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『与えられる言葉を語る』2025年7月6日

  • NEDU Church
  • 1 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『与えられる言葉を語る』

聖書箇所: 旧約聖書 出エジプト記4:10-17

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書10:16-25

説教日: 2025年7月6日・聖霊降臨節第5主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

前回から10章を共に読んでおります。主イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのをご覧になって、深く憐れまれました。主イエスはご自分がそのような羊たち、人々を養い導く羊飼いであると意識しておられました。そして、そのような羊飼いとしての働きを実現していくために、十二人の弟子たちを使徒としてお選びになられたのでした。この10章では、主イエスが弟子たちを派遣するにあたっての心構えが語られています。彼らは人々を導くため、羊飼いとして遣わされた、と言いたいところですが、主イエスは16節で「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言われました。つまり、彼らは羊飼いではなく、むしろ弱い羊。一方、世の人々は飼い主がいなくて弱り果てている羊というよりは狼の群れであるというのです。前回の最後のところでも、弟子たちを受け入れず、拒否する人々がいるということが示されていました。14節以下です。今日の箇所ではそのことがより明確に、「迫害される」という厳しい状況をお話しされています。

 

■人々の本当の姿

人々は狼のようである、と主イエスは言われます。自分の力でやっていけると思っている人々、そのような人々にとって、弟子たちの働きは余計なお世話です。自分たちに飼い主などいらないと思っているのですから、その反応は拒絶であります。それゆえ、まるで獰猛な狼のように彼らに襲いかかるのです。本来は一人では生きてゆけない羊、飼い主なしには生きてゆけない羊であるにもかかわらず、人々はそれを認めようとはしません。主イエスは人々の本当の姿、飼い主がいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている姿を見つめておられます。その本当の姿を知っておられるがゆえに、たとえ仮の姿であろうとも狼のように暴力的な人々の中に、弟子たちを無防備な羊として遣わすのです。金貨どころか、一銭のお金も持たず、身を守る杖もない。何も持たずに弟子たちは遣わされていきます。そのような弟子たちに主イエスは指示をお与えになりました。16節後半です、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」一見矛盾するかのように聞こえる言葉です。鳩はユダヤ人にとってもギリシア人にとっても、無防備、純粋、そして誠実の模範です。それに対して蛇は創世記3章で人間を誘惑して神から背かせて禁断の木の実を食べるようにそそのかした狡猾な動物です。賢さの代表というよりは、ずる賢さの代表というようなイメージでありましょう。しかし、ここで主イエスが言われた蛇のように、というのは決してずる賢く立ち回れということではありません。狼と呼ばれる人々は、この世においてうまく立ち回る賢さを備えている人々であります。それらの人々を上回る賢さというのは、決して狡猾なずる賢さではなく、鳩のような素直さと合わさった賢さということです。鳩のような素直さというのがどのようなことであるのかといえば、このマタイの山上の教えでも出てきました「空の鳥」を譬えとして教えられてきたことでありました。自らの力、知恵によってではなく、ただ神に身を委ね、神の守りと養い、導きに信頼して歩むということです。神の知恵が賢いのです。

 

■信仰者の苦しみ

そのようにして狼の群れの中に送り込まれる羊のような弟子たち、この世に遣わされた弟子たち、信仰者たちはどうなるのでしょうか。そのことが17節、18節に語られています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。」弟子たちがこのような苦難、迫害を受けると主イエスは言われるのです。「引き渡され、鞭打たれ、総督や王の前に引き出され」という言葉は、主イエスのお受けになった十字架の受難と重なります。今、2千年経った私たちはキリスト教の歴史の迫害の厳しさ、弟子たちが受けた迫害の数々を聖書や歴史を通して知っておりますけれども、これを聞いていた弟子たちにとってそれは想像できないことでありました。主イエスの弟子としてどのような覚悟があったか、それはとても弱く脆いものでありました。8章18節以下でも弟子の覚悟の厳しさが語られ、そしてガリラヤ湖での激しい嵐において、その小さな信仰を指摘して弟子たちを訓練してこられた主イエスであられます。こうして弟子たちに大変厳しい迫害の現実をお話しされても、おそらく聞いたときにはわからなかったことでありましょう。しかし、その後、大迫害の時代、弟子たちはこの時の主イエスのお言葉を思い出したのです。そして彼らは主イエスが受けられた十字架のご苦難を間近で見た者たちでもありました。この時語られたそのお言葉は彼らの見た実際の光景と重なったのであります。弟子たちは苦しみを受けつつ、主イエスによって実現した神のご支配、救いを語り続けたのです。語ることによって更なる迫害を受けたということです。21節以下にこう記されています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」主イエス・キリストの信仰、救いを語るゆえに、家族、兄弟の間においても対立が生じ、そして殺されるという事態も起こる。さらには全ての人に憎まれるということも起こるのだと主イエスは言われました。この世に遣わされていく信仰者は、人々に受け入れられず、憎しみの中に置かれ、苦しむということを主イエスは、弟子たちに、そしてこの私たちにきっぱりとお話になられています。私たちにその覚悟をさせようとしておられます。現代の私たちにおいては、迫害ということは直接的には大きなものとして感じられることはあまりないかもしれませんが、しかし、苦しみや憎しみ、また無理解の中に置かれることは必ずあることであり、そして主イエスによって遣わされた者たちは必ず受けるものなのだといっておられるのです。

 

■どのように歩むべきか

さて、そのような中、弟子たちはどうしたらよいのでしょうか。19節20節にはこのようにあります。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」弟子たちが遣わされるのは、そしてまた、私たちがこの世に出ていくのは、証しをするためです。主イエスの語られた御言葉を語り、主イエスによる救いを語るということです。しかし、そのために語る言葉を心配しなくて良い、と言っておられます。それは前回のところで、お金も旅支度も何も持って行ってはならないとお命じになったことと同じです。語るのは、私たちではなく天の父の霊、聖霊によって与えられるというのです。天の父は必要なものは全てご存じであり、それらは祈りのうちに与えられる、主イエスはそのように弟子たちに、私たちに教えてくださっておられます。

私もこうして毎週説教を礼拝において、語らせていただいているわけですが、まず何度も聖書をただ読むことから始まり、わからない言葉を調べて、ということを繰り返しているうちに、メッセージの中心となるものが与えられるということは何度も経験しています。聖書を説明するのではなく、神からのメッセージとして神の救いの恵み、慰め、希望が言葉となり、それが聖霊によって与えられる。そのようでありたいと祈り願っています。私たちの今年の年間標語は「祈りと御言葉に生かされる」でありますが、私のように語るものだけでなく、お一人お一人に聖書から与えられる神の言葉は父なる神の霊、聖霊の語りかけであり、私たちは日々、その聖霊の語りかけによって、生かされ、慰められ、力をいただくのではないでしょうか。

 

■耐え忍ぶ者は救われる

22節最後にこのように記されています。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」狼に対して鳩のようであれ、と最初に記されておりましたけれども、狼に対して狼になって対抗するのではなく、無防備な羊のまま、鳩のように素直な者として耐え忍びなさい、と言われています。この言葉も主イエスの御受難のお姿と重なります。イザヤ書53章7節の御言葉、「屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」が思い出されます。そして23節では「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。」と主イエスは言われます。逃げなさい、と言われるとなんだか負けてしまったというような感覚になりますけれども、決してそうではないのです。忍耐することはずっとそこに踏みとどまることではなくて、継続するということです。他の町に行っても良いのです。別の場所に逃げる。そしてその新たな場所で主イエスに遣わされた者として歩むということです。信仰者をやめることではなく、続けることです。これは私たちの教会生活においても当てはまることではないでしょうか。教会は確かに神の家であり、神の言葉が語られる場所でありますけれども、人間が集まるところであります。さまざまな欠けを持ち、さまざまな罪を犯し続けている人間が集まっているのです。第1コリント1:21でパウロはこのように言っています。「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」人間は自分の知恵では神を知ることはできませんでした。神は全知全能であられるのですから、神ご自身がなさってくだされば簡単にできてしまうはずですが、神は「神を知る」「神による救い」ということを人間が知るために、それを宣教として人間に託されたのです。しかし、それを行う人間には多くの欠けがあり、誤りがあります。完全ではないのです。ですから、人対人においては衝突も起こりますし、間違いも起こります。私たちの教会においてもそのようなつまずきということは避けて通れないことです。そのような時、教会から離れるのではなく、別の教会で信仰生活を続けていく、ということはとても大切なことです。何かの躓きで教会から離れてしまった方が、別の教会で信仰生活を守っておられるとお聞きする時、神の恵みに心から感謝すると共に、これもまた伝道の広がりとして私たちに与えられているのだと考えるようになりました。

キリスト教会の始まりから2千年、弟子たちによる伝道の業は、うまくいかなかったことの方が多かったのです。パウロの伝道も同じでありました。伝えても伝えても理解されず、迫害を受け、そしてまた別の町で伝える。その繰り返しでした。その結果が現在の私たちのこの異邦の地まで、伝えられている。これが主イエスの弟子となった者たちが繰り返してきたことなのです。

 

■結び

今日の箇所の最後のところで、主イエスは師、主人、弟子や私たち信仰者を弟子、僕として譬えておられます。家の主人、主イエスがベルゼブルつまり悪霊のかしらと言われるのなら、弟子や僕はもっとひどく言われるであろう、と言っておられます。ここで大切なことは、主イエスが弟子、僕、私たち信仰者を「家族」と呼んでおられることです。私たちは弱く、すぐに逃げ出したくなり、忍耐強くもなく、欠けの多い者たちです。主イエスから遣わされても到底、その使命を果たすことなどできない者たちなのです。しかし、主イエスはそのような私たちの罪を全て担い、十字架におかかりになってくださって、私たちの罪を赦し、そして私たちを家族としてくださったのです。そしてその救いの御業を完成してくださいました。救いは私たちの働きによってではなく、神の恵みによって与えられるのであります。ですから、私たちの働きは、ささやかであったとしても、神の恵みに感謝し、完全にしてくださる神を信頼して、主イエスにお従いし、日々、私たちに与えられる御言葉を口にして、小さな証しの働きなすものとして用いられたいと願うのであります。

 
 
 

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