説教題: 『神は我々と共におられる』
聖書箇所: マタイによる福音書 1章18~25節
説教日: 2023年12月10日・待降節第2主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
このマタイによる福音書の1章は、先週共に聴きました1節から17節、そして今日の18節から25節という2つのパートから構成されています。先週の17節まではただただ人の名前が連なっておりましたけれども、それらの人たちの中に神の救いのご計画が脈々と続いて流れていたということが示されておりました。そして登場いたしますダビデの血筋にあるヨセフ、この人自身が神のご計画のなかにあり、そして神の子の親として、世の救いの業に参与することとなるのです。今日のこの箇所に登場しますのは、主の天使、マリア、そしてヨセフであります。この18節から25節は淡々と記され、ヨセフも登場していますが、一言も発しているわけではありません。主の天使が神の言葉を告げ、そしてヨセフがそれを受け入れる。つまり、ヨセフがその子をイエスと名付け、こうしてヨセフはマリアの子を法的に自分の家系に受け入れるという、とても大きな出来事が記されていますが、ヨセフ自身による言葉は何もないのです。ヨセフの思いが記され、その考えに対する主の天使の言葉が記されている。記されているのはそのことだけであります。
■聖霊によって身ごもるマリア
18節にはマリアはヨセフと婚約していたが、とありますが、当時ユダヤにおいては、婚約はほぼ結婚と同一視されており、結婚以前であっても法的には夫婦として扱われていました。したがって、そのような時期にマリアが身ごもったことがわかった、このことはヨセフにとって大きな悩みであり、苦しみであり、深刻な事態でありました。ルカによる福音書では、マリアのところに主の天使が現れて、母となることを告げるというマリアの視点で記されていますが、このマタイ福音書ではヨセフの視点で書かれています。ヨセフは婚約者マリアが自分によってではなく妊娠したということを知らされたのです。これは例えば今の時代であったとしても、深刻な事態でありましょう。これから結婚して二人で幸せな家庭を築こうとしている矢先の、自分によらない妊娠という事実は、相手への信頼を失わせる出来事であり、マリアとヨセフの関係も崩壊の危機に陥ったのです。
マリアはヨセフを裏切るようなことはしておらず、ヨセフにも誠心誠意そのことを告げたでありましょう。ヨセフもマリアがふしだらな女性でないことは十分に知っていましたが、聖霊によって身ごもるということはそう簡単に納得できることではありません。ましてや、周囲の人々はどのように思うであろうか、さらには当時の律法に照らし合わせたならば、到底、許されるはずはなく、マリアは石打ちの刑による死刑を免れることはできないのです。ヨセフは悩みました。幾晩も眠れぬ夜を過ごしたのです。
■「正しい人」ヨセフ
ヨセフは幾晩も考えました。そして決心いたします。19節です。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」この言葉でヨセフはどのような人であって、マリアに対してどのような思いを持っていたかがわかります。彼はマリアを大切に思っていました。愛していたのです。表ざたになれば、マリアは姦通の罪によって、死刑になってしまいます。ヨセフはそんなことは望んでいませんでした。ヨセフは優しさと思いやりのある人であったのでありましょう。しかし、そのように心の広いヨセフであっても、とうていこのまま受け入れることは難しかったのです。それゆえに、ひそかに縁を切る、つまりひそかに婚約を解消し、マリアを実家に戻す。そうすれば、マリアは姦通の罪に問われることはないのです。この「正しい人」というのは、律法に良心的に忠実に従おうとする人という意味であります。婚約をひそかに解消するには、法廷などに持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証する二人の証人がいればよかったと言います。「表ざたにするのを好まず」というのは、いわば、マリアをさらし者にしたくなかった、ということであります。ヨセフが正しい人であったとありますのは、ただ正義を貫くというだけではなく、マリアに対する思いやりにも富み、しかしながら、表ざたにせずに縁を切るというのが精いっぱいであったのであります。しかし、です。自分はそれで手を切れたとしても、マリアはどうなるのであろうか、生まれてくるという子供はどうなるのであろうか。ヨセフはそのようにも思い、逡巡いたしました。「正しさ」とは何でありましょうか。ヨセフの「正しさ」それは律法に良心的に忠実であること、と申しました。律法に従いつつ、良心的な寛大さを持って、縁を切るという正しさは、本当に正しいのでしょうか。愛するマリアを死に追いやる律法、愛するマリアを路頭に迷わせ、苦難の道を歩ませる「正しさ」は本当に正しいのか、ヨセフはそのような葛藤の中にあったのです。この時代を生きる人の基準である「律法」の限界がヨセフに突き付けられたのであります。
■夢での語りかけ
そんなヨセフに主の天使が夢に現れて告げたのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」この「恐れるな」この言葉によって、律法から解放されるヨセフがいます。ヨセフは律法に従う正しい人としての「正しさ」を打ち破り、御言葉への信頼によって与えられる新しい正しさに生き始めるのです。
ヨセフは、マリアを信じたいと思いながらも疑いを持つ気持ちを完全に断ち切ることはできず、かつ信じるとすればこの不可解な事態をどう納得すればよいかわからず、また、周囲のヨセフ以上に「正しい人たち」にどう申し開きしたらよいのか、など、立ちすくむしかありませんでした。そして自分が後ろに下がることで折り合いを付けようとしたのです。しかし、夢の中での主の天使の語りかけによって、ヨセフは神がマリアを特別に選ばれたこと、そしてまた、自分もダビデにつながるという神の選び、約束を受け入れ、信じ、大きく前進する決断とともに夢から目覚めたのでありました。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れた。と24節にあります。夢のお告げ、わたしたちも夢を見ることはありますし、そして目覚めても、その中の一こまが記憶に残っていたり、だれかが語った言葉が甦ってきたりすることはあります。しかしながら、このヨセフのような人生を決めるような出来事を、目覚めてすぐに、まさにすぐに行動に移す、それはなかなかないのではないでしょうか。ここにヨセフが新しく生き始めたことが示されているのです。ヨセフの決断は、すべてを主に委ね、すべてを主の信頼の中から受け取ろうとするものでありました。
主イエスは処女マリアより生まれ、でありますけれども、ヨセフはこうして主イエスの誕生に大きく関わり、引き受け、神の子の親としてこの世の救いに関わっているのです。
■ヨセフの信仰
マタイはあっさりと、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通り、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」と記しておりますけれども、これは簡単なことではありません。聖霊によって身ごもったマリアを妻として迎え入れ、生まれてくる子供を共に待ち、マリアに心を配り、出産の時を待つ。そして生まれてきた子どもを、主のお言葉通りにイエスと名付けたのであります。それは単にヨセフが男気のある、かっこいい人だったというようなことではないのです。ここに示されていますのは、ヨセフの信仰であります。このヨセフの信仰こそが、この1章の前半にあります「イエス・キリストの系図」につながることなのです。前回ともに読みました系図の16節には、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた」とありました。「主は聖霊によってやどり、処女マリアより生まれ」と使徒信条にもありますように、主イエスはヨセフによらずに聖霊によって身ごもった子供であります。肉体的な血縁、血のつながり、という意味においては、主イエスはヨセフとはつながっておらず、そういう意味ではヨセフは主イエスの父ではありません。しかし、ヨセフが主の言葉を受け入れ、その言葉に従い、そしてマリアを妻として迎え入れ、マリアの産んだ子を名付けて父となったのであります。何が彼をそうさせたのか、それは彼の信仰によるのであり、彼の決断、行動は信仰によって支えられているものなのです。そのようにして、ヨセフは主イエスにつながり、あの系図につながっているのです。マタイは福音書の始まりを、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と始めています。主イエス・キリストはアブラハムからダビデへと受け継がれてきた神の祝福の約束を実現する救い主である。それは、このダビデの子孫であるヨセフの信仰によってつながり、そして実現したものであるのです。サムエル記下7章8節以下、預言者ナタンを通して、主なる神はダビデにこう告げました。「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠る時、あなたの身から出る子孫の跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」そうして、救い主メシアはダビデの子孫として生まれるという旧約聖書の預言も実現したのであります。
■インマヌエル
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」イザヤ書7章14節に記されています。直前には「わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。」とも書かれています。
イザヤは南ユダ王国の預言者であります。北王国がアッシリアによって滅ぼされる少し前、紀元前735年頃、イザヤはこの言葉を主から託されました。時の王はアハズ、イザヤは「主のほか、なにも恐れるな、静かにしていなさい」という言葉を告げます。しかし、アハズ王は静かにしていることはできず、神の助けを必要とせず、自力で解決できると考えたのでありました。それは神への不信にほかなりません。神の言葉が受け入れられないのであるならば、神はしるしによって、神ご自身を示されようとなさったのでありました。このしるしは神への信頼を失ったアハズに対するさばきのしるしでありましたが、同時に、イザヤ書7章13節にありますように「ダビデの家」に対する神の一貫した誠実さのしるしでもあります。こうしてマタイは、この主イエスの誕生が、ダビデの子孫、ヨセフのもとにしるしが与えられるということは預言者イザヤによって言われていたことの成就であると告げているのです。「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」この言葉はマタイによる福音書の一貫したテーマであります。第1章の誕生におけるこの箇所でこうして告げられた言葉は、マタイ28章20節、この福音書を閉じる言葉としても使われております「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」復活された主イエスが約束の地ガリラヤで、父のもとに戻られる前に、弟子たちに授けられた言葉であります。
そして、その時から2千年の間、主イエスの権能を守る教会において、派遣の言葉として人々に告げられてきた言葉であり、私たちを支えてきました。
■結び
神はこうしてヨセフに直接に関わり、そしてヨセフとマリアの間に主イエスが与えられ、神はヨセフとマリアと共におられました。彼らは「神我々と共に」この力強い約束に信頼し、そして「神我々と共に」が始まったのであります。「恐れるな」を聞き、そして「神我々と共に」という言葉は、マリアの戸惑い、ヨセフの絶望、すべてを包み込みました。
主イエス・キリストの歴史は、そのはじまりから、いまもなお、「わたしはあなたと共にいる」というこの言葉を一人一人に語りかけ、与え、支え、導いてきたのです。いついかなるときも「神はわたしと共に」。これ以上の恵みがあるでしょうか。ヨセフが今までの正しさから、主に従う正しさへと踏み出したのはインマヌエル、神我々と共に、に支えられていたからであります。私たちにも、現実生活の中で立ちすくんでしまうような困難が襲い掛かることがあります。できれば避けて通りたいと思うこともあります。しかしながら、神はその独り子の誕生の時から、共にいる、と示して下さっているのです。御言葉への信頼によって与えられる歩みはわたしたちに勇気を与えます。感謝いたします。
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