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『だから恐れるな』2025年7月13日

  • NEDU Church
  • 15 時間前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『だから恐れるな』

聖書箇所: 旧約聖書 詩編56:1-14

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書10:26-33

説教日: 2025年7月13日・聖霊降臨節第6主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

十二人の弟子を選ばれた主イエスは、彼らを派遣するにあたって、はなむけの言葉を彼らに語っておられます。彼らへのメッセージが続いています。彼らへの励ましの言葉です。彼ら、弟子たちの派遣は狼の群れの中に羊を送るようなものであり、そして兄弟や親子の間においても不和が起こり、すべての人に憎まれるであろう。また、地方法院に引き渡されて、鞭打たれることにもなろう、と彼らが受けるであろう迫害について語られていました。遣わされる弟子たちはそのような迫害を受けると言っておられます。しかし、そのような苦しみの中でも「恐れるな」と主イエスは言われます。

 

■人々の前で

この主イエスによって選ばれ、遣わされる十二人の弟子たちに向けてのメッセージは決して、彼らだけではなく、主イエスを信じますと告白している現代の私たちへのメッセージでもあるということをすでにお話ししてきました。主イエスを救い主と信じ、告白した者たちは例外なく、主イエスによって選ばれ、そしてこの世に遣わされています。前回もお話しいたしましたように、主イエスは私たちを家族としてくださり、天の父と繋げてくださっているのです。そのことが今日の32節以下にはっきりと記されています。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」人々の前で「私は主イエスの仲間です」というか、「私は主イエスなどという人は知りません、何の関係もありません」というかということが問われています。ペトロは「たとえご一緒に死ななければならなくなったとしても、あなたのことを知らないなどとは決して言いません」と断言しましたけれども、実際に主イエスが捕えられ、十字架の直前に「あなたもあの人の仲間ですよね?」と問われたペトロは「知らない、関係ない、絶対知らない」と3回も完全否定しました。私たちはペトロの愚かさ、弱さを他人事とは思えないのではないでしょうか。人々の前で、「私は主イエスに従う者です。ですから主イエスの語られた言葉を私も語ります」と言えるかどうか、このことが問われているのです。主イエスの教えを熱心に聞いていたとしても、主イエスを「わが主である」と告白するかどうかというそのことが問われています。とても簡単なことのようでいて、実はとても厳しいことが問われています。そしてここで主イエスが言われたのは、まずは私が「はい、私はあの方を知っています」というかどうか、によってであります。主イエスの方から先に、この人は知っているけれども、あの人は知らないとはおっしゃらないということです。

 

■洗礼によって

主イエスは私たちの告白を待っておられるのです。私たちが人々の前でこのような告白をすること、それは現代においては洗礼を受けることにおける信仰告白と結びついています。主イエスの教えの良いところを聞いて、そうだ、良い教えだ、と言うことはある意味簡単なことでありましょう。しかし、その方を絶対的なお方とし、その方によって私自身が救われたと実感することとは別のことなのです。私自身のことで恐縮ですが、実際私がそうでありました。私は中学高校とキリスト教主義の学校に通い、毎日礼拝を捧げ、聖書を読み、主イエスの言われる愛の教えを学びました。さらに大学でもキリスト教学を学び、キリスト教倫理学を専攻しました。キリスト教の示す愛の倫理が実践されたならば、争いより平和、人にあっては憎しみよりも愛という世界になると考えました。それでキリスト教がわかったような気になっていたのです。特別に洗礼を受けなくとも知識として学び、それを少しでも実践できれば良いのではないか、そのように考えていました。私自身の中に主イエスはいてくださる、それで良いではないかという自己満足です。しかし、そのような私に大きな転機が与えられます。それがイスラム圏での生活でした。彼らにとって宗教は食事するのと同じぐらい日常であり、そして呼吸を意識しないのと同じように、組み込まれていることでした。宗教はその人の人となりをはっきりと表すしるしなのです。あなたの宗教は?と突きつけられ、私は自分自身の中途半端さを知ることになります。主イエスの「教え」は知っている、でも主イエスを知っていると言えるのか、ということであり、私は時々知っているというようないい加減さを知ることとなります。ペトロが主イエスを否定したときは、知っていると言ったならば自分も捕えられてしまうかもしれない、そこまでいかなくとも自分に害が及ぶのではないだろうか、まずいことになるのではないだろうか、そのような時でありました。私はもちろん、それほどのことではありませんでしたけれども、イスラム教徒の中に放り込まれて、初めて主イエスの教えを知っているではなく、主イエスを知らなければならないと思いました。それが私が洗礼へと導かれるきっかけとなりました。もちろん、何の知識もなく主イエスを救い主と告白することはできませんから、聖書の学びや教えは必要でありますけれども、知識や教えではなく、主イエスを知るというのは、こうした一種の決断を伴うものであります。ですから、人々の前で、「私はあの方を知っています。主イエス・キリストこそ私の救い主です。」と告白し、洗礼を受けるということは、主イエスによって「あなたは私を知っているか」と問われることに対する大きな応答なのです。

 

■真理は隠せない

そのようにして応答した私たちは、この世において主イエスを救い主と信じる者であるということを言い表していく使命を、この弟子たちと同じように与えられています。ここで主イエスから直接に派遣された弟子たちはこの後、大きな迫害を受けます。今の時代にあってそのようなことはあるまいと思っていても、私たちは勇気がなく、臆病な者たちです。

主イエスはそのような私たちをも励ますかのように「恐れるな」というお言葉を今日の箇所において、26節、28節、31節と3回もおっしゃいました。恐れてはならない、その理由も語っておられます。第一には「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずにすむものはない。」ということです。秘密は隠していても必ずいつか明るみにでるというようなことわざが元々の意味であったようですが、主イエスはこの言葉を信仰の真理を示すものとして語られました。神が人間の魂に語りかけたことは、人間がどのような力を持って抑えつけようとしても、それを突き破り現れる、ということです。福音、喜びの知らせはどんなに抑圧されようとも、それに触れる人間に必ず語り続けます。それは歴史を見ても明らかです。共産主義の宗教統制によって教会は迫害を受けましたけれども、キリスト教信仰は生き続け、語り続けられています。パウロも力強くそのことを告げています。第二テモテ2:9「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。」

 

■神を畏れよ

第二には神を畏れよ、ということです。人間にできることは体を殺すことはできるかもしれない、しかし、人間には魂を殺すことはできないのであり、それができるのはただお一人、神のみであるということです。魂とは人間の命そのものです。そして体とは、その命がこの地上で生きていくときの具体的な姿といったら分かりやすくなるでしょうか。ですから、この私たちの目に見える肉体は、敵である人間によって取り去られる、殺される、滅ぼされるということはあるでしょう。しかし、彼らの力は魂までには及ばないのだと言われるのです。神の力は体のみではなく、魂までにも及ぶというのです。私たちの本質の部分、中心にまで及ぶのだと主イエスは言われます。そうであるならば、本当におそれるべきはどちらなのかという問いがなされているのです。本当に恐れるべきお方、その方は、魂も体、私たちの存在の全てを滅ぼすことがおできになる神、その唯一のお方を畏れよ、と主イエスは言っておられるのです。私たちは永遠の命を信じておりますけれども、それは神が命を与えてくださるからであって、私たちに不死の性質が備わっているからではありません。私たちの魂も神は滅ぼすことができる、そのことを知るということです。このことを謙虚に知るとき、私たちは人々を恐れるということから解放されます。神の御手によって初めて滅ぼされる私たちの存在は、人々の手によって滅ぼされることはない。だから恐れるな、と主イエスは言われるのです。箴言1:7に「主を畏れることは知恵の初め。」とありますように、私たちは人を恐れず、神を畏れる。このことを心に留めたいのです。

そしてこの全てを滅ぼす力を持ったお方は同時に私たちを養ってくださるお方であられます。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。とありますように、アサリオンとは当時の通貨の最少の単位でありました。日本円で言いましたら、一円ということです。そのようなごく小さなもの、最少のお金で二羽買うことのできる雀であったとしても、その命の終わりは天の父がお決めになることなのだというのです。すでに共に聴きました山上の教えの中、6章26節以下にも、刈り入れもせず、倉に納めもしない鳥を天の父は養い、そして働きも紡ぎもしない野の花も、天の父はその一つ一つを育ててくださる。ましてや、あなたがたはなおさらではないか、とありました。同じく5章36節には「あなたは髪の毛一本すら、白くも黒くもできない」とありますように、自分ではそんなことすらできないが、神にはできるということです。そして私たちの髪の毛の数までをも神は残らず数えておられる、つまり、それだけ私たちの全てを知り尽くし、そして愛しておられるということです。滅ぼす力において恐るべき方は、その恵みの深さにおいても恐るべきお方なのです。主イエスはこのように本当に恐るべきお方のことをお話しくださいますが、それは恐ろしい存在としての神ではなく、私たちの全てを知り尽くすほどに愛してくださっている神であるということです。神の愛のうちに置かれていることを知る時、神の愛が注がれていることを知る時、私たちは人々への恐れから解放されるのです。

 

■結び

今一度、28節の御言葉を繰り返します。「魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方」これが神です。神はそのようなお方であられますけれども、私たちは地獄には送られず、滅ぼされるべき者であるのに、滅ぼされない。それは主イエスが十字架で死をお引き受けくださったからにほかなりません。それが父の御心であったからです。主イエスはそれに従われました。そしてそのような主イエスを父なる神は復活させられた。神への絶対的な信頼と神の私たちへの尽きることのない愛は、主イエスの十字架とそして復活に示されています。主イエスの死と復活、それが私たちの信仰の中心です。私たちの信仰はいつでも主イエスおひとりにかかっています。主イエスが私たちと天の父とを結んでくださるのです。主イエスと繋がっているものを主イエスは天の父の前で仲間、家族であるとしてくださるのです。その主イエスが、天の父の愛を語ってくださり、「だから、恐れるな。」といっておられます。この言葉に支えられ、キリスト者としての歩みがより確かなものとされますようにと祈ります。

 
 
 

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