『神は招き続ける』2025年5月25日
- NEDU Church
- 5月26日
- 読了時間: 10分
説教題: 『神は招き続ける』
聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書6:1-6
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書9:9-13
説教日: 2025年5月25日・復活節第6主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所は「マタイを弟子にする」という小見出しがつけられています。この召命の記事はマタイ、マルコ、ルカと三つの福音書が記しているわけですけれども、マルコとルカでは、アルファイの子レビ、もしくはレビという徴税人と書かれています。このマタイ福音書だけが「マタイ」となっており、著者とされているマタイが自分の名前を入れたのではないかとも言われてきました。この福音書記者は十二使徒に加えられていないアルファイの子レビが、4章に出てきた最初の4人の弟子の召命に引き続いて記されることの不自然さから、十二使徒の一人の召命記事に書き換えたのではないかとも言われています。しかしながら、現在の聖書学では、このマタイ福音書は使徒マタイの手によるものではないとも言われています。福音書そのものから分かることは、著者が教養あるユダヤ人キリスト者であり、ヘブライ語の素養を持ちつつ、ギリシア語を自由に使いこなし、旧約聖書の律法に精通していた人、という曖昧なことしかわかっていないというのが実情なのです。しかし、私たちは聖書学を研究している者たちではありませんから、今日のこの記事に記されている、この御言葉から聴いてまいりましょう。
■徴税人とは
さて、マタイという人が収税所に座っていました。聖書はそう記します。収税所にいる人の役割とは、税金を徴収するということです。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にありました。ローマ帝国はユダヤ人に徴税の業務を委託していました。徴税人として人々から税を徴収し、ローマへ決まった額を納めさせましたが、決まった額以外の使い道については徴税人の自由にして良いという特権を与えました。つまり自分の懐に入れるという役得があったわけです。ユダヤの人々にとってみれば、そのような人は同胞に対する裏切りであり、許せないことでした。自分たちを支配しているローマ帝国の手先となり、税金を取り立てて、私腹をこやすのですから、神への裏切りの罪を犯していることでもあると考えられていました。ですから、徴税人は同胞たちからは露骨に嫌われ、そして罪人の代表とされていたのです。
■従うマタイ
徴税人であるマタイが仕事場である収税所に座っているのを主イエスが通りがかりに見て、「わたしに従いなさい」と言われたのでした。「通りがかりに」と聞くと、たまたまチラリと目に止まって、というような印象に聞こえますが、ここで使われている言葉は、「見つめた」という意味の言葉です。主イエスがマタイを見つめ、そしてこの物語は始まりました。主イエスが「『わたしに従いなさい。』と言われると、彼は立ち上がってイエスに従った」、そのように書かれています。いとも簡潔に記されています。主イエスがなぜ、彼に目を止めて、「わたしに従いなさい」と言われたのか、ということの理由は、彼がどれだけ自分を必要とされているか、ということに目を留められたからです。1コリント1:26(300頁)以下「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」とありますように、主イエスは知恵や能力、家柄などに関係なく、むしろ力無い者、見下げられている者たちをお選びになったのです。徴税人としての役得で私腹を肥やしていたマタイが、主イエスのお言葉ひとつで、立ち上がって従った、というこの簡潔な記述を読んで、どうしてそんなことが・・・と不思議に思いますが、ここに示されている出来事も、今まで読んできました癒しの奇跡物語と同じです。主イエスがなされた奇跡の数々もなぜそんなことが?と言い出せば、合理的な説明はできないものばかりです。聖書は納得できる説明を記しているのではなく、主イエス・キリストというお方がお持ちになる力、大いなる権威を描いているのです。ここで徴税人マタイが主イエスに従って弟子となった、この物語もマタイの決断の動機を説明しようとしているのではなく、主イエスの御心を語ろうとしているのです。この物語がこの9章1節から繋がりがあるということを示す言葉があります。「彼は立ち上がってイエスに従った」この「立ち上がって」は9節始まりの「座っていた」と対になっています。座っていた人が立ち上がった。それは9章1節以下に示された寝たきりの中風の人が起き上がった、というのと同じことであります。この「立ち上がる」も「起き上がる」も死者の復活を意味する言葉です。つまり、罪の中に横たわり、起き上がることも、立ち上がることもできない、そのような人たちが主イエスによって新しい命を与えられ、新しく歩み始める。マタイが弟子になった、というこの出来事は、主イエスによる救いの御業なのです。
■マタイの家での食事
さて、そのようにして主イエスに従ったマタイは主イエスのために食卓を用意しました。主イエスがその食事の席に着かれると、大勢の徴税人や罪人たちがきて、共に席についたと10節に記されています。普通のユダヤ人は徴税人たちとは交際しなかったわけですし、ましてや食事を一緒にするなどということはありえないことでした。共に食事をするということは、その人たちと仲間であるということを意味しています。仲間として受け入れ合い、罪人の友として主イエスはこの場にもおられました。主イエスは、弱い人々、罪に定められた人々に対して、積極的に関わられました。その光景を見て、ファリサイ派の人々が、主イエスの弟子たちに、「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と非難の言葉を向けました。ファリサイ派の人々は、神の律法が絶対であり、それを守ることで自分たちを高めようとしていた人々です。「ファリサイ」という彼らのグループ名は、元々「分離」という意味を持つ名前です。ですから、自分たちと、「あの人たち」を区別する、自分はあの人たちとは違う、ということのためにあの人たち、駄目な人たちが必要でありました。そのようにして、相手を低く、自分を高く置くことで自分たちの正当性、正しさを主張していたのです。ですから、彼らから見て、最も駄目な人たち、徴税人や罪人からは分離していなければなりませんでした。彼らにとっては離れていることが正しいことであったのでした。にもかかわらず、主イエスはその人たちに関わり、共に食事をしている。到底、理解できないことであったのです。弟子たちに問いかけましたが、お答えになったのは主イエスであられました。
■罪人を招くため
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」このように言われたのです。私は病人のための医者としてきたのだと主イエスは言われました。さらに「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく罪人を招くため。」ここに主イエスの私たちに向けられた強いメッセージ、はっきりとした招きがあると言えます。それぞれが座っている場、起き上がれない場から立ち上がり、従う。それが主イエスの弟子となることなのです。弟子となることは決して特別な人として認められることではなく、呼ばれたら来る。素直に従う。ただそれだけなのです。ファリサイ派の人々にとっては、「先生」と呼ばれる主イエスが仲間と認める、弟子と認めて食事と共にするというのは、立派な人が相手でなければならならない、そのように考えていたのです。このファリサイ派のように、相手を自分より下に見る、自分とあの人とは違うと区別、差別してみる考えは、私の中にもあるということに気付かされた出来事がありました。お花見の頃、ある方は友人で集まって不忍池の周辺でお花見をするそうです。その場所取りをするのが彼女の役目ですが、たいていきれいな桜の木の下あたりには、家を持たない、いわゆる住所不定のおじさんたちが陣取っているので、彼女は、その人たちに声をかけて、そのど真ん中を譲ってほしいこと、そして花見の間はその隣にシートを移動してほしいこと、さらには夕方までど真ん中を確保しておいてほしいとお願いするというのです。そのかわり、夕方のお花見の時の食事、飲み物などはおじさんたちのも持ってきますからと言うのだそう。そうすると、たいていのおじさんは「いーよー」と言ってくださって、そして夕方のいい頃合いの時間には桜の真下の特等席がきちんと確保されていて、そのおじさんたちは適度な距離をとった場所で並んでお花見をする、という話です。私はその方からその話を聞いた時、すごい人!と思ってしまいました。私であれば、桜の真下のその場所の人たち、どいてくれないかなぁ、と苦々しく思うのがせいぜい。その方達に声をかけて、譲って、とはとても言えないし、ましてや、その人たちの食事まで用意してくる、という発想はまるでありませんでした。この私の考え方、その根底はこの方々を自分とは区別、正確には差別して見ているということです。「なぜ罪人たちと一緒に食事をするのか」と言ったファリサイ派と全く一緒です。この女性は見かけや、一般的に言われているような価値基準で人を見ることをせず、共に生きているということに対して同じ目線で見ています。彼女の何気ない話から大きな学びと気づきを得た話であり、自分の中のファリサイ派、私こそが罪人として主イエスに招かれているのだということを改めて実感いたしました。
■神の求める憐れみ
さて、「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」主イエスはファリサイ派にこのように言われました。私たちは自分こそが招かれている罪人であるとは思わず、罪人を招いてくださっている主の恵みから離れてしまいます。自分の力で立ち、そして自分は病であるとは思っておらず、そしてたとえ病になったとしても自分で治すことができるとさえ思っているのです。しかし、それは全く根拠のないもの。自分の力で病を治すことができないように、自分の力によって救いを獲得することはできないのです。それはただ神の憐れみによるのです。主イエスが言われた13節の御言葉はホセア書6章6節の引用です。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」私たちがどれだけ立派ないけにえを献げることができるかではなく、ただ私たちを生かすのが神であることを知り、そして神の憐れみによって救われる。そのことを、「行って学びなさい。」と主イエスは言われました。ファリサイ派の人々は神を知るために、神の憐れみを知るために出ていかなくてはなりません。マタイが収税所から立ち上がったように、中風の人が起き上がって床を担いで出ていったように、ファリサイ派も私たちも、立ち上がり、そして神の憐れみにこそ、救いがあるということを知る必要があるのです。ファリサイ派の人々は、主イエスの行動、罪人たちと一緒に食事をすることこそが非難すべきことであって、自分たちが学び直さなければならないなどとは思ってもいませんでした。主イエスは、いけにえによって神から祝福された者となり、律法を守れない者が罪に定められるという考えを正そうとされ、そして神が求めておられるのは、神に対するいけにえではなく、神から受けている憐れみを知り、同時にそれが隣人に対する憐れみとなるということでありました。
■結び
主イエスの眼差しは神の憐れみの眼差しです。神はホセア書11章8節-1416頁で、このように言われます。「ああ、エフライムよ/お前を見捨てることができようか。イスラエルよ/お前を引き渡すことができようか。・・・わたしは激しく心を動かされ/憐れみに胸を焼かれる。」これが神の憐れみであり、主イエスが罪人に、マタイに、ファリサイ派に、私たちに向けられた眼差しであります。主イエスはそのような父の御心をただ、黙って実践されて、十字架におかかりになって死んでくださったのでした。それゆえに、主イエスと主イエスのお言葉に触れられた者は、立ち上がるのであります。
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