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『神への応答として』 2024年10月27日

説教題: 『神への応答として』

聖書箇所: 旧約聖書 申命記23:22-24

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:33-37

説教日: 2024年10月27日・降誕前第9主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

5章の後半21節からは、律法、十戒では以下のように律法で禁止され、そしてそれを皆、このように理解しているであろう、しかし、私はさらにあなたがたに言う。このようにしなさい。と主イエスの積極的な生き方、愛に基づいた律法理解が示されてきました。今日の箇所、33節から37節、「誓ってはならない」とあるこの箇所は十戒に当てはめますと、出エジプト記20章16節の、十戒の第9戒「偽証してはならない」と言う箇所に当てはまるでしょうし、さらには7節にあります十戒の第3の戒め「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」と言うこの二つの戒めに関連していると言えるでしょう。十戒はその前半部分が神との関係に関するもので、後半が人間関係におけるものを指し示していると言われています。当然のことながら、前半部分における神との関係性を基本として、後半の人間関係における戒めが繋がっているわけです。「誓いを立てる」と言うことは、天地神明に誓って、とか、神の前に偽りなく、と言うような枕言葉が使われますように、偽りの証言というものは、神に対して偽りを言うということになりますし、神の名を正しくないことに使う、神の名をみだりに唱えてはならない、ということに相通じるということです。旧約における律法とはモーセ五書、つまり、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つ、これが律法の中核であり、そして旧約聖書全体を貫く戒めでもあったわけです。

33節に記されている、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ。」と言われている律法は民数記30章3節、266ページ、誓願の規定、と言う小見出しの箇所に記されています。「人が主に誓願を立てるか、物断ちの誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。」と言う箇所であり、同様に、申命記23章22節、「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなくそれを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」であり、そして、更なるつながりを申し上げると、レビ記19章11節、「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」という箇所にも繋がっていることがお分かりになると思います。

このように今、挙げました3つの箇所、民数記、申命記、レビ記、いずれも律法として単独に理解されるのではなく、どれもつながりを持つものとして理解されていました。

 

■神を利用してはならない

申命記23章22節の「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなくそれを果たしなさい。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求め、あなたの罪とされるからである。唇に出したことはそれを守り、口で約束した誓願は、あなたの神、主に誓願したとおりに実行しなさい」というこの言葉を読みますと、「誓いをしたならば、それを果たしなさい」と書かれていると理解いたします。しかし、今日の箇所で主イエスは言われました。「一切、誓いを立ててはならない。」誓っても良い?誓ってはダメ?どちらなのでしょうか?どうしたら良いのでしょうか?主イエスの言われるその心は?とまさに謎解きのようになってきました。

申命記に記されている御言葉をもう少し深く読んでみますと、誓願を立てることよりも、誓願をした後のことが問われております。「遅らせることなく果たしなさい」、「唇に出したことは守りなさい」、「誓願した通りに実行しなさい」とある通りです。誓いを立てるかどうか、ということよりも、誓った後の責任が問われているのです。私たちは誓いに限らず、約束を守るということでもなかなかできないのではないでしょうか。単純に忘れてしまったり、もしくは事情が変わって出来なくなったりすることがあるのです。ましてや、誓いに関して言えば、一度行うということではなく、実行し続けるという意味合いが強いのではないでしょうか。誓うことは簡単に出来ても、それをやり続けることの難しさということまで考えますとき、私たちは自分の言葉に対しての責任を軽く考えてしまっていることに気づかされます。

そのようなことに思いを馳せながら、主イエスの御言葉に耳を傾けたいと思います。

「一切誓いを立ててはならない」につづけてこう言われました。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。」主イエスは「誓ってはならない」なぜならば、ということを4つ説明されました。天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、いずれも神にかけて誓うということです。当時のユダヤ人は「神の名をみだりに唱えてはならない」十戒のこの戒めを破らないために、天にかけて、地にかけて、エルサレムにかけて、誓っていました。神に誓うといえば、十戒を破ることになりますし、さらにはそれを実行できなかった場合には、神を冒涜することになってしまうからです。つまり、ここからわかりますことは、これは人間の考えた抜け道、逃げ道であるということです。主イエスが「一切誓いを立ててはならない」と言われたのは、このような抜け道、逃げ道という退路を断つためでありました。また、四つ目には「あなたの頭にかけて誓ってはならない。」と記されていますが、これは当時のギリシア、ローマの人々の誓い方であると言われています。自ら考える知識などを重視するギリシアの人々は、自分の体の中で最も大切なのは頭であると考えていたのです。それゆえに、「頭にかけて誓う」ということがなされていたのでした。しかし、自分の考えること、それが最も確実である、と考える人だとしても、自分の髪の毛一本すら、白くも黒くもできないではないか、と主イエスは言われるのです。自分の髪の毛、自分の体、自分の命、それら全て何一つ自分の思い通りにはできないではないか、と言っておられるのです。全て神によって造られ、神によって養われ、神によって与えられている、つまり、この自分は神のものであるということです。私たち人間に限らず、全て造られたものは神がお造りになったものです。ですから、何かにかけて誓うということよりも、私たちの語る言葉全て、私たちの行い全て、それは神の御前において、ということであり、神は全てを見ておられるということです。誓ったときの言葉のみならず、私たちが発するすべての言葉は、神に知られている、神の前の言葉として責任を持つようにということを言っておられるのです。

 

■神が間に立ってくださる

私たちの語る言葉、行い全てが神に知られているのであるから、不用意なことは語るな、するな、ということではありません。私たちが覚えるべきことは、私たち自身の全てが神の愛のうちに置かれているということです。私たち人間の言葉、行い、いずれもが不完全であり、矛盾を含むものであり、一貫しておらず、人を傷つけ、不誠実なものであり、結果として無責任なものとなってしまう、そのことは主なる神は十分にご存じであります。主イエスは何のために人としてきてくださったか。それは私たちの罪の清算のためでありました。私たちの愚かさも、私たちの過ちも全て主イエスが責任を持って最終的に負ってくださったのです。それほどまでに神は私たちを愛してくださっている、このことに応答することが私たち人間の責任であるということです。私たちの言葉の曖昧さ、あやふやさの根底を主イエスが支えてくださる、このことを知るとき、私たちは互いに信頼し合えるのではないでしょうか。私たちが語る言葉、それは時に嘘となることがあります。そうしますと、相手は傷つきます。その人を信用できない、となり、時にそれは人間関係を壊すものとなります。それは夫婦、友人、同僚、様々な関係においてそのようなことが起こります。そうして相手への信頼がなくなりますと、相手を疑心暗鬼の目で見るようになり、そこから生まれるものは、怒りであり、憎しみです。愛の関係は決して生まれません。しかし、そこに主イエスが介入してくださることによって、それは人間同士の関係でありながら、神が間に立ってくださる関係になるのです。

 

■教会での誓い

私たちは教会において誓い、誓約をいたします。年度初めには役員の任職式、教会学校教師の任職式、そして転入会式、洗礼式、また、牧師の就任式や結婚式でも誓約があります。洗礼式では、父・子・聖霊なる神を信じます、教会員としての務めを果たしていくことを誓約いたします。教会の営みにおいて、私たちの信仰生活において、このように誓いを口にいたします。主イエスの「一切、誓ってはならない」という教えに反しているわけではありません。教会において、また、私たちの信仰生活においてなされるこれらの誓いは、お話ししたように主イエスが間に立ってくださるものであり、神の愛に対する応答としてなされるものです。神を信じ、神に従い、神にお仕えして生きていく、という約束です。それは私たちだけでは決して成し遂げることのできないものですけれども、全てを担い、全てをお引き受けくださる主イエスにより頼みますという意思表明なのです。教会員としての務めも、役員としての務めも、また、牧者としての働きも、自分たちの力や責任感だけではできることではないのです。神が共にいてくださり、神が私たちを用いてくださる、神の愛の中で実現していくことなのです。

 

■「然り、然り」

今日の御言葉の最後37節には、「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出る。」と主イエスは言われました。わかりやすく言いますと、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」、そのどちらかのみ。明快な責任ある答え方をしなさい、という勧めです。私たちは、時に、「はい、だけどね」という言い方をすることがありますね。はい、Yes、と言いながら、心では、でもね、No、と思っていると言うことです。言い訳をする時もそうでありましょう。口は然り、その通りです、と言いながら、心の中ではそうは思っていないのです。このことを主イエスは否定されました。主イエスは神の子、神であられ、そして神のご計画は、主イエスにおいて全て実現されました。このことをパウロはコリントの信徒への手紙2、1章18―20節でこう言っています。「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたし(パウロ)とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」まさに、パウロのこの言葉に支えられて、私たちは毎週、教会において、また、それぞれ一人一人の祈りにおいて、「アーメン」、「然り」、「その通りです」と口にするのであります。

 

■結び

神の約束は、主イエスにおいてことごとく「然り」となりました。それゆえ、私たちも「然り」は「然り」、「否」は「否」と誠実かつ明確な言葉を語ることで神に応えたい、神に約束したいと思います。自分の力ではなく、その約束を神が実現へと導いてくださるように祈りつつ。神は御自分の約束がことごとく主イエスにおいて「然り」となったことを私たちが信じられるよう、その保証として教会に聖霊を与えてくださったからです。

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