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『神の選びの系図』 2023年12月3日

説教題: 『神の選びの系図』  聖書箇所: マタイによる福音書 1章1~17節 説教日: 2023年12月3日・待降節第1主日 説教: 大石 茉莉

■はじめに

12月に入りました。そしてちょうど今日の主日から待降節、アドヴェントの時を迎えました。長く読んでまいりましたマルコによる福音書もちょうど先週で連続講解を終えました。今年度のこの待降節、降誕節を迎えるにあたってマタイによる福音書から聴きたいと思います。

今日与えられました聖書箇所は、今、お聞きいただきましたように、ひたすらに人の名前が連なっております。小見出しにもありますように、「イエス・キリストの系図」であります。アブラハムに始まり、イエスがお生まれになる。そこまでのつながりが淡々と記されているというこのマタイによる福音書の始まりであります。

マタイはなぜ、この系図を長々とはじめに記したのでありましょうか。

世の中の人が、キリスト教のことを知ろう、と思って聖書を手にして、さて読んでみるかと思った時、たいていのひとは、新約聖書の始まり、新約聖書1頁、つまり、このマタイによる福音書第1章1節を目にすることでありましょう。そして、おそらくその大概の人は、小見出しを見て、系図か、単なる名前の羅列ね、と思って読み飛ばして、18節、イエス・キリストの誕生、というところから読みだす方も多いのではないかと思います。

しかし、この系図が、この福音書の始まりに記されていることは、当然ですが、神の大きな意図があるのです。私たちは待降節のこの時に、この系図を御言葉として聴き、主イエスのご降誕の喜びを味わって参りましょう。


■始まりはアブラハム

始まりの1節を見ていただくとわかる通り、アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図、とアブラハムから始まっています。主イエス・キリストの系図は新約聖書にもうひとつ、ルカによる福音書3章にありますけれども、それと比べてみますと様々な違いが見えてまいります。ルカによるものは主イエスから遡って、アブラハムは途中に出てまいります。そしてアダムにまでさかのぼるものです。アブラハムにも先祖、つまり、テラ、セム、ノア、セト、アダムと、さかのぼることはできるのです。にもかかわらず、マタイはなぜ、アブラハムから始めているのか。それは、アブラハムから神の民イスラエルの歴史が始まったからです。その始まりはこうであります、創世記12章1節、「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい。/わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める。/祝福の源となるように。』」と語りかけがあり、そして、4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」とあります。「わたしが示す地」それはどこか、アブラハムは知りませんでした。知らずに旅立ったのでありました。それはアブラハムの信仰者としての歩みの始まりでありました。そして主の祝福の御業、アブラハムの子孫を大いなる国民とする、という約束の始まりでもありました。イスラエルの民への祝福の源、それがアブラハムであります。神の民、イスラエルの歴史は、こうして始まりました。それが、マタイがアブラハムを系図の始まりにしている理由です。主なる神から祝福を受け続ける大いなる民、アブラハムの子孫。マタイはその中に主イエスの誕生を位置づけているのです。主なる神は言われました、「祝福の源となるように。」アブラハムとその子孫は祝福の源となるのです。主なる神のご計画は、アブラハムを通して、全ての民をご自分の祝福の内に招きいれようとされているのです。


■祝福の回復

聖書、旧約聖書は創世記の神の天地創造から始まります。天と地を、昼と夜を、空と水を、そして神に似せて人をお造りになられました。すべてを極めてよくお造りになられました。しかし、蛇の誘惑によって、人間は神に背く者となり、罪に陥ったのでありました。そうして神の祝福の外を、苦しみと共に生きなければならないことになりました。人間の罪はそこから膨れ上がり、ついには天まで届く高い塔を建てて神のようになろうとまで考えました。それが創世記11章にあるバベルの塔です。神はそのような不遜な人間をお許しにならず、人々の言葉を混乱させ、人々を散らされました。神の祝福を受けられなくなっている人間の罪の姿が記されています。

そしてそれに続くのがこのアブラハムの召命、創世記12章です。主なる神様の救いの歴史を担うのがアブラハムに始まるイスラエルの民であるのです。マタイはこの福音書において、主なる神の救いの歴史を語ろうとしています。その救いの歴史は、アブラハムに始まり、ダビデ、そして主イエス・キリストにおいて実現したということをこの系図は語っているのです。旧約聖書は、主イエス・キリストを指し示すものであるとよくいわれますが、新約聖書の始まり、マタイによる福音書1章1節において、旧約聖書に示される神の御業が主イエスにおいて実現したことが示されているのです。


■登場する女性たち

当時のユダヤは極めて男性社会でありましたから、この系図も男性のつながりが示されています。今、わたしたちが読んでおります新共同訳聖書では、「アブラハムはイサクをもうけ」と記されておりますけれども、以前の口語訳聖書では「アブラハムはイサクの父であり」というように、父であるという繋がりを強調した書き方になっていました。そして別の新改訳聖書では「アブラハムがイサクを生み」というようになっていました。新しい協会共同訳聖書も「アブラハムはイサクをもうけ」となっておりましたので、この形が一番すんなり受け取れる表現として採用されたのでありましょう。「アブラハムがイサクを生み」というと、男性である父が子を生み、というこの表現に違和感があるのでしょうが、この「生む」という言葉には、本来、神の祝福を受け継ぐという意味がありますので、神の祝福の歴史を表現するのには、生むという言葉の方がよかったという気も致します。そしてこの男性の名前が続く中に、女性たちが登場いたします。最初は3節のタマルです。創世記38章に登場します。彼女は、本来はユダの妻ではなく、ユダの息子の妻でありました。しかし、ユダの息子が死んでしまい彼女はやもめとなりました。夫の兄弟の妻となるべきところ、ユダは彼女を実家に帰すのです。そのような不当な扱いに対して、タマルは娼婦を装い、ユダを誘い、そして子供をもうけました。2人目は5節のラハブ。彼女はヨシュア記2章に登場する遊女です。同じく5節にはルツの名前があります。ルツはボアズと再婚して幸せになったことがルツ記に記されておりますけれども、ルツはモアブ人であった、つまり異邦人でありました。4人目は6節にあるウリヤの妻。サムエル記下11章に記されております。ダビデの部下、ウリヤの妻、バト・シェバです。ダビデは彼女を見初め、部下の妻であると知りながら、関係を持ち、子をもうけました。その事実を隠ぺいするために、ウリヤを戦いの最前線に送り、故意に戦死させたのでありました。この系図においても、バト・シェバと記さずに、ウリヤの妻と記されているのは、ダビデの罪を明らかに記しておくという意図があったように思えてなりません。このようにこの系図に名を残している女性たちは決して由緒正しい者たちというわけではなく、彼女たちに関しては、密やかに語られ、彼女たちにまつわる出来事はできれば表沙汰にはしたくないような事柄でありましょう。一般的に系図は、その血筋、由緒正しさを証明する手段でありましょうが、しかし、人間の罪をも含むすべての人間を指し示すかのように、こうして女性たちの名前が加えられているのです。


■三つの時代

さて、そしてまた、この系図の全体を俯瞰してみますと、大きく三つの時代に区分されることがわかります。2節から6節前半、6節後半から11節、12節から16節の三つです。つまり、アブラハムからダビデ王の時代、ソロモン王からヨシヤ王の時代、そして主イエスのお誕生へ、という三つの時代です。年代で申しますと最初のアブラハムが紀元前2000年、ダビデ王が紀元前1000年、ヨシヤ王の時代とは、11節にありますようにバビロン捕囚の時代紀元前600年頃、そして主イエスのお誕生、という区分です。第一の時代、これはイスラエルの発展の時代と言えるでしょう。アブラハムは主の言われた通りに、示された地に行き、そして主はアブラハムと契約を結ばれました。アブラハムをますます繁栄させ、王となる者たちがあなたから出る、あなたの子孫は数えられない天の星ほどになる、と約束されたのでありました。そのように神の民イスラエルの誕生から、約束の地でダビデ王国が誕生するまでが第一の時代です。そして第二の時代、ソロモン王は神殿を作り、栄華を極めました。ですからイスラエルの繁栄の象徴がソロモンであります。しかし、ソロモンは知恵ある者とされながらも、妻たちが彼の心を迷わせ、異教の神々へと向かわせました。ソロモンの心は迷い、イスラエルの神から離れたのです。主はソロモンに対して他の神々に従ってはならないと戒められましたが、彼は主の戒めを守らなかったのです。そしてどうなったか、ソロモンに敵対する者たちが立てられ、そしてイスラエルは北イスラエル王国、南ユダ王国へ分裂することになったのです。7節に出てまいりますレハブアムからは南ユダ王国の王の名前が列挙されておりますけれども、レハブアムも、ヨラムも、アハズも、マナセも、アモスも、主の目に悪とされることを行った、と聖書は記しております。列王記上、また歴代誌下をお読みいただいたら、それぞれの王が行ったことが記されております。そしてとうとう、バビロンによりエルサレムが陥落、南ユダ王国の滅亡というイスラエルの転落の歴史がこの第二の時代なのです。そしてイスラエルの人々はバビロン捕囚を経験いたします。およそ70年に及んだバビロン捕囚は、ペルシャがバビロンを征服し、キュロス王によって帰還が許されることとなりました。そして12節に記されておりますゼルバベルはエルサレムに帰還し、イスラエルの神の祭壇を築いたのでありました。そこからが第三の時代となるわけです。17節には、そのそれぞれの時代が14代であった、とあります。これはこのイスラエルの歴史が神の計画であるということを示しているのです。この発展、繁栄、そして混乱、転落の人間の歩み、全てを貫いて主なる神が歴史を導いておられるということが示されているのです。国の滅亡や捕囚という悲惨な、苦しみの時代を生きた人々は神の祝福の御手の内にあるとは思えなかったかもしれません。しかし、

アブラハムの神は、イサクの神であり、ヤコブの神であり、常に一人一人と共にいてくださる神なのです。たとえ主の目に悪とされることを行ったとしても、神はアブラハムとの約束を反故にされることなく、裁きと共に慈しみをもって導いてくださっておられたのであります。


■結び

そして神は愛する御子、主イエス・キリストをその歴史の中に置かれて、ご自身の約束の道筋をイスラエルの民に示されたのです。この系図に示されている人たちは、主イエス・キリストによって救いを実現される神のご計画の中にあったということです。マリアは結婚前に聖霊によって主イエスをみごもりました。これは神のご計画でありますが、当時を生きるマリア、そしてヨセフにとっては大きな試練でありました。突然に降りかかったこの試練は神への信仰によってしか乗り越えられないものでありました。先に紹介した女性たちも社会的な弱さを抱えながらも、最終的には神によって祝福を与えられたのでありました。マリアも彼女たちと同じなのです。主イエスの出生は純血主義の王家の物語ではなく、神が罪ある者たちを用いて、この世に祝福をもたらす、神の憐れみの物語なのです。神の物語は今も続いており、わたしたち一人一人も主イエスによって実現した救いの中に置かれています。苦しみや悲しみ、混乱の中にあろうとも、歴史を支配してられる神のご計画が実現していくことを信じる幸いが主イエスによって与えられているのです。主イエスがこの世に人として来て下さったことを心から喜び、神に感謝する待降節を過ごしたいと思います。


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