです。

イザヤ書35章5~6節にはこうあります。「そのとき、目の見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。/そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊りあがる。/口の利けなかった人が喜び歌う。」こう預言された出来事「、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う。」このようなことができるのは救い主、メシアだけでありました。イザヤは、「そのとき、それまで神の言葉を聞くことのできなかった耳が開かれて、神の言葉を聞くことができるようになる。口の利けなかった人が、神を賛美し、歌うであろう」と預言したのです。この旧約聖書に示された神の約束が主イエスによって実現しています。まさに主イエスが真の救い主、メシアであり、「そのとき」がここに成就していることを示しています。

さて、今日の御言葉は主イエスが遠回りをして、わざわざ遠いところにいる耳が聞こえず、舌の回らない男のところへ来られたのでした。そして男は、人々によって主イエスの元に連れて来られました。この人自身では何もわからず、そして来ることはできませんでした。それは私たちも同じではないでしょうか。自らの意志で教会に来られたという方も、あるでしょうが、そのきっかけは誰か、もしくは何か、によって与えられたのではないでしょうか。主はそのように人や機会を用いて、私たちを招いて下さるのです。そして、父なる神に執り成してくださいました。私たちの嘆きや苦しみ、痛みも全てをお一人でお引き受けくださいました。主イエスは十字架で死んで葬られましたが、父なる神は主イエスを復活させてくださり、私たちの罪を赦し、そして主イエスを信じる者たちに永遠の命を約束してくださっています。そして神の御前に立つ者へとしてくださったのです。

今、わたしたちの耳は開かれ、救いの御言葉を聞くことができます。舌のもつれは解かれ、神を賛美することができるのです。それは主イエスが「開け」とお命じになるからです。すべての人がこの信仰の始まりを迎えられるよう、既にその恵みのうちを歩む私たちをどうか用いてくださいと祈り願います。


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