『神の武具を身に着ける』2026年4月12日
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説教題: 『神の武具を身に着ける』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編18:31-37
聖書箇所: 新約聖書 エフェソ6:10-18
説教日: 2026年4月12日・復活節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日は午後に教会総会を予定しております。毎年、教会総会の日は、その年の教会標語から説教をしています。今年度の教会標語はエフェソの信徒への手紙6章13節以下の「神の武具を身につける」といたしました。このエフェソの信徒への手紙は伝統的には使徒パウロの獄中書簡とされています。そしてまた、この手紙は教会の手紙とも言われます。1章から見てみましても、1章23節に「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とありますし、4章12節以下では、教会に連なる一人ひとりの霊的成長により、その体全体、教会は節々が補い合い、組み合わされて、結び合わされて、それぞれが働き、そして教会が作り上げられていくとパウロは語っています。そのように一人ひとりの歩みがキリストのように歩むことが教会の歩みであると語られています。そしてこの与えられている6章の箇所は、「最後に言う」とありますように、この手紙の締めくくりの部分です。そしてこの「最後に」と言う言葉は、手紙としての最後だけではないかもしれないのです。パウロ自身が自分自身の最後ということを強く意識せざるを得ない状況にあったのです。そのような真剣な思いがこもっている言葉です。
■強められなさい
この部分を読んでいただくとわかるとおり、「戦い」のイメージで表現されています。この手紙はパウロの獄中書簡であると申しました。つまり、ローマの牢獄で書いたものということです。パウロの周りには昼夜を問わず、交代しながら見張るローマの兵士たちがいました。彼らは一様に武具を身につけていました。その武具はローマ皇帝への忠誠のしるしでした。皇帝の命令に対してすぐに対応できるような準備を整えていたと言うことです。彼らの上着はゆったりとしたものでしたが、それを帯できっちりと締め付けていました。その帯は剣を支えるものでもありました。そのような自分を取り巻く兵士たち、皇帝に忠実に仕える兵士たちの姿を、パウロは神に従う信仰者たちと重ねているのです。私たちのだれもが決して戦いを望んでいるわけではありません。しかし、パウロは私たちには戦いがある、というのです。その戦いに臨む姿勢が10節以下に示されているわけですけれども、
最初にパウロは「強くなりなさい。」と言います。そう言われると、これ以上、頑張れないと思われるかもしれませんが、この文章を原文に忠実に訳しますと、「あなたがたは、主にあって、また主の全能の力によって強められなさい。」です。ですから、まず、「あなた」という個人に向けて言われた言葉ではなく、「あなたがた」つまり、教会全体に向けて言われたということです。もちろん、信仰者一人ひとりの信仰生活のことを言っているわけですけれども、その土台には教会があり、その共同体としての働きのことを言っているのです。ですから、それぞれの信仰生活において、それぞれの信仰の戦いがあるわけで、それを束ねる教会があるということが「あなたがた」という複数形に込められているのです。そして、「強くなりなさい」という言葉は、「強められなさい」です。ですから、私が頑張るのではなく、主にあって、主の力によって、と繰り返されるように、主の力を受け取りなさい、ということが言われています。信仰の戦いは自分の力でするものではないということです。「主にあって」とは、自分の弱さが起点ではなく、キリストが起点であるということです。「さあ、キリストから始めよう。」という私たちへの招きです。私たち、それぞれは確かに、小さい、弱い。しかし、私たちがどんなに小さくとも、弱くとも、どん底にいようとも、キリストの力は大きい。偉大なる力をお持ちのまま、そこに存在し続けておられる。その偉大なる力は私たちに差し出されているのです。それを受け取りなさい。パウロは私たちをそのように力づけてくれています。この全能の神の力を受け取って、強められなさい。というのがパウロの第一の勧めです。
■しっかりと立つ
第二の勧めとして「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」と言っています。悪魔とはなんでしょうか。私たちは悪魔というと、頭に角があって、フォークのような槍を持った黒い姿をイメージいたしますけれども、そのように見るからに悪そうな存在が悪魔なのではありません。悪魔という言葉は、旧約聖書ではサタンとして登場しています。その意味は「訴える者、敵対者」です。つまり、裁判において、人を訴える、相手を打ちのめそうとするという働きをする者ということです。ですから、私たちの信仰を失わせようとする働きというのは、時に甘い誘惑であり、時には強い力で奪い取ろうとするものかもしれません。また、親切な人を装う姿で登場するかもしれません。わかりやすい悪魔の姿で現れるわけではないのです。現代社会で問題となっている特殊詐欺とか、また、今や私たちになくてはならないインターネットや携帯電話、またAI人工知能だって、私たちを神から引き離すものとなりうるのです。そのようにさまざまに姿を変えて現れるさまざまな力に対して、私たちは立ち向かわなくてはならないのです。
パウロはここから繰り返して、「しっかりと立っているように」と語ります。この11節で「立ち向かう」、13節で「しっかりと立ち」、そして14節で「立ちなさい」と命じています。それは自分の立つ場所をしっかりと確保すると言うことです。私たちは、主イエス・キリストに出会い、教会という場が与えられ、信仰に生きる者となっています。それぞれの毎日に聖書があり、御言葉があり、祈りがあります。そして教会生活があります。そのような全て、それらの場所にしっかりと踏みとどまる、その場所を自分の場所とするということです。
■神の武具
そしてパウロはそのための私たちの信仰の姿を、兵士の姿と重ねて、「神の武具を身に着けなさい。」というのです。日本語には訳されていませんけれども、神の武具ではなくて、神の「すべての」武具を取りなさい、が正確な訳です。そして表現は命令形の言葉です。神の場所に立ち続けるための命令です。そして14節から17節に神が私たちに与えてくださる武具が示されています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」真理の帯を腰に締める、つまり、体を支える中心である腰には真理。そして胸には神の正義の胸当て、足には福音の靴。そして信仰という盾。この盾が外からの攻撃を跳ね返します。頭には兜をかぶる。これは救いの兜、とあります。つまり、私たちは救われているのだということを忘れないようにしなさいということです。これら5つの神の武具が私たちを守るものとしてあげられています。私たちの戦いというのは、決して誰か直接的な、目に見える相手というわけではありません。悪の力との戦いです。そしてそれは時に自分との戦いなのです。そのために神の武具が必要です。真理に生きるというのは何でしょうか。それは神の正しさに生きるということであり、主イエスの示された愛に生きるということでありましょう。そして、主イエスが赦してくださったように、人を赦す愛に生きようとすることでしょう。それが平和の福音を告げる履き物をはいて歩むということでしょう。しかし、そのような生き方から逸らそうと悪魔の放つ火の矢が飛んでくるのです。それを跳ね返すのが信仰です。使徒信条で繰り返される、「全能の父なる神を信ず。主イエス・キリストを信ず。聖霊を信ず。教会を、聖徒の交わりを、罪の赦しを、甦りを、そして永遠の命を信じます。」という告白が悪魔の火の矢を跳ね返すのです。このように告白しながら、真理と正義と平和の道を弛まずに歩み続けるのです。
■霊の剣である御言葉
そして唯一、攻撃の武器が剣です。それは霊の剣とあり、それは神の言葉であるとされています。主イエスは荒れ野で四十日四十夜断食されたのち、悪魔から誘惑を受けました。その時、主イエスは「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」と言われました。19節でパウロが「福音の神秘を大胆に」という表現を使っていますように、牧師もよく司式者が「御言葉が大胆に語られますように」と祈ってくださいます。この大胆にという言葉は、大きな声でとか、思い切って、というような意味ではなく、恐れず、真理を、確信を持って伝えるという意味です。一人一人の信仰者においても、何か口を開いて語らねばならない時には、聖書の言葉が助けてくれるということです。これが神の言葉を取るということです。このようにして私たちは信仰の戦いを戦う備えが与えられているのです。パウロを取り巻く兵士たちが身につけている武具はローマ皇帝への忠誠のしるしでありましたけれども、私たちが身に着けている武具は神の守りのしるし、神が共にいてくださるしるしなのです。
■祈りによって
パウロの三つ目の勧めが18節にあります。「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」と言います。パウロがこういうとき、私たちの生活そのものが祈りに始まり、祈りに終わるというように、すべての中心が祈りであるということです。すべての聖なる者たちのために、というのは教会のための祈りということでしょう。そして19節にはパウロが「わたしのためにも祈ってください。」とありますけれども、これは伝道者のために祈るということでありましょう。私たち一人ひとりは信仰の戦いの場に置かれているのです。ですから互いのために祈り合い、また伝道者のためにも祈る。それが教会という共同体にある者たちの姿なのです。私たちの武具は自分で作り、用意しなければならないものではありません。すべて神が用意してくださるもの、神の武具、帯・胸当て・履き物・盾・兜・剣は、真理、義、平和、信仰、救い、神の言葉として私たちを守り、また、私たち自身がそのように生かされます。それは一人ひとりの祈りによって、また、教会の祈りとして私たちを、教会を成長させてくださるのです。
■結び
到底、自分の力や努力ではまっとうすることのできない信仰の歩みのために、神は武具を整えてくださいます。主イエスから引き離されないように守ってくださるのです。私たちが立つ場は、教会であり、教会において互いに祈り合い、支え合う、そのような共同体でありたいと思います。互いを覚え合いながらの祈りは、主にあって一つに結ばれる祈りです。神の武具を身につけて歩む共同体は、主にあって強められています。この手紙の最後、23節をお読みします。「平和と信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛を持ってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」新たな2026年度の歩みが始まりました。常にこの御言葉に立ち、しっかりと立ち、祈る共同体、祈り合う共同体でありたいと祈り願います。
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