説教題: 『神の義の豊かさ』
聖書箇所: 旧約聖書 ホセア書10:12
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:6、20
説教日: 2024年11月24日・降誕前第5主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
今年の教会暦では来週からアドヴェントに入ります。主イエスを救い主と信じ、主イエスが再び来てくださるその時を待ち望む者たちにとりましては、アドヴェントから主のご降誕を祝うクリスマスは大いなる喜びの時であります。世の中でも、クリスマスは賑わいを見せ、人々の心は沸き立つ時でありましょう。しかしながら、それは単に商業的なセールやイベントなどのワクワク感であって、クリスマスの本当の意味を知って喜び祝っているのではないということです。そのように考えました時に、今年度の教会標語である「キリストの証し人として生きる」ということを表現するのに一番適しているのがこのアドヴェントからクリスマスまでの時であると思ったのです。ですから12月を伝道月間として、一人でもクリスマスの本当の意味を知り、なぜ主イエスは人としてこの世に来てくださったのか、私たちのために何をしてくださり、それがどれだけ大きな恵みであるのか、神の愛と慈しみのうちに置かれることの喜びをお伝えしたいと考えています。ここのところ、説教はマタイ福音書を続けて聞いてまいりまして、本来ならば、今日から6章に入るところですけれども、12月はクリスマスの喜びを伝えるための聖書箇所から説教をさせていただくため、年明けの1月から再開することといたしますので、1ヶ月間があくことになります。この山上の説教は5章から7章まで続いており、その中がいくつかのセクションに分かれています。今日は6章1節からの新たなセクションには入らず、5章からの山上の説教の中心主題のみならず、このマタイによる福音書の中心主題であると言える「義」、「神の義」について5章を振り返りながら聴きたいと思います。
■神の義
5章6節「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」
5章20節「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」この5章では今お読みした箇所に「義」という言葉が出てまいりました。すでにそれぞれの箇所で一度お話しいたしましたけれども、「義」とはわかるようでいて、なかなかわかりにくい言葉でありましょう。私たちは「義」と聞いて何を思うかと言えば、正義、つまり、社会的・倫理的に正しい行いというようなイメージを持つのではないでしょうか。ここで言います「正義」とは文字通り、「人として正しい道」とか「道理にかなっている」という意味でありましょう。そしてそれはつまり人間の考える正しい道ということですが、聖書において、「義」と言いますとき、それは人間の義ではなく、神の義です。さて、では神の義とは、ということを少し丁寧に見たいと思います。旧約聖書の神の義の理解から見てまいりましょう。旧約の預言者たちは神の民であるイスラエルに対して、「義」を要求しました。これは今お話ししたいわゆる「正義」、社会的・倫理的に正しいこと、です。例えば、預言者エレミヤは「この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」と語っています。7章5-6節です。確かにここでは、社会正義を意味していると言えます。神はイスラエルをご自分の民としてお選びになりました、エジプトの奴隷であった民を救い出されました。その神の救いに対する感謝、民の応答として神に対してどのようでなければならないか、ということの中に「正しくあること」が求められているのです。
そして「義」と訳されている言葉は、「恵みの御業」と訳されてもいます。たとえば詩編98編2-3節にはこのようにあります。「主は救いを示し/恵みの御業を諸国の民の目に現し/イスラエルの家に対する/慈しみとまことを御心に留められた。」イザヤ書51:8にも「わたしの恵みの業はとこしえに続き/わたしの救いは代々に永らえる。」とあります。この「恵みの御業」と訳されている言葉と先ほど「正義」の正義、いずれも「神の義」なのです。これは驚くべきことではないでしょうか。この恵みの御業とは何を指すかといえば、神の救済の出来事です。
神はどのようなお方であるか、ということが出エジプト記34:6-7に示されていますけれども、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち/幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、」とありますように、神は愛であり、恵みのお方であり、そして裁くお方であられます。この後半部分の「罰する、裁く」お方の部分が義である、というように理解するのであれば、なんとなくわかるかもしれません。しかし、そうではなくて、憐れみ深く、恵みに富み、慈しみとまことに満ちておられるお方、そして赦すお方であり、裁くお方である。この神の全てが「義なるお方」であるということなのです。
■キリストによって
これが全ての創り主、創造主であられる神の本質です。神の義は旧約の時代には、律法という形で人々に示されましたが、人間は誰一人としてこの律法の要求を満たすことはできませんでした。そのことはロマ書3:20にこう記されています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。」続く21節から24節、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるもの全てに与えられる神の義です。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」神は全く新しい神の義によって人間を救おうとされました。それが主イエスがこの地に私たちと同じ人間として来てくださったということです。律法の要求を決して満たすことができない人間は、罪ある不完全な者たちです。その人間の側の行為や功績を条件とせず、神が主イエスをこの世に送り、そして十字架への道をお定めになり、主イエスが私たちの罪を負って、贖いとなり、十字架で血を流して死なれ、その身を捧げてくださった、その犠牲によって神から義とされた、罪赦されたということです。人間はただその主イエスの死、十字架は私のためであったという神の信実、神の愛を恵みとして受け入れます、と告白することによって、私たち人間は義とされるのです。パウロが「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」とロマ書3:28、ガラテヤ書2章、3章で繰り返している通りです。
先ほど、詩編でもこの「義」という言葉が、「恵みの御業」と訳されていると申しましたけれども、こうしてキリストの義、キリストの信実、キリストがまことであられるということを信じることによって義とされるキリスト者にとりましては、キリストがなしてくださった救いの御業、これがまさに恵みの御業であると皆様思われることでしょうし、そのようなつながりを見出しますと、神の義という難しく感じられる言葉も、神の憐れみ、神の慈しみ、神の愛を表すものであり、そして救いを表しているものであるということがお分かりになるのではないでしょうか。
■義は救い
改めて主イエスが言われた御言葉、先ほどの5章6節をお読みします。「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」これを「神の恵みに飢え渇く人々は幸いである。その人たちは神の愛に満たされる。」このように置き換えて読みませば、よくわかるのではないでしょうか。また「主イエス・キリストを求める人々は幸いである。その人たちは救いを得る。」とも読めるでしょう。主イエス・キリストを求め、主イエス・キリストが救い主であられることを信じる者たちは、神の憐れみ、慈しみのうちに置かれ、神から義とされるということが示されているのです。この「義に飢え渇く」の「渇く」は、主イエスが十字架上で息を引き取られる前に発せられたお言葉です。ヨハネによる福音書19章28節、208ページ、「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。」と書かれています。つまり、神の恵みに対する癒し難い渇望があり、求める者が幸いであるのかは、主イエスの十字架によってその救いの時が来るからであります。私たちも喉が渇いてどうしようもない時に、一杯の水によって満たされるという経験があります。時に、その水を飲んだ時に「あ〜生き返った」というような言葉を口にすることさえあります。まさにそのような渇望、渇きは神の恵みによって生かされて、主イエスの救いの御業によって新しく生きる者となるのです。
そしてまた、もう1箇所、5章20節には「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と書かれておりましたけれども、律法学者やファリサイ派の義とあなた方、つまり私たちの義とは言葉は同じでも全く次元の異なるものであるということもお分かりになるでしょう。律法学者やファリサイ派の「義」は自分たちがいかに律法に従うか、律法をその通りに行うか、自らそれを積み上げていけるか、を競うものであり、それを判定するのは自分たちでありました。ですから、主イエスは「あなたがたの義がまさっていなければ」と言われましたけれども、私たちがファリサイ派たちと同じ次元に立って、彼ら以上の頑張りを!というように思わなければ良いだけのことです。私たちに与えられている義は神に義としていただくだけの義、神の義でありますから、そもそもまさっているのは当たり前なのです。もともと次元の違うものであるということに気づくかどうかにかかっているとさえ言えるのではないでしょうか。
■結び
5章1節から始まっている山上の説教は7章まで続いています。12月は一旦、この連続講解から離れますけれども、年明けから再び戻り、6章から共に読み進めてまいります。すでに読んでまいりました5章21節以降が他者に対する具体的な義として示されてきました。続く6章1節に「善行」という言葉が書かれておりますけれど、この言葉も元の言葉では「義」であります。神に対する義の表し方が示されているのです。7章までずっと同じように義を心に留めつつ読み進めてまいりたいと思うのです。
本日、最初にお読みいただいたホセア書10章12節、1415ページにはこうありました。「恵みの業をもたらす種を蒔け/愛の実りを刈り入れよ。新しい土地を耕せ。主を求める時が来た。ついに主が訪れて/恵みの雨を注いでくださるように。」このホセア書は厳しい裁きの中にも、熱情を持って語られるイスラエルへの神の愛、神の変わることのない慈しみ、憐れみが主題です。神が人間に求めておられることは、正しいことを行うというよりも、常に人間に神との正しい関係にあることです。神がイスラエルに対してエジプトからの救いに応答して正しい関係に生きよ、と言われたように、私たちにも同じように求めておられ、人の目に対しての行いではなく、主の目に適う行いを求めておられるのです。私たちは最終的に主イエスと同じ姿へと変えられるという恵みがすでに約束されています。わたしたちは神によって義とされている者たちです。神から与えられている恵みを蒔く者として、神に対する義を表していけるようにと祈り願うのです。
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