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『神の約束』 2024年3月17日

説教題: 『神の約束』

聖書箇所: ガラテヤの信徒への手紙 3章15~18節

説教日: 2024年3月17日・受難節第5主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 


■はじめに

今日の箇所でパウロは、「わかりやすく説明しましょう」、と言って、法律的な事柄を例にとって、話を始めます。ここで何をわかりやすくするのか、と言いますと、人間の救いが何によって保証されているのかということを明らかにしようとしています。以前の口語訳聖書では「世のならわしを例にとって言おう。」となっていました。本来、用いられている言葉に忠実に訳しますと、「人間関係の例を用いて話してみましょう」となります。いずれにしましても、パウロは何とかしてガラテヤの人々に救いの本質を理解してもらいたい、と強く思い願っていたということです。自分たちの身近な例を用いる、あの手この手で、壮大な神の真理を理解してもらいたい、わかってもらいたいと思っているのです。そしてパウロはガラテヤの人々へ「兄弟たち」と言う言葉を使って、今日の箇所を語り始めるのです。

 

■「兄弟たち」

この3章の始め1節では、「物分かりの悪いガラテヤの人たち」と厳しい言葉を投げつけたパウロでしたが、一区切り置いたこの箇所では、兄弟たち、と呼びかけています。このガラテヤ書はその1章の始まりにありますように、とにかくキリストの福音に留まって欲しい、ということを何とかして彼らに伝えたい、その思いの溢れる手紙なのです。それゆえに、攻撃的な厳しい言葉も使いますが、こうして、同じ神の家族への呼びかけの言葉である「兄弟たち」と愛の言葉を使っているのです。好きなようにしたら良い、と見捨ててしまうことの方が実は簡単だったでありましょう、しかし、パウロは決して諦めず、粘り強く語りかけるのです。パウロがそうし続けたのは、それは彼の思いというよりも神の御心であったからです。神はイスラエルがいかに背いても決して見捨てることはありませんでした。神はアブラハムと交わした約束を反故にすることはありませんでした。アブラハムを選び、あなたを祝福の基とする、と一方的にお決めになった神様は、その後、人間がどのようなことをしようともその約束をお忘れになりませんでした。ご自分が選ばれた民を、人間を、常にご自分の元へと戻ってくるように、と働きかけ続けてくださるのです。「神は愛」です、人間に対して絶対的な愛を貫かれる。神はそれを愛する独り子である主イエスを十字架へと送るという形で示してくださいました。パウロはその主イエスとの出会いによって、神の徹底した愛を知りました。自分の側には何も誇るべきものはない、むしろ必要ない。ただ、主イエスによって与えられる神の愛を受け取るだけで良い。神の愛を受け取ること、それは主イエスによって与えられたと告白すること、ただそれだけである、と言い続けてきたのです。

この箇所でパウロは「人間の作成した遺言」という例を取り上げて、神の約束について伝えようとしています。神はアブラハムとその子孫に対して、子孫の繁栄と土地の取得の約束を告げました。創世記17章の4節以下をお読みします。「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる。」アブラハムが国民の父となること、そしてアブラハムとその子孫に約束の地が与えられると言うことがここで告げられたのでありました。

いまお読みした聖書の箇所では、「契約」と言う言葉が繰り返し使われましたが、パウロはこの契約を、神が与えた約束と呼んでいます。17節には「神によってあらかじめ有効なものと定められた契約」とあります。契約という言葉には、相互関係的な意味があります。つまり、条件のようなものが出され、それに対する合意によってなされるものを契約と呼ぶのが一般的でありましょう。この創世記における神の選びは一方的なものでありましたが、神の選びに対する人間の応答という意味では相互関係的と言えるようにも思います。アブラハムは神の選びに対して、主の言葉に従った、という応答がありました。ここでパウロが目を向けているのは、ただただ神が与えてくださったもの、そのことを強調するためにわざわざ「約束」という言葉を使っているのです。

 

◾️アブラハムの子孫

そして先ほど、創世記17章の御言葉をお読みしましたが、子孫という言葉が出てまいりました。「わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。」というところです。日本語の子孫という言葉からは、その血筋の子供、孫、ひ孫というように累々と続くものをイメージいたしますので、言葉自体が複数を意味するように思いますが、正確に言いますと、子孫たち、という複数形ではなく、一人の人を指す「子孫」と単数形が使われています。パウロはそのことを指摘し、創世記で語られている「子孫」、それは、主イエス・キリストのことである。主イエス・キリストただお一人を指しているのだ、と言うのです。全てのユダヤ人は、自らをアブラハムの子孫である、と自覚していました。ですからアブラハムに告げられた約束は自分たちが受け継いでいると認識しておりましたが、パウロは、その約束はただキリストにおいて成就したと言っているのです。

創世記でアブラハムに告げられた子孫の繁栄は神の祝福であります。その祝福は、主イエス・キリストの十字架の死、そして復活によって成就した。それはユダヤ人のみならず、異邦人にも及ぶものである、それは前回、共に読みました14節に語られておりました。

実際にアブラハムの子孫たちは約束の地、カナンが与えられました。神の土地取得の約束は彼らが受け継いだ実際の土地という概念を遥かに超えるのです。つまり、私たちへまで及ぶものであり、私たちは神の国を受け継ぐ者たちとして神の約束が果たされているのです。

 

■遺言は有効

パウロはここで遺言と相続という概念を用いて、説明しているのです。相続とは、ご存知の通り、親の財産が子供に受け継がれることです。人間が作った遺言でさえ、有効なものとなったならば、後から無効にしたり、付け加えたりはできないのであるから、神が有効なものと定められた契約、アブラハムに与えてくださった約束、これが無効になることなどあるわけがないでしょう、というのです。神がアブラハムと契約を結ばれて430年後、モーセの手を経て律法が出来た、と言います。この430年というのは、出エジプト記12章40節、「イスラエルの人々が、エジプトに住んでいた期間は四百三十年であった。」。この後、イスラエルの民は、エジプトを脱出して、荒野の旅を続け、約束の地カナンを目指します。その途中で十戒という律法が与えられたのでありました。この掟に従って、選ばれた民としての道を歩むために与えられたのが十戒です。エジプトにいた430年と十戒が与えられるまでの荒野での期間を足しませば、アブラハムへの約束から500年近くの年月ということになるのでしょうが、その数字の正確さよりも、神のアブラハムへの祝福から、十戒が与えられるまでの時間的な隔たりをパウロは強調するためにわざわざ数字を上げているのです。約束が与えられ、そして十戒という律法が与えられた、というこの順番です。パウロが伝えたいのは、神が律法より先に与えてくださった約束は、律法によって破棄されることはない、ということです。そしてその神が与えてくださった契約、つまり恵みの約束は主イエス・キリストへと受け継がれている、相続されている、というのです。唯一絶対なる神の恵みがずっと変わらずに生き続けている、パウロはそのことに目を向けるように、それが私たちの救いの原点なのだ、とガラテヤの人々に告げているのです。

相続、つまり神の国を受け継ぐこと、これが律法によるのであれば、律法を守らなければなりません。しかし、神の国を受け継ぐことは、ただ一方的な神の約束に由来するものであり、律法によって変更されたり、破棄されたりすることなく、神の国を受け継ぐのです。このように神の国を受け継ぐ、神から義とされる、そのことに何の条件も必要ありません。しかし、私たちはそのことをどこか釈然としない思いで受け止めるのです。それは私たちが今まで生きてきた社会はそうではないからです。「何かをすること」そして、それによって認められること、これが当たり前となって私たちは生活してきました。たとえば、学校しかり、会社しかり、人間関係しかり、全てそのように実績を積み上げること、何かを勝ち取ること、それがよしとされてきたからです。確かに、社会や経済の発展のためにはそのような功績は必要でしょうし、そのような貢献によって評価されることも自然なことでありましょう。しかし、時にそれは人を傲慢にし、できる人ができない人を裁く世界を生み出します。そしてそれは「できない人」が絶望の中に生きる構図を作ります。しかし、神の国を受け継ぐ、そのことにおいて、何ができる、できないは全く関係なく、むしろ、邪魔なものであります。私たちはキリストのものでありますから、自分に何ができるという自分のプライドは邪魔なだけであり、誇るものはただ主のものとされている、ということを誇る、誇るならば、主を誇るだけなのです。私たちは繰り返しこのことをこの手紙で告げられてきました。

 

■結び

パウロはこのことをローマの信徒への手紙の中でこのように言っています。9章16節「これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」信仰というものはもちろん、知識的なことも必要ではありますけれども、その積み重ねによって得られるものではありません。自らの行いをどこまでも積み上げていっても、救いは得られません。ただ、神が私たちを愛してくださっていること、そしてその愛のうちを歩ませるために、愛する独り子主イエス・キリストを与えてくださり、神と人間との壊れた関係を修復してくださった、そのことを信じるか、はい、信じます。それだけなのです、そこから信仰は始まり、私たちは神に従う者へと変えられていくのであります。

信じることによって、すべての善きものが神から与えられるということは、何という恵みでしょうか。成し遂げなければ、守り抜かなければ、救いは与えられないのではなく、神が差し出してくださるものを無条件で受け止めよ、と言ってくださることに、ただ「ありがとうございます、頂戴いたします」と申し上げることです。自分を神に明け渡すというのはそういうことです。パウロが言った「神の憐れみ」の時代はパウロがガラテヤの人々に、ローマの信徒たちへ告げた時から、今のこ

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