『神のものとして生きる』 2026年8月23日
- 8月24日
- 読了時間: 10分
説教題: 『神のものとして生きる』
聖書箇所: 旧約聖書 創世記1:26-27
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書22:15-22
説教日: 2026年8月23日・聖霊降臨節第14主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主イエスはエルサレムにお入りになって宮清めをなさり、そしてその後、祭司長たちに向けて神の御心に従わない者の姿を三つの譬えによってお話になられました。「二人の息子」「ぶどう園の農夫」そして「婚宴」の譬え。話の途中から、彼らもこの神の御心に従わない者たちが自分たちを指していることに気づきました。祭司長、ファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意はさらに増して、殺意へと進んでいきます。今日の御言葉の始まり15節には、「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」とあります。21章45節には「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。」とありますように、主イエスを捕らえたくともできずにいた彼らは、罠にかけて主イエスを亡き者にしようと考えたということです。
■ファリサイ派とヘロデ派の結託
ファリサイ派はその弟子たちをヘロデ派の人々と一緒に主イエスのところに遣わしたと16節にあります。この両者は本来、相容れない者同士であります。ファリサイ派は律法を大切にし、律法を守り、そして人々に教えていた宗教指導者たちです。それに対してヘロデ派というのは領主ヘロデ王家を支持する者たちであり、ローマ権力に支配されている現実の中でうまく立ち回っていた政治的現実主義者です。今日の箇所のテーマである「皇帝への税金」に関して言えば、ヘロデ派の人々は、ローマの支配を受け入れている人々ですから、皇帝への税金は納めるべきだという考えです。それに対してファリサイ派はイスラエルが神の民として歩むべきであると考えているわけですから、イスラエルの王は主なる神のみであって、ローマの支配は排除したいと考えているわけです。ですから、皇帝への税金など、納めるべきではないし、納めたくもないと考えている人々であります。そのように対立しているはずの両者が、主イエスを抹殺しようという思いにおいては一致団結したということです。
■彼らの罠
彼らは結託して主イエスを罠にかけようとしました。それは「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」という問いであります。もし、主イエスが神の民であるユダヤ人はローマ皇帝に税金を納めるべきではないと答えたならば、ヘロデ派の人々が主イエスをローマ支配に対する反逆の罪で捕らえることができます。逆に、ローマへの税金を納めなさい、と言えば、今度はファリサイ派の登場です。群衆は主イエスに、この人こそがイスラエルに神の民の栄光を取り戻してくれる人だと期待を寄せています。そのような人がローマ皇帝に税金を納めるように言っている、ローマの支配を受け入れて従えと言っている。これはなんという失望か、ということになります。つまりどちらの答えでも主イエスを失脚させることができると考えて、彼らは罠を仕掛けたのです。この罠をより確実なものとするために、彼らは問いに先立って、主イエスの逃げ道を塞ぎました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。」一見、丁寧な言い方がされていますが、彼らの心にもないお世辞であり、このようなダメ押しをして主イエスが答えざるを得ないようにしています。
■デナリオン銀貨
主イエスは、そのような罠、悪意に満ちた問いに当然ながら気づいて、そして言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」主イエスはこう言って納税に用いられているデナリオン銀貨を持って来させました。このデナリオン銀貨の表面には月桂樹の冠をつけたローマ皇帝ティベリウス横顔の肖像が刻まれており、「神聖なるアウグストゥスの子、皇帝ティベリウス・カエサル」と文字がありました。この当時一番流通していた硬貨は2代目皇帝ティベリウスのものでありました。広大な帝国において支配者である皇帝の存在を知らしめるのには、このように皇帝の肖像を刻むのが有効な方法でありました。ですから皇帝が代われば、すぐに新しい皇帝の顔を刻んだ硬貨が作られたのです。また、この時代のお金の信用を保証するものでもありました。つまり、ローマ帝国における最高権力者である皇帝の顔を刻印することで、国家がその品質と価値を保証するという証明書の役割をも果たしたのです。これにより人々は安心して使うことができたわけです。ですから、このティベリウスの肖像の刻まれた硬貨は当時、どこにでもあり、人々の生活にはなくてはならないものとなっていました。そしてローマ皇帝は人口調査をすることによって、人々を把握し、人頭税を納めさせていました。この人頭税を納めるのはこのデナリオン銀貨に限っていたといいます。この人頭税を持って、ローマ帝国に服従を求めるものであり、その支配のしるしだったのです。ユダヤの人々は十戒の第2戒「あなたはいかなる像も作ってはならない」という律法を忠実に守ってきた民でありますから、人の像を貨幣に刻むということを潔癖に退けてきました。ですからそれを使わなければならないというのは、ローマ帝国に支配されているという屈辱だけでなく、神の民、イスラエルの信仰に対する侮辱でもあったわけです。
■神のものは神に
そのデナリオン銀貨を前に、主イエスは「これは、だれの肖像と銘か」と彼らに問いかけました。彼らは「皇帝のものです」と答えました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と主イエスは言われたのでした。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」この主イエスのお言葉は何を示しておられるのでしょうか。彼らの悪意のある問いに対して、主イエスはこのようにお答えになりました。「皇帝のものは皇帝に」この言葉によって主イエスは皇帝に税金を納めなさいということを認めておられます。しかし、その後に「神のものは神に」と言われました。後に付け加えたようになっていますけれども、「神のものは神に」これが第一です。私たち人間がこの地上に生きるものとして、課せられた納税などの義務、社会的責任を果たすべきであるということを認めつつ、それが神への信仰と矛盾しないことを主イエスは示されました。神のご支配に従いなさい、ということを命じておられます。彼らは主イエスのこのお言葉を聞いて驚き、立ち去ったとあります。ヘロデ派とファリサイ派が結託して主イエスを陥れようとした彼らの悪意ある問いを主イエスはこうして交わしたとはいえますが、主イエスがお話しされた「神のものとは何か」ということを聞き取らなければなりません。銀貨には皇帝の肖像が刻まれており、それは皇帝のものだと主イエスは言われました。それでは何に神の肖像が刻まれているのでしょうか。今日の旧約聖書は創世記1章26・27節が与えられました。そこにはこのようにありました。「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」私たち人間は、神のかたちに、神にかたどって、神に似せて作られました。銀貨を見れば、皇帝が分かるように、私たちを見れば神がどのようなお方であるのかが分かるようにと私たちは造られています。皇帝の顔の刻まれた硬貨が世の中に出回れば出回るほど、皇帝の支配が明らかになり、確かなものとなっていったように、私たち人間、一人ひとりが神のご支配を表すものであり、私たちによって神のご支配が広まっていくということです。神の像は私たち一人ひとりに刻まれているのです。「神のものは神に返す」つまり、私たち一人ひとりが神のものであり、神に帰属するということを主イエスは示されました。さらには、神は私たちのみならず、朝も夜も、天も地も、海も陸も、全ての生き物も創られたのです。ですからこの世界全てが神のもの、神が支配しておられるものであるということを知りなさい、と主イエスは言っておられます。神の世界、皇帝の世界という別々の領域があるのではなく、全てが神のものであるのです。ですから私たちの生活は、その全てが神のご支配のもとにあり、神の導き、恵みの賜物であることを覚え、常に神にお返ししつつ歩むということです。
■神にお返しする生き方
さらに気付かされますことは、主イエスが「返す」という言葉を使っておられることです。「返す」のですから、元々の持ち主があり、その所有者に戻すということです。彼らに対して主イエスが語られたぶどう園の譬えで、その主人は農夫たちに貸したのでありましたけれども、彼らは収穫ののち、持ち主に帰すことを拒みました。自分たちのものにしようと思い、僕たちを、果ては主人の息子まで殺して自分のものにしようとしました。ぶどう園は自分たちのものではなく、主人から貸し与えられたものであることを覚え、主人に帰すべきものを求められたのと同じことが私たちにも求められています。「あなた自身は誰のものなのか」主イエスはこの問いを、彼らに、また、私たちに投げかけておられます。私たちが日々生きていくにあたっての全てのもの、時間、財産、才能、そしてまた私たちの心、そして人生そのもの、私たちは知らず知らずのうちにそれらを自分のものとしていないでしょうか。自分の頑張りによって、自分の力によって得たものとして、神にお返しすることを忘れていないでしょうか。私たちは本来、神のものでありながら、罪によって神から離れてしまった存在です。しかし、そのような私たちを再び神のものとしてくださったのが主イエスの十字架であります。主イエスはこのマタイ10章28節でこう言っておられました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」そして30節にはこう続いています。「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。」たとえ誰かが私の体を滅ぼすことができたとしても、神の姿が刻まれているこの私自身を殺すことはできないのです。その体を誰かが殺したとしても、髪の毛一本までも、神のものであり続ける、と主イエスは言われました。これが真実であり、父なる神の愛、私の髪の毛一本までも数えてくださる神の愛があります。私たちにはこの確信が与えられています。
■結び
「神のものを神に返す」ことの中に、「皇帝のものは皇帝に」が位置付けられています。私たちは神の恵みのもとで、社会の秩序を重んじつつ、それすらも神のものであることを覚えて、神の御心がなることを信じて歩むのです。第1コリント6章19節以下に、私たちの体は聖霊が宿り、私たちは自分自身のものではなく、主イエスによって買い取られたものであるとありますように、私たちが神のものであるということを、ご自身を捧げることで示してくださいました。今、世界では戦争、貧困、災害、病、など、多くの困難があります。苦しみ、悲しんでおられる方々が多くおられます。それらはどこか遠くの出来事ではなく、私たちのすぐ隣にあります。私たちはそれらをニュースで見るだけの傍観者ではなく、主イエスが常に人々の痛み、悲しみに寄り添われたように、それらの痛み、苦しみ、悲しみを少しでも自分のこととして覚えるようありたいと思います。主イエスがご自身を神にお返しになったように、私たちに与えられているもの、また、私たち自身が神のものであることを改めて覚え、神にお返しする、神にお捧げする道を祈り求めつつ歩みたいと思います。
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