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『神の言葉は滅びない』 2023年8月13日

説教題: 『神の言葉は滅びない』 聖書箇所: マルコによる福音書 13章28~31節 説教日: 2023年8月13日・聖霊降臨節第十二主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日は28節から31節という短い4節の御言葉から聴きたいと思います。読んでいただいてお分かりの通り、この4節の御言葉は前半2節、後半2節という二つに分かれております。今日の御言葉でどなたにも強く迫ってくる御言葉は最後の31節でありましょう。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」主イエスのとても強い断言のお言葉です。宣言であります。主イエスは神の子であられますから、「私は決して滅びない」とも言うことができたのです。しかし、主イエスは「わたしの言葉は決して滅びない」とあえて、「わたしの言葉」を強調しておられます。


■語り続けるお方

マルコによる福音書はその始まりから、その伝道の始まりから主イエスが語り続けてこられたことを伝えてまいりました。1章22節以下にありますように、この福音書のはじめから、主の口から語られるお言葉が特別のものであったことを記しています。「一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」主イエスが語られるお言葉に権威があった。主イエスの言葉を聞いた人々はその言葉に驚きと力を感じたのでありました。

今日の御言葉の31節の「わたしの言葉」とあります「言葉」は複数形になっております。ですから、この13章、前回、前々回にありました終末について語られたお言葉でもあり、そして同時にここまでの主イエスの語られたすべてのお言葉ということができるのです。この「滅びる」と訳されている言葉は、「過ぎ行く」「過ぎ去る」とも訳せる言葉です。ですから、「わたしの言葉は決して滅びない」とは「わたしの言葉は決して過ぎ去らない。」主イエスが語られた様々な言葉、それらは過ぎ行くことがない、のであります。過ぎ行くことなく、私たちを生かす言葉であり続けているのです。教会は「わたしの言葉」、主イエスの御言葉に生かされ続けてきたのです。それが真理であることはこの二千年の歴史が物語っています。時が過ぎ行く中で、聖書は語られ続けてきました。あり続けてきました。例えば迫害の中にあっても、教会は聖書を守ってきた。いえ、実はそれは逆なのです。教会が聖書を守ってきたのではなく、聖書が教会を守ってきたのです。聖書が教会を支え導いてきたのが教会の歴史であります。


■イザヤ書40章8節

そしてこの主イエスのお言葉はイザヤ書40章8節を思い起こさせます。「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」6節以下にはこう書かれています。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」実際の草だけが枯れるのではないのです。この私たち、肉の身体を持つ人間は皆、草と同じであり、人間の営み、この世の全ては滅びていくのです。その中で、神の言葉だけがとこしえであり、神の言葉が人間の歴史の中で語られ続けているのです。キリスト者はその言葉に生かされ続けてきました。天地は滅びる、その中にわたしたちも含まれています。わたしたちは草に等しく、滅びてゆくものなのです。しかし、その滅びゆく天地の中にあって、この神の言葉が滅びないからこそ、滅びるはずのわたしたちも滅びではなく、生かされるということが約束されているのです。仏教における諸行無常の世界では、すべてのものは滅びゆくものであり、人間の命もはかなく虚しいという空虚さが強調されますけれども、私たちはキリストにあって、この肉の体は滅びるが、神の言葉は滅びない、だから私たちが生かされるという希望の約束が与えられているのです。


■いちじくの木の教え

この13章の始まりを振り返ってみますと、壮大な神殿の崩壊について主イエスが語られるところから始まりました。弟子たちが、「先生、御覧になってください。何と素晴らしい立派な建物なのでしょう。」と言った時、主イエスが、この神殿も過ぎ行くものである、とおっしゃったのです。そこから今日の教えも続いております。神殿は崩壊する、過ぎ行く。しかし、神の言葉は決して滅びない。そのように弟子たちに主イエスは語っておられるのです。苦しみの時、悲しみの時、滅びに直面するとき、それは来ても世の終わりではない。人の子が来るとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるとき、それが真実の終わりの時なのである、と主イエスは再臨について語られるのです。そしてそれをいちじくの木の教えから学びなさいと言われたのでありました。ユダヤの冬は雨季であり、その季節に苦しみが来ないように祈りなさいと主イエスは言われました。わたしたちでもそうですが、冬は春を待ち望む季節です。わたしたち日本であれば、冬枯れの日々から、桜が咲く時期、花々が芽吹く時期、それを心待ちにする。ユダヤにおいては、春はとても短く、大袈裟に言うと、一夜にして夏となるというほど、冬から春を通り越して夏になってしまうほどだというのです。そしていちじくの木は枝が柔らかくなり、葉が伸びる。そのことでそれは実りの季節であり、力のみなぎる喜びの季節である、そのことを知るがよい、と言われたのであります。


■苦しみは喜びの前触れ

苦しみの時を迎えたとしても、それはその後に必ず来る喜びの季節のことを思うがよい、と主イエスは言われました。聖書において終末は、恐ろしい破局の時ではなく、救いの完成の喜びの時であるということです。ハイデルベルク信仰問答の問52にはこのようにあります。「問52 生ける者と死ねる者とを審」かれるためのキリストの再臨はあなたをどのように慰めるのですか」これは慰めであるというのです。そして「答え わたしがあらゆる悲しみや迫害の中でも頭を上げて、すべての呪いをわたしから取り去ってくださった、まさにその裁き主が天から来られることを待ち望むように、です。この方は、御自分とわたしの敵をことごとく永遠の刑罰に投げ込まれる一方、わたしを、すべての選ばれた者たちと共に、その御許へ、すなわち天の喜びと栄光の中へと迎え入れてくださるのです。」これがこの問いに対する答えです。前節27節にありますように、主イエスがわたしたちを呼び集めてくださる。その時を待つ喜びなのであります。ですからそれはまさに「主の再び来たりたもうを待ち望む」のです。それゆえに、「これらのことが起こるのを見たら」つまり前回、共に見てまいりました13章14節以下にあります終末の徴、戦争、地震、飢饉、迫害、偽メシアの登場など、それらをみたら、それは破局ではなく、むしろ救いの完成が近づいている喜びの時なのだと思いなさい、と主イエスは言われるのです。これらのことが起こるのを見たら、「人の子が戸口に近づいていると知りなさい。」26節に示されたように、主イエスが大いなる力と栄光を携えて、やって来られ、そして選ばれた者たちを呼び集める。そのときが近づいていることを知りなさい、と言うのです。これは主イエスから弟子たちへのメッセージであります。どのようなメッセージで、何故、ここでこのように言われたのでありましょうか。それはこの13章は主イエスが弟子たちへ直接語られる最後だからであります。時は既に十字架の数日前なのです。「気をつけなさい。」「耐え忍びなさい。」「しっかりと立ち続けなさい。」主イエスはこの13章で弟子たちにそのように励ましのメッセージを送って来られました。「耐え忍びなさい」という言葉は、受動的な、我慢して耐え忍ぶという意味に捕らえてしまいがちですが、そうではないのです。前回、前々回にも出てまいりました偽メシアや偽預言者に惑わされるな。つまり、本当に委ねるべきお方、神以外のものに心が動かないようにしなさい。神以外のもの、つまり偶像が心の中に入り込まないようにすること。耐え忍ぶ、忍耐とは、その偶像への誘惑と戦う心を意味しているのです。

次週の御言葉には「目を覚ましていなさい。」というメッセージも加えられます。主イエスは、私はもうすぐ十字架につく、そして甦る、そしてまた戻ってくる。たとえ私が見えなくなっても、私を信じなさい。私が言ったこと、私が行ってきたこと、私の教え、それらを信じなさい。私は必ずあなたがたのところに戻ってくる。そして最後の勝利をもたらす。それを信じなさい。私の姿が見えなくとも、私はあなたがたのそばにいる。それを忘れないでいなさい。主イエスは弟子たちにこのようなメッセージをこめておられたのであります。それこそが「わたしのことばは決して滅びない。」という強い宣言の内容なのです。


■扉を開く方

これらのことは当時の弟子たちに語られたお言葉でありつつ、今のわたしたちに語られた言葉であります。当時、確かに大変な時代でありました。戦いがありました。そして主イエスの弟子として立ち上がった弟子たちは大きな迫害の中を生きていかなければなりませんでした。当然、主イエスはご自分がこの世を離れた後、弟子たちが厳しい道を歩むことはご存知であります。だからこそ、このようにわたしたちが想像しうる限りの苦しく厳しい出来事をあげた上で、その後にもたらされるわたしの勝利を信じなさい、と繰り返して語ってくださったのでありましょう。わたしたちは苦しみの中にある時、悲しみの中にある時、そのような時は自分の殻に閉じこもります。まるで台風の時に、雨戸を閉めて中にこもるように、自分の周りの扉を閉めて、念入りに鍵もかけてうずくまるのです。しかし、扉の外には主イエスがおられるのです。わたしたちの使っております讃美歌の61番の1節にはこうあります。「かがやくみとのよ 汝が戸をひらけ。よろこびいさみて わがたましいは、きみのきみなる 主を待ちのぞむ。」この歌詞も味わいがあるのですが、讃美歌21ではこのような歌詞になっています。讃美歌21では讃美歌3番になります。「扉を開きて われを導き、 まことの光と 慰め満つる 神の家へと 迎えたまえや。」まさに、主イエスが扉を開くと、今までの暗い部屋に光が差し込んで満ち溢れます。満ち溢れるのは光だけではありません。主イエスの慰めがわたしを包んでくださるのです。今までの孤独と閉塞感と悲しみ、苦しみではなく、あたたかな光、穏やかな慰めに満たされるのです。そのようにして主イエスは神の家へと招いて下さるのであります。


■結び

わたしたちの生きているこの現実も、冬のように寒く、冷たいものかもしれません。時に悲しみに満ちているかもしれません。しかし、主イエスは扉の向こうに必ず立たれます。それを信じるわたしたちはそれを待ち、それに備える生き方をしていくことを神は望んでおられるのです。宗教改革者マルティン・ルターは次のような言葉を残しました。「たとえ明日、世界が滅びようとも、今日、私はリンゴの木を植える。」絶望が心を支配するのではなく、神の愛を信じ、神に愛される者としての責任を全うする、それが私たちに求められているのではないでしょうか。わたしたちの命は必ず終わりを迎える時がきます。草や花のように枯れ、しぼんでいきます。わたしたちだけでなく、この世界全体が終わりを迎える時がきます。しかし、その終わりの時を迎えても、神の言葉は決して滅びない。とこしえに立つ。ルターはその決して滅びることのない神の言葉を信じるがゆえに、この言葉を言うことができたのであります。主イエス・キリストが再び来てくださることを信じ、わたしたちの扉を開けてくださることを信じる私たちは、死によっても滅びない神の愛を与えられ、そして死を超えた新しい生命の展望と希望を与えられています。主イエス・キリストとの交わりに生きる私たちは、まさにこのルターと同じように言うことができるのです。神の言葉は滅びることなく与えられます。御言葉が与えられるからこそ、冬の寒さに耐えることができ、そして御言葉によって慰めを与えられるのです。神の言葉はとこしえ。それを心から味わうことのできる私たちは幸いであります。


お祈りをいたします。

とこしえの恵み、慈しみを注ぎ続けてくださる、私たちの創り主、全能の父なる神様。

あなたの御名をこころから賛美いたします。

わたしたちの命も、わたしたちの周りにあるすべてのものは、いずれ朽ちていきます。

しかしながら、あなたの言葉は滅びずに、とこしえに立つ。主イエスの語られたお言葉も、そして主イエスご自身もとこしえに変わらずに私たちを支え続けてくださる。

これほどまでに強く大きな安心はほかにはないでありましょう。

わたしたちの命は滅びゆくものであっても、わたしたちにあるのは空しさではなく、希望であります。このことに心から感謝いたします。

主イエスキリストの御名によって感謝し、祈り願います。


アーメン

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