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『神の計画は計り知れず』 2024年5月19日

説教題: 『神の計画は計り知れず』

聖書箇所: ヨエル書3:1−5 (旧1425ページ)

聖書箇所: 新約聖書 使徒言行録2:22−36

説教日: 2024年5月19日・聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教: 大石 茉莉 伝道師


はじめに

ペンテコステを迎えました。エルサレムに集まっていた弟子たちに聖霊が降り、神の恵みの業を口々に語り出した。これが聖霊降臨日のことであり、ペンテコステと言われます。ペンテコステは教会が誕生した日、教会の誕生日と言われるわけですが、元々は旧約聖書に由来しています。使徒言行録2章1節以下に詳しく記されています。この「ペンテコステ」という言葉は、ギリシア語で50日、あるいは50日目ということから、五旬祭という訳語が使われます。この「五旬祭」はユダヤ教の七週の祭のことです。ユダヤ教の暦では、三つの重要な祝祭日がありました。このことは旧約聖書306ページ、申命記16章に「三大祝祭日」として記されています。過越祭、七週祭、仮庵祭です。過越祭、そしてそれに続く除酵祭は出エジプト記12章に由来するものです。主なる神はイスラエルの民をエジプトから脱出させました。そのためにエジプトに10の災いを下され、最後の災いはエジプト中の初子を全て殺すというものでした。そしてイスラエルの民の家の鴨居と柱には、犠牲の小羊の血を塗ること、それがある場合は、主はその家を過ぎ越される、とされました。そしてとうとう、エジプトの王ファラオはイスラエルの民を解放することになったわけです。その際には慌ただしい出立となったわけですから、急いで脱出する時、「種入れぬパン」を用意した出来事が過越祭・除酵祭となっているわけです。この過越がイスラエルの民の新たな旅立ちであったことから、主なる神は、この過越を新たな年の始まりとされました。今の太陽暦の3月にあたります。そしてこの過越祭の翌日から数えてちょうど50日目に七週の祭りが行われます。これは刈り入れの祭りとも呼ばれ、元々は初夏、ちょうど今頃の穀物収穫の祭りでありました。そしてもう一つは秋の収穫祭が仮庵祭となるわけです。さて、主イエスが十字架刑に処せられたのが、過越祭の時でありました。その日から50日目が七週祭、五旬祭、ペンテコステとなる。このようにペンテコステは旧約に由来するわけですが、単にユダヤ教の祝祭日ということではありません。それは聖霊降臨の出来事が何に由来するかということです。使徒言行録2章1節で弟子たちに聖霊が降った時、家全体が揺れ動き、炎のような舌が分かれ分かれに現れたと記されていますが、それはシナイ山でモーセが律法を受領した時と似ています。このことは出エジプト記19章16節以下に記されている出来事、シナイ山が雷鳴の大音響によって揺れ動き、神が火の中に現臨されたのです。こうして天から律法という「言葉」がモーセに与えられたのです。これはイスラエル信仰共同体の成立を意味する決定的な出来事です。使徒言行録2章にある「舌」とは言葉のことであり、新しい信仰共同体である教会が生まれたことと重なるのです。シナイ山での律法の授与はエジプト脱出から50日目であるという伝承がユダヤ教に生まれました。シナイ山での出来事は律法の授与だけでなく、イスラエルの共同体の生まれた日でもあるわけです。七週祭はユダヤ教ではそのような記念日であり、それと相即するように、キリスト教ではペンテコステを教会の誕生の日としています。これは偶然ではなく、旧約聖書から繋がっていることなのです。

 

■主イエスの十字架

さて、五旬祭のその日、突然、激しい風が吹いて来るような音が聞こえ、家中に響き渡りました。そして弟子たちは、皆ガリラヤの者たちでありましたが、そこに集まってきていたさまざまな人たちの故郷の言葉を話しだしたのでした。弟子たちのそのような神の御業をみた人々は、驚き、とまどい、そしてあざける者もいた、と13節までにその出来事が記されています。14節からはそのように戸惑い、あざける大勢の人たちに対して、ペトロが説教を始めたことが記されています。彼は言うのです。「今は朝の9時ですから、お酒に酔っているわけではないのです。これは神の御業なのです。」と。今日与えられたのは、その説教の後半の部分です。そして今日の22節以下で、改めて居住まいを正して語ります。

「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。」そして主イエスについて語り出します。この22節でペトロははっきりと言っています。「このナザレの人イエスこそが、神がイスラエルの民に遣わしてくださった救い主であったこと。そして神は主イエスの様々な奇跡や御業を通してそのことを示してくださっていたこと。しかし、神の民であるはずのイスラエルの人々は、その主イエスを受け入れず、そしてローマの権力に引き渡して殺してしまったこと。」つまり、神の民として神の恩恵を受けているイスラエルの民が、その恩恵そのものを殺してしまった。神に対してそのような重大な罪を犯したということを指摘しています。しかし、ペトロはここにいる人々だけを断罪しているのではありません。この場にはペトロを含む11人の弟子がいたことが14節に記されていました。この弟子たちもイスラエルの民であり、さらには主イエスの弟子であったのです。彼らは主イエスが捕えられたとき、全員が逃げ去ったのでありました。ペトロに至っては、仲間ではないと強く否定したのでした。ですから、ペトロはそのような自分たちをも、この「あなたがた」に含めて語っています。主イエスの十字架は、直接手を下した人たちのみならず、自分を含む人間の罪の結果である、と言っているのです。神が遣わしてくださった救い主を拒み、そして十字架につけて殺してしまったのは、他の誰でもない、あなたである、と一人一人に突きつけているのです。それはペトロの目の前にいた人々だけでなく、キリスト教はそのことを語りかけてきました。教会は主イエスの十字架、十字架の死を宣べ伝えてきました。それは過去の出来事ではなく、私たち一人ひとりが、罪の力に支配され、自分を守るためには、人を欺く。そのような弱さ、愚かさを持つ存在である、それが私たちのありのままの姿である、ということを示すためであります。ですから、今、私たちはこの箇所を読む時、私たちもペトロに語りかけられているとして読むのであり、この「あなたがた」は私たち、私自身のことであるのです。

 

■神のご計画

そして、ペトロはこの主イエスの十字架の死が、神のご計画であった、ということを23節で語っています。それもわかりやすいように具体的に語っています。「神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じの上で、あなたがたに引き渡されたのです」神は人間の手によって独り子イエスが十字架にかけられる、そのことをご存じであり、それが神様のご計画に含まれているものである、と言うのです。神は私たちが受けるべき罪を清算するための身代わりとして主イエスを十字架へと送られたのです。この神のご計画は、罪の出来事を、赦しの出来事へ、そして神の恵みを示す出来事となさったのです。人間の罪の極みに、神の恵みも最大限に示されている、それが主イエスの十字架であります。

そしてその主イエスの十字架の死、それは神の救いの計画でありますから、死で終わりではありません。24節「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、あり得なかったからです。」ここでも神による、ということが示されています。主イエスは神によって復活させられたのであり、主イエスご自身の力によって甦ったのではないということです。神のご計画の続きであり、十字架の死によって罪を清算し、そして主イエスを復活させて新しい生命を与えてくださる、そのことによって十字架の死は、死だけでない大きな意味を持つものとなっているのです。

 

■ダビデの子孫への預言の成就

続く25節からペトロは詩編から引用しつつ、このように語ります。つまり、ダビデは預言者であり、ダビデは彼らから生まれる子孫を王座に着かせると神が約束されたことを知っていました。ダビデの死後、王国は滅亡しましたが、イスラエルの人々はダビデの子孫から救い主が生まれ、そしてその方による支配が実現することを神の約束として信じていました。それが主イエス・キリストであり、「その体は朽ち果てることがない」という旧約聖書の言葉も主イエスの復活の預言であり、実現、成就であるとペトロは語っているのです。この使徒言行録1章4節で、復活された主イエスは弟子たちに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と言われました。そしてこの約束されたもの「聖霊」が降ると、「あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」このように主イエスはおっしゃり、このお言葉を残して、天の父のもとにあげられたことが1章8節以下に記されていました。弟子たちはこの復活の主イエスに出会う前、最愛の師を裏切ってしまった絶望感の中にいたのでありました。それがこのように主イエスが再び自分たちに出会ってくださり、「あなたがたは力を得る。そして地の果てに至るまでの証人になる」このようなことができるはずがないと思っていたのです。裏切り者の自分たちにはそのような資格も、力もない、と思っていたのです。しかし、主イエスは弟子たちへの約束通り、この五旬祭の日に父なる神からの聖霊を弟子たちに降してくださった。それは驚きであったでしょう、そして大いなる喜びであり、自分たちの力によらず、自分たちに降った聖霊の導きによってペトロは語ったのです。

ペトロがこうしてここで語っていること、そしてそれを読む私たちが読み取らなければならないことは、主イエスの十字架と死、そして復活、父なる神の元への昇天、それに続く聖霊が降ること、それらは旧約聖書の御言葉によってすでに語られていたことであり、その実現であるということです。旧約聖書と新約聖書は一貫して神の救いの歴史を語っています。ここでペトロが語ったことは、神の告げる真実であるということを、人々が根拠としていた旧約聖書から導き出しているのです。この使徒言行録、確かに主イエスが天の父なる神のもとにお戻りになってからの、使徒たちの働き、パウロも含めた教会の発展や教会の誕生などのことが詳しく書かれておりますけれども、それらを読み進めてわかりますことは、使徒たちによる教会の発展の業を記しているようでありながら、聖霊の働き、聖霊の導き、このことが主題であるように思うのです。

 

■結び

「酒に酔っているのではないか、何を血迷ったことを言っているのだ」という嘲りの中でも主イエスの証人となった、それが立ち直った弟子たちの姿でありました。神のご計画には一つの無駄もありません。挫折した弟子たちでありましたが、挫折したからこそ、復活の主イエスに出会って力を得たのであります。この日、この時、ペトロの説教を聞き、小心を打たれた人々は計り知れない数でありました。37節にあります「心打たれた人々」それらの人々は、主イエスの十字架を、その意味を自分たちと結びつけて考えた人たちでありました。悔い改め、洗礼を受けました。そして教会の仲間に加わったのでありました。「主イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」そうすれば賜物として聖霊が与えられ、そして「主が招いてくださるものなら、誰もが」その家族として加えられるのです。パウロはそのように力強く説教いたしました。それは2千年経った今も全く変わっていません。

私たち根津教会の2024年度の教会標語は「キリストの証し人として生きる」であります。まさに、そのようにして教会は歩んでまいりました。教会はその誕生の時から、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」それを守ってきたのであります。説教を聞き、教会生活の交わりを大切にし、聖餐式を守り、祈る場であり続けてきました。より私たち一人一人が、今年度の標語である、「キリストの証人」としてそのようにし続けて歩めるように、そのために聖霊によって導かれることを強く願いたいと思います

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