『死をも超える約束』 2026年8月30日
- 8月31日
- 読了時間: 10分
説教題: 『死をも超える約束』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書25:6-10
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書22:23-33
説教日: 2026年8月30日・聖霊降臨節第15主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
この22章は主イエスに対する問いが続いています。15節ではファリサイ派とヘロデ派が一緒になって主イエスに問いを投げかけていました。そして今日の箇所23節で主イエスに問いを投げかけるのはサドカイ派の人々です。サドカイ派はファリサイ派に比べて、聖書にはあまり登場しません。新約聖書にサドカイ派は14回出てきますが、そのうち半分の7回がこのマタイ福音書で使われています。マルコとルカ福音書においては、今日の並行箇所「復活についての問答」の1回出てくるだけであります。マタイは意図的にサドカイ派を登場させています。例えばマタイ3章7節、16章1節、16節でいずれも「ファリサイ派とサドカイ派」として出てきます。マタイは主イエスに敵対する勢力をファリサイ派だけではなく、サドカイ派も含めたユダヤ教指導者全体として描いているのです。両者は神学的には対立していましたが、主イエスを拒むという点において一致していることを強調しているのです。
■サドカイ派
サドカイ派は祭司階級を中心とする勢力でした。彼らは神殿貴族といったらわかりやすいでしょうか。神殿を中心としてその折々の権力者におもねる生活、つまり神殿の運営を担いつつ、政治的にはローマと協調する生き方をしていました。彼らは祭司を中心とした人々でありましたから保守的でありました。聖書、つまり旧約聖書ですが、それだけを重んじていました。それもその律法、つまりモーセ五書に書いてあることだけを重んじていました。したがって、ファリサイ派は律法を日常生活のあらゆる場面で実践するために口伝律法による細かな解釈や知恵を大切にしていたわけですから意見が違ったわけです。ファリサイ派とサドカイ派が対立していたというのはそのような理由からであります。このマタイ21章からは宮清めの出来事に始まり、権威論争、そして今日の復活論争とエルサレム神殿を舞台とした論争が続いています。ここでマタイはファリサイ派、ヘロデ派の次にサドカイ派を組み合わせるように登場させて、神殿と権威に依存した宗教指導者の象徴として彼らを描いているのです。
■復活を信じない人々
今日の23節には「復活を信じないといっているサドカイ派」と書かれていますように、彼らは復活を信じていませんでした。つまり、人間が死んだらどうなるか、ということがファリサイ派、サドカイ派の間で論争の主題になっていたということです。人間が死んで、やがていつか甦る、そのように考えていたのがファリサイ派です。彼らの信仰の歴史において、例えば預言書・ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。目覚めた人々は大空の光のように輝き/多くの者の救いとなった人々は/とこしえに星と輝く。」、または同じく預言書・イザヤ書26章19節「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。」というような旧約聖書の御言葉からだんだんと死んだ後に甦るという望みが生まれていました。しかし、それを否定したのがサドカイ派の人々です。それは彼らがよりどころとするモーセ五書、律法には人間が死んだのち、どうなるかということに対する記述がほとんどないからです。それゆえに彼らは死後の復活はないといっていたということです。人間は死んだらおしまい、生きている間だけが全てだと思っていたのです。さて、そのような彼らが主イエスのもとにきて投げかけた問いはこういうものでした。「七人の兄弟が長男の妻と次々に結婚して、皆子どもをもうけずに死んでしまった。死者が復活したら、この女性は誰の妻になるのか」という極端な例を持ち出してきました。ある人が子どもなしに死んでしまった場合、その弟がその未亡人と結婚しなければならないという律法の規定が申命記25章5節にあります。これはレビラート婚と呼ばれるもので、家系を絶やさないようにするための掟です。彼らはこの掟をもとに、もし死者が復活したら、こういうおかしなことが起こるではないか、だから復活などない、ということを言いたいわけです。この七人は極端な例だとしても、私たちも同じ問いに直面いたします。この世の人生において、相手と死に別れる、もしくは離婚して別の人と再婚するということがあります。そして私たちは死後、天国で愛する人と再会するという希望を抱いています。愛する人の死において、それは慰め、希望となります。しかし、二度結婚した人は誰と会うのだろうか、確かにそのような疑問は起こってきます。
■思い違いをしている私たち
そして主イエスはそのようなサドカイ派の人々の問いに対して、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。」と言われました。主イエスはサドカイ派の人々に対して、あなたがたの考え方は間違っていると言われました。その意味は30節に示されます。「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」復活は確かにあり、死んでしまったら終わりということではない、けれども、嫁ぐとかめとるということはこの世のことであり、復活において、つまり死んだ後はその関係は継続されることはない、と言われたのです。それはこの世における結婚に限ったことではありません。さまざまな人間関係においても同じことです。私たちのこの世での関係というのは大切にしたい良い関係もあれば、顔を合わせなくないという関係もあります。また良いこともあれば、悪いこともある。健康もあれば、病気もある。それら全てのこの世の人生における歩みが死んだのちにおいて、また復活において継続されることはないということです。この世の人生しか知らない私たちは、死んだ後のこともこの世の人生、歩みの延長、継続としてしか考えられませんけれども、復活において神は私たちを新しく生かしてくださるのです。「天使のようになる」と主イエスは言われました。天使も同じく神に造られた被造物でありますけれども、私たち人間のような様々な制約から解放された存在です。神のもと、神に近く、仕えている者たちです。神は私たちをそのようにしてくださいます。その時には今のこの世における体や様々な関係は、神によって完成されたものとなります。ですからそれは今のこの世の延長ではないのです。それゆえ、今日の箇所で投げかけられ誰の妻になるのか、などというようなことを心配する必要はないのです。サドカイ派の人々も聖書を自分たちが信じられるところだけを汲み取って、自分の都合の良いように解釈し、納得できることだけを信じていたのです。そして主イエスは、それは聖書も神の力も知らない、神の力をみくびっていると言われるのです。神の力を知るならば、全く別のことが見えてくる、主イエスはそう言われました。
■生きている者の神
聖書は神の力についてどう語っているのか、それが31節以下で語られます。「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」これは出エジプト記3章6節にある御言葉でありますけれども、それに主イエスは「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」というお言葉を加えて語られました。これはどういうことでしょうか。このアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるという言葉が死者の復活とどのように関係しているのでしょうか。すでにお話ししましたように、サドカイ派はモーセ五書だけを信じていました。主イエスはここで、モーセ五書の一つである出エジプト記の言葉を用いて、サドカイ派の人々に復活の証拠をあげようとされています。シナイ山のホレブで主なる神がモーセに現れてくださった場面です。イスラエルの人々は祈る際に、「アブラハム、イサク、ヤコブの神よ」と祈る習慣がありました。現代の私たちが祈る際に、主イエス・キリストの父なる神さま」と祈るのと同じです。そういう意味でも馴染みのある表現です。そして、「アブラハム、イサク、ヤコブの神である」の動詞は「ある」という現在形です。過去形の「あった」ではなく「ある」という現在形です。つまり、今もアブラハム、イサク、ヤコブとの交わりを持っておられるということです。彼らが死んだ数百年後のモーセの時代においても、アブラハム、イサク、ヤコブは生きていて、永遠の命の神との交わりを続けているということです。神は彼らと永遠の契約を結ばれました。もし、彼らが死によって消滅したのであれば、その契約も終わりとなります。しかし、神は彼らを今もご自分の民としておられるのです。神との交わりは死によって断たれることはないのです。神は最後の日に彼らを復活させて、その契約を完成されます。「神は生きている者の神である」というこの主イエスのお言葉は、神は復活の希望を支えるお方であるということを語られたのです。
■永遠の命を与えられて
ここでいう「生きている」とは単に肉体的に生きているという意味ではありません。ファリサイ派やサドカイ派をはじめとするユダヤの人々にとって体を持つ人間存在でありました。生きるというのは体を持って生きるということでした。神から永遠の命をいただいた者たちは、やがて体をまとうことになります。それは栄光の体であり、復活の体を持つということです。神の救いは魂だけの救いではありません。人間とは、魂と体との統合体です。神は両方の救いを成し遂げてくださいます。神は人間を全体的に救われるのです。魂だけというような片手落ちな救いではないのです。
復活や永遠の命を信じ切ることは、なかなか難しいことでありましょう。それは誰かによって証明されることはないからです。しかし、主イエスは言われました。ヨハネによる福音書11章25-26節「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」1週間前、私たちの兄弟であるS兄が天に召されました。入院して1ヶ月、教会員は回復を祈りましたけれども、神はS兄を御許に招かれました。残されたご家族と共に、教会員は皆、悲しみのうちにありますけれども、S兄はキリストに結ばれて、この世を歩んだ、そのことは私たちの慰めであります。そして今、さまざまな苦しみや悲しみからすべて解放されて、その霊は主のもとにあります。肉体の死によって命が終わるのではなく、キリストにある命は死を超えて続くという約束を私たちは与えられております。神が主イエスを死から復活させてくださったのです。神は主イエスに結ばれている私たちも同じように永遠の命を与えてくださるという約束であります。
■結び
私たちの肉体は滅びても、神との関係は生き続けます。主イエスはご自身が十字架で死なれました。しかし、復活によって「神は生きている者の神である」ということを決定的に証明されました。神は契約に忠実な方であられます。そして何よりも死に勝利されるお方であられます。復活によって約束を完成されるお方でもあるのです。神は生きておられ、今もご自分の民、全てを「生きている者」として覚えておられます。ですから復活の希望というのは、単なる私たちの願望ではなく、契約を守られるという神ご自身の性質に根ざしているのです。主イエスを信じる者たちには、死を超えて神との交わりの中に生かされています。そして終わりの日の復活の希望に与ることが約束されているのです。この世の出来事は移りゆきます、過ぎ去ります。しかし、私たちは神の御手の内に置かれています。神に全てをお委ねできるのです。過ぎ去らない命をいただいています。そのことに感謝し、共に祈りましょう。
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