top of page

『神を中心に据える』 2025年2月9日

説教題: 『神を中心に据える』

聖書箇所: 旧約聖書 出エジプト記20:2-6

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:19-24

説教日: 2025年2月9日・降誕節第7主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日のマタイの箇所の小見出しを見ていただきますと、「天に富を積みなさい」、「体のともし火は目」、「神と富」と並んでおります。最初の「天に富を積む」と3番目の「神と富」はなるほど「富」がキーワードなのであろう、ということはお分かりいただけると思いますが、その間に「体のともし火は目」という短い2節が挟まれています。これはなぜなのでしょうか?そしてどんな意味があるのでしょう。「富」の間に挟まれているこの「目」にも注目しながら、今日はこの3つの御言葉から共に聴きたいと思います。

 

■虫に喰われても

「あなたがたは地上に富を積んではならない。富は天に積みなさい。」主イエスはそのように言われます。私たちは様々な富、宝をこの地上に積み上げます。それは文字通り、お金、財産、また、仕事上の経験や地位、功績など、幅広く挙げることができるでしょう。いつの時代でも、何かを成し遂げ、積み上げ、名を残した人はすごい人だと言われます。ですから、誰もがそれぞれに、この地にいる間に、富、宝、財産を獲得して、それを積み上げることが幸せであると考え、そのために躍起になり、得たもので満足感を得たりするわけです。しかし、この地上の富、それは虫が食ったり、錆びついたりする。また、盗まれたりもする、と主イエスは言われます。実際、大切にしているもの、例えば形見の着物や高級な服であっても、虫に食われてしまうということはあるわけですし、金属のもの、例えば時計や宝石であったとしても、錆びつく、色がくすむ、壊れるということはあるわけです。また、ガラスや陶器であれば、割れる、壊れるということは必ずあることです。虫に食われるのは着物や服だけではありません。白蟻であれば、たとえ豪邸であったとしてもダメにすることはできますし、また、ここで虫に喰われることを具体的にイメージしている入れ物は、日本で言えば、茶箱や長持。杉の木で箱を作って、お茶の葉、大きいものでは着物を入れて保管しました。虫に喰われにくく、湿気から守ることができたからです。西洋的にイメージしましたら、ガッチリした南京錠をつけた宝箱でしょうが、これとて、木で作られていますから、頑丈な南京錠は開けられなくとも、虫が食って小さな穴から中に侵入して、中のものをダメにすることだってあったのです。きっとこの宝箱の持ち主はこれだけしっかりした南京錠をかけておけば、大丈夫と思っていたことでしょう。でも、久しぶりに開けてみたら中に入れておいた大切な何かはボロボロになっていたというわけです。そして、盗人が忍び込んで、というのも、同じような意味です。実際に、強盗に入るというよりも、誰にもわからないように、地中に隠しておいた宝物が、巧みに知らない間に掘り出されていて、気づいたら空っぽになっていた、というようなことがありうるわけです。この地上において、私たちが躍起になって大切にする宝は、そのように朽ちていく、錆びたりもする、価値のないものになることもある、ということが説明されています。そして私たちの誰もが、そのことはよくわかっています。それにもかかわらず、私たちは地上の宝を蓄えることに苦労しています。主イエスの言われる御言葉は、確かに知っているし、その虚しさも理解しつつ、生きるためにはそれは必要であると思っているのです。私たち人間がそのような存在であることを、神は十分にご存知であります。それでは、その上で何を求めておられるのでしょうか。

 

■富を天に積む

富、宝は天に積みなさい、と主は言われます。さて、「天に富を積む」というのはどういうことでしょうか。天とはどこでしょうか。少し前、私たちは主の祈りの御言葉から聞きました。その始まりは「天にまします我らの父よ」つまり、父なる神がおられるところが天であります。父なる神がおられる天においては、虫が食うこともなく、錆びることもない、つまり滅びることもない、と主イエスは言われました。天に富を積むという言葉から具体的にどのようなことを想像しますでしょうか。ルカによる福音書12章33節を見ますと、こう書かれています。「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」ルカでは「自分の持ち物を売り払って施しなさい。」と具体的に書かれています。ここに示されるように、自分の財産を売り払い、貧しい人々に施すことが、富を天に積むことでしょうか。ということは、そのように人を助ける、人のために尽くす、というような良い行いをすることが天に富を積むことである、主イエスはそう言っておられるのでしょうか。いわゆる「徳を積む」ということでしょうか?この「徳を積む」という言葉は日本人には馴染みがあると言えましょう。徳を積めば、神がいわば利息をつけてその人に返してくださる、そのように理解しがちであろうと思います。しかし、主イエスが言っておられるのはそのようなことではありません。主イエスは、自分の持ち物、自分の富を売り払え、と言われました。その意味するところは、この地上で私たちがこだわって大切にしているものを手放せ、という意味です。それらの自分のこだわりにおいて大切にしている富、つまり、それがあることによって自分が豊かであると思う物、富へのこだわりを「捨てなさい」ということです。それらを守るかのように、常にそれらに目を注ぎ、心を向けるのをやめなさい、ということです。それが主イエスの言われた「あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」という21節の御言葉の意味であります。

 

■神とつながっているしるし

それらに心を向ける、それがつまり、自分の見ているものということです。ここで22節の「目」の意味が示されます。私たちは日曜日ごとに教会に来て、御言葉に養われます。御言葉に養わるのは、耳からだけではありません。私たちの「目が澄んでいる」状態はどのようなときであるかといえば、それは私たちが神を仰ぐ、主を仰いでいるとき、その目は澄んでいるということです。旧約の民は神を見たら命を失うと言われましたけれども、私たちは見えない神様を見えるお方として見るように与えられた民なのです。ですから、私たちは主イエスを仰ぎ見る。そして主イエスがご覧になったものを見る。すでに教えていただいた祈りも彼ら、偽善者の真似をするのではなく、私の真似をしなさい、こう祈りなさい、とまさに口伝えで主イエスは教えてくださったのです。ですから、主イエスの言われたように口にする。主イエスの見ておられたものを見る、主イエスは私たちにそのようであることを求めておられるのです。

主イエスは、よく天を仰がれました。それは父なる神を思う時であり、父なる神に祈る時であり、父なる神と話される時でありました。マタイ14:19-28頁、五千人の人々に食べ物をお与えになるとき、5つのパンと2匹の魚、それらを前にして、主イエスは天を仰いで賛美の祈りを捧げられました。そこにいたすべての人々が満たされた。そう聖書は記しています。主イエスが天を仰がれた、それは単なる祈りの姿勢ではなく、父なる神に目を注いでいらしたのです。私たちもそのようにして父なる神を仰ぎ見るならば、私たちの目は澄んでいます。私たちは主イエスを通して、父なる神とつながるのであります。主イエスが見ておられたものを見る、見続ける。何度でも見る。それによって私たちの目は澄んでくるのではないでしょうか。

私たちはこの世において、様々なものを見て、そしてそれに振り回されたりします。そして神を忘れ、祈りを忘れ、何が大切なのかがわからなくなってくる。目に見えない神様よりも目の前に現れて、目の前で起こっていること、目の前にあるものが、私たちの心をとらえて、それが一番!となって優先順位がひっくり返ります。そうなったとき、私たちの心、目、体は濁ってくるのです。ヨハネ1章9節、「その光はまことの光で、世に来て全ての人を照らすのである。」主イエスはこうして私たちの地に来られ、そして8章12節、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われました。わたしたちが主イエスを見ている限り、主イエスが私たちの中におられ、それゆえに私たちの体は明るいのであります。しかし、私たちがこの地上で大切にしているもの、富に目を向けるならば、心はそこにあり、そして私たちの目は濁ってくる。そして目だけでなく、私たち全身が暗くなる、と主イエスは言っておられるのです。私たちの中にある光、それは主イエスであり、主イエスによって私たちは神と繋がるのです。

 

■神と富

さて、最後の24節の「神と富」で、主イエスは「だれも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。」と言われました。今日、共に聴いて参りました箇所、いずれも同様のこと、一言で言い表すとしましたら、神のみに仕えよ、ということであります。ここまで、私たちにとって本当に大切な宝は、神に喜ばれるものであり、神に焦点を合わせて生きることによって、私たちは光の中に置かれるということが語られてきました。この24節はすでに語られた19節から23節のダメ押しと言える主イエスのお言葉であります。まずここで言われる「主人」とはどのような存在でしょうか。主イエスの時代は奴隷制度が当たり前でありましたから、奴隷と主人という関係がありました。奴隷にとって、主人は絶対的な存在であり、主人は何を望んでおられるだろうか、と考えるのが奴隷にとっての基本であります。主人を一番大切にする、これが大前提です。ですから、ここで二人の主人、一方は神、もう一方は富、と二つ挙げられておりますから、神を一番大切にするか、富を一番大切にするか、それは両立しないということが言われているわけです。今日の19節からにも「富」という言葉が出ておりますけれども、実はこれは日本語では同じ訳になっていますが、元々の言葉は違う言葉であります。19節からの「富」は宝、つまり、大切にしている、大切に思っているもの、という物質的でないものをも含む言葉ですが、この24節の「富」これはまさに金銀、つまりお金ということです。人間は元々、造られた存在ですから、造ったお方が主人。主人を持つ存在です。しかし、私は誰をも主人としない、頼れるのは自分しかいないと言われる方もあります。それではその自分は絶対的な存在ですか?間違うことはありませんか?と問いたいと思います。どんなに理性的で、物事を分析して判断する人であったとしても、その判断が間違いなく正しいとどうして言えましょうか。人間が不確かな存在であるということは、有史以来、さまざまな宗教が説いてきました。日本人の宗教観からしても、おみくじや占いなどに頼りたくなるというのは、自分の判断が絶対的でないことを証明していると言えましょう。だから頼れるのはお金だというような安易な発想にもつながり、そこに全ての価値を置き、お金が第一である「金の亡者」にさえなって、本当に大切なものが見えなくなります。この富と訳されている言葉は、単にお金という意味に加えて、不正直な商売で得たものとか、詐欺的な利益追求というような、ネガティブな意味を持っていて、さらには、神と対立する、争う力として人格化され、悪魔的な性格を持っていると言われます。人間を独占して人間に襲いかかり、人間が所有する代わりに人間を所有するのです。

 

■結び

確かに私たちにはお金は必要です。富やお金が悪なのではありません。富もお金も私たちに与えられるもの、それらは全て神から来るのです。富やお金は神ではなく、私たちの考え方によっては、悪魔的なサタンの道具として、私たちを支配するのです。しかし、あなたがたが求める前から父なる神はご存じであると記されているように、神は全てのことをご存知なのです。まことの神を神とし、神を自分の生活の中心に置くことによって、他の全てのものは絶対化されずに、その価値とその限界を見分けられて、その奴隷にはならないで済むのです。私たちが神につながるためには、主イエスが見ておられたものに目を注ぐ。主イエスが私たちの体全体のうちにいてくださり、私たちの目を澄んだものとし、私たちのうちに光が灯るのです。そのようにして主イエスに支えられている生き方は、この世の富を拠り所とすることによっては決して得ることのできない本当の支え、本当の幸いが与えられるのです。私たちの主人は神であるというこのことをブレない軸として私たちの中心に据えることができるよう、常に主イエスを仰ぎ見続けたいと思うのであります。

最新記事

すべて表示

『門は開かれる』 2025年3月2日

説教題: 『門は開かれる』 聖書箇所:旧約聖書 詩編27:4-14(旧857ページ) 聖書箇所: 新約聖書  マタイによる福音書7:7-12(新11ページ) 説教日: 2025年3月2日・降誕節第10主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

『人を裁くとき』 2025年2月23日

説教題: 『人を裁くとき』 聖書箇所: 旧約聖書 詩編143:1-2 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:1-6 説教日: 2025年2月23日・降誕節第9主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに 今日の箇所からマタイ7章に入ります。何度も繰り返しお話しして...

『信仰のまなざし』 2025年2月16日

説教題: 『信仰のまなざし』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書43:1-7 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書6:25-34 説教日: 2025年2月16日・降誕節第8主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

Opmerkingen


bottom of page