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『神を愛し、人を愛し』2026年9月6日

  • 2 日前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『神を愛し、人を愛し』 

聖書箇所: 旧約聖書 申命記6:4-9

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書22:34-40

説教日: 2026年9月6日・聖霊降臨節第16主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。」前回もお話ししましたように、マタイは意図的にファリサイ派とサドカイ派を一緒に登場させてユダヤ教指導者全体が主イエスに敵対しているということを強調しています。神学的には対立している両者が今日の箇所においても「一緒に集まった」のです。「一緒に集まった」とさりげなく訳されていますけれども、この言葉は、詩編2編1-2節に「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」という一節の「結束して」という言葉と同じ言葉です。ただ集まるのではなくて、神に対して敵が一致団結して反抗するのです。ファリサイ派の人々は今日の箇所で主イエスに挑戦を試みることで、神に敵対する地上の支配勢力として登場しています。まさにここで主イエスに仕掛けた論争は神に逆らう者たちのむなしい騒ぎであります。主イエスはそのようなむなしい論争、騒ぎを黙らせるお方としてお答えになります。

 

■すべての人が知っている戒め

ファリサイ派の一人、律法の専門家が主イエスを試そうとして尋ねます。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」主イエスは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である」とまずお答えになりました。この戒めは、イスラエルに生まれた者であれば、誰でも知っている基本的な戒めです。今日与えられた旧約聖書箇所であります申命記の6章5節です。直前の4節にはこうありました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」この「聞け、イスラエルよ」という始まりの言葉は、ヘブライ語で「シェマー」という言葉なのですが、「シェマー」といえばこの戒めを指すというほどに有名なものです。そしてこの後の7-9節には「子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」とあります。この戒めは代々語り継がれ、聞いたことがあるというような生やさしいものではなく、全ての人が一言一句全て暗記しているものです。安息日の礼拝ごとに必ず告白していたと言います。「しるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け」とありますように、ファリサイ派の人々はこれを実践していました。小さな革の箱にシェマーを書き記したものを入れて腕のあたりに革ひもで巻きつけて、そこから手首の方まで革ひもを何重にも巻きつけました。また、額につけ、というのも決して比喩ではなく、実際に髪の生え際あたりに箱を装着していました。「いました」という過去形ではなく、ユダヤ教徒の成人男性は今も平日の朝の祈りの際には毎日、テフィリンと呼ばれるこの箱を身につけるといいます。少し後の23章5節を見てみますと、「聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。」とあります。「聖句の入った小箱」というのがそれです。彼らはまことに忠実に行なっていたのです。この時、主イエスの目の前に立って、主イエスに質問を投げかけていたファリサイ派の人々は、当然ながら、このテフィリンを身につけ、そしてこの戒め「心を尽くし・・・」と唱えていたのです。その戒めは、どこまでも、全身全霊をあげてただ神を愛しなさい、ということが命じられています。

 

■第二の戒め

このように当然、一番大切な戒めとされていたシェマーでありますから、彼らは主イエスに問いかけて、この戒めを挙げられるであろうと想像していたことでありましょう。というよりも期待していたと言えるでありましょう。仮にもしこの戒めを挙げなかったならば、なぜシェマーを挙げないのかと非難することができました。しかし、おそらくこの戒めを主イエスが言われるであろうことは想定内で、主イエスがエルサレムにお入りになってすぐになさった宮清めの出来事は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ただただ、神を愛するという、この一番大切な戒めに反するではないかということを言いたかったのでありましょう。そして主イエスは彼らに反撃の隙を与えずに、この第一の戒めに続けて、もう一つ別の掟を合わせます。「隣人を自分のように愛しなさい。」この戒めはレビ記19章18節にあるものです。主イエスがこの第二の戒めは第一と同じように重要ですと言っておられるように、この二つは切り離すことができません。第二の戒めは第一の戒めを解き明かすものとなっているとも言えます。神への愛は、神の愛の対象である人々を神が愛するように愛するということで実証されます。彼らから見れば、主イエスがなさった宮清めの出来事は神への愛に反すると言いたかったわけですけれども、主イエスは神への愛をどのように証明されたでしょうか。主イエスは目の見えない人や足の不自由な人たちを癒され、徴税人や娼婦たちに救いの手を差し伸べられました。多くの病人を癒やされ、ファリサイ派の人々が忌み嫌った異邦人にも救いをもたらしました。主イエスのもとによってくる人たちを分け隔てなく愛され、ものの数に数えられていなかった子どもたちに祝福をお与えになりました。主イエスはこの戒めを徹底して実践されておられたことで、神への愛をお示しになられたのです。

 

■隣人とは誰か

彼らも隣人を愛することは大切であるとは知っていました。しかし、彼らにとって「隣人」とはまず仲間、同胞でありました。主イエスが分け隔てなく愛された目の見えない人、足の不自由な人はたとえ近くにいても隣人とは思っていませんでした。徴税人も同様です。異邦人に至っては、たとえそばにいても隣人とは到底思えず、憎むべき敵のように思っていたのです。ファリサイ派という名称はもともと「分離された者たち」「区別された者たち」という意味です。彼らは宗教的・儀式的な清さを保つために自分たちの基準と合わない人たちを切り離し、一般のユダヤ人は自分たちの信仰よりも低い者たちとみなしていました。一般のユダヤ人からも罪人とされていた徴税人や娼婦たちに関してはいうまでもありません。こうして彼らは自分たちの周囲にいる人たちを愛さないことによって、神を愛していないことを自ら明らかにしていました。彼らは第一の戒めと第二の戒めをそれぞれ別のものとして切り離して考えていたのです。主イエスは40節において、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」と言われました。つまり、聖書(この時代では、旧約聖書のことを指すことになりますが)はこの二つの戒めにかかっている、この二つの教えが旧約聖書全体を支えているのだと言われたということです。

 

■十戒にも主の祈りにも

このことの確かさを今、私たちはモーセを通してイスラエルの民に与えられた神の言葉、十戒からも知ることができます。第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。」、第二戒「あなたはいかなる像も造ってはならない。」、第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」、第四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」ここまでの4つの戒めは神に関する戒め、つまり、神への愛のためのものです。そして後半、第五戒「あなたの父母を敬え。」、第六戒「殺してはならない。」、第七戒「姦淫してはならない。」、第八戒「盗んではならない。」、第九戒「隣人に関して偽証してはならない。」、第十戒「隣人の家を欲してはならない。」とありますが、これらは人間関係における愛、つまり隣人愛についての戒めであると言えます。こうして十戒も主イエスが言われた二つの要素によって成り立っていることがわかります。また、主の祈りも同様です。「御名を崇めさせたまえ」「御国を来らせたまえ」「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」は神を神とすることができますように、つまり、神を神として愛することができますようにという祈りです。そして後半は「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」はこの世にあって隣人と共に食し、隣人にために祈り、隣人と共に神の平和のうちを生きていくことができますようにという祈りです。十戒も主の祈りもいずれも神への愛と隣人への愛という主イエスが挙げられた二つの戒めに集約されていることがわかります。こうして主イエスは律法の専門家であると自負していたファリサイ派に優る戒めを示されました。

 

■垂直・水平に

この主イエスが示された二つの戒め、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい。」はこう考えることができます。つまり、神を愛するという神と私との垂直関係、縦の関係性。そして隣人を愛するという隣人と私との水平の関係、横の関係性ということです。私たちの信仰生活の基本である神との垂直関係と、日々、私たちが隣人と共に生きるという水平の関係は、決して分離されるものではなく、むしろ一つのことなのです。第一ヨハネ4章20節には「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。」とある通りなのです。神への信仰の生活というのは、この世における隣人との生活なのです。その逆もまた然りで、隣人を愛して生きる生活が神を愛する信仰生活なのです。私たちにとって、主イエスは十字架であり、十字架は主イエスであられますけれども、まさに、この神との垂直関係と隣人との水平関係は交差していて、その真ん中に十字架の主イエスがいてくださるのであり、そのお方がこのことをお語りくださり、そして御自らお示しくださいました。

 

■結び

私たちは神への愛も、人への愛も自分自身では全うできることがない欠けの多い者たちです。神を愛し、隣人を愛する、そうしたい、そのように生きたいと思っていても、それができず、神を、人を、愛ではなく憎しみさえ抱くこともあるのです。それが私たちの持つ罪の姿です。そしてそのような私たちを罪から解放するために、主イエスは来てくださり、そして十字架への道を歩んでくださいました。私たちには主イエスの十字架が与えられています。私たちが神に対して垂直な関係を保ち、隣人に対して水平の関係を持つには、主イエスというお方の十字架があるから、主イエスがその中心にいてくださることによってのみ可能なのです。私たちは主イエスの十字架の死、そして復活によって生かされています。私たちが十字架を見上げるとき、主イエスが二つの戒め、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自分のように愛しなさい。」と語ってくださっていることも覚え、神と愛し、神と人とに仕える愛の業を表してゆけるようにと願い、日々歩んでまいりたいと思います。

 

 
 
 

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