『何も持たず神の前に』2026年5月17日
- 5月18日
- 読了時間: 9分
説教題: 『何も持たず神の前に』
聖書箇所:旧約聖書 コヘレトの言葉5:9-19
聖書箇所:新約聖書 マタイによる福音書19:13-22
説教日:2026年5月17日・復活節第6主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の箇所を読みますと、「子どもの祝福」と「金持ちの青年」とあり、一見すると全く別の出来事が語られていますけれども、実は一つの主題で結ばれています。「天の国に入るというのはどういうことか」ということが語られているのです。
■主イエスのもとに
時と場所は主イエス一行がガリラヤからユダヤ地方へと移動して、ファリサイ派からの試みを受けたとき、その辺りということでしょう。すでに多くの群衆が従ってきていました。主イエスはその行く道々で人々の病気を癒やされるという御業もなさいました。そのような主イエスの癒しの御業の評判を聞いた人たちによって子どもたちが連れてこられたのでありましょう。イスラエルの人々にとって子どもは恵みであり、宝でした。尊敬するラビに手を置いてもらうことによって神からの祝福をいただくという習慣があったのです。ですから彼らは主イエスに手を置いて祈っていただきたかったのです。創世記48章14節で、イスラエルつまりヤコブはヨセフの二人の息子エフライムとマナセに手を置いて、このように告げて祝福しました。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」このような祝福が自分たちの子供たちにも与えられるように、と子どもを持つ親たちが主イエスに祝福してもらうために集まってきました。
■何も持たずに
ところが、「弟子たちはこの人々を叱った」のでありました。ほんの少し前です、主イエスは天の国で一番偉いのは誰か、という弟子たちの問いに対して、子どもを真ん中に呼び寄せてこのような子どもであると言われた。そのことを弟子たちは聞いていたはずでありますけれども、子どもを連れてきた親を叱り、子どもたちを主イエスから遠ざけようとしました。弟子たちの行動はおそらく主イエスがお疲れになっておられるだろうから、というような配慮ゆえのものだったかもしれません。また、子どもたちというのは騒がしかったり、落ち着かなかったりというようなことから、主イエスの前に出るのには相応しくないと思ったのかもしれません。いずれにしても主イエスから子どもたちを遠ざけようとした弟子たちの思いを否定して、主イエスは「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」と弟子たちをお叱りになられました。今日の箇所というのが、先週の箇所に続いていることが冒頭の言葉からわかります。「そのとき」とありますから、ファリサイ派が「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法に適っていますか」という質問をし、それに答えられた後ということです。女と子どもはものの数に数えられず、男性の財産の一部というように考えられていた時代に、ここで主イエスは女性の意味を、神が男性と女性とを作られたその御心をお話になられたのでした。その直後の、今度は子どもの問題ということであります。18章のところでもお話しいたしましたけれども、主イエスは子どもの純真さとかを誉めておられるわけではなくて、子どもというのはただ呼ばれればそこに来る、というように連れられてくることしかできない存在です。自分の意志でいきたいところに行くこともできないのです。「天の国はこのような者たちの国なのです」という主イエスのお言葉は、まさに何も持たないものが神の御前に招かれているのだということです。その何も持たない者の代表として子どもが挙げられているのです。
■金持ちの青年
今日の聖書箇所の前半と後半が繋がりました。何も持たない子どもと金持ちの青年です。この人は主イエスの天の国の話を聞いていたのでしょう。この人はルカによる福音書によれば、議員であったと記されています。自他ともに認める立派な地位にありました。神から与えられた掟は子どもの頃からしっかり守ってきました。そのような人が「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」そう主イエスに質問してきました。それに対して主イエスは言われました。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」「どんな善いことをすればよいでしょうか?」という問いに対して、主イエスは「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。」と言われました。つまり、あなたの問いは的外れであるということです。「善い方はおひとり」「善いこと」ではなく、「善い方」を求めなさい。というのが主イエスのお答えです。善いこと、それは律法を守るとか父母を敬うなど、自分がする行いです。しかし、善い方とは神のことでありますから、善い行いをする自分自身を見るか、神を見つめるかというその方向は真逆であります。ここにも子どもとの対比が示されています。ただ受け取るしかない子どもと、自分の行いを自分で判断して、さらに何をすれば善いのか考えるという違いです。彼はいうのです、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」善いことを積み重ねていく自分に何が足りないのでしょうか?彼はそのように尋ねるわけです。あれもこれも善い行い、正しいことを積み重ねて彼は自分のバロメーターが上がることを目指しているわけです。良き行いが見えない貯金として蓄積されて、将来に幸福が与えられるという感じです。しかし、主イエスが言われるのは、そのような良き行いの積み重ねによって自分のよさを見つめるのではなく、神を見つめなさいと言われました。「命を得たいのなら、掟を守りなさい」と言われたその意味は、掟を守るというよい行いをすることが求められているのではなく、ただお一人の善いお方である神の御言葉に聞き従っていきなさい、ということです。十戒には、「こうしなさい」「こうしてはならない」と語られていますが、それらの戒めをただの道徳律として守る、行うということでは意味がないのです。大切なのはそれらの戒めを与えてくださったお方、ただお一人の善いお方である神との交わりにおいて、それらの戒めを受け止めるということです。これらの戒めが私たちへの恵みとして与えられていることを味わい、神を信じ、神を愛し、神と共に生きる中で御言葉に聞き従うということが求められているのです。しかし、この青年は主イエスのお言葉の意味を正しく受け止めることができませんでした。「そういうことはみな守ってきました。」と彼は言います。神を見つめるのではなく、自分を見つめているのです。十戒はユダヤの人々にとって基本であり、彼らの信仰生活の核となるものです。ですから、それらを守ることは当たり前であり、さらには十戒をさらに厳しく守るための細則にも忠実であったことでしょう。細則とは以前にもお話ししたことがありますが、戒めを破ってしまう可能性をことごとく排除するために指導者たちが決めていくルールです。それらの細かい掟も熱心に学んで、そしてそれらを行なっていたことでしょう。ですから、彼の「そういうことはみな守ってきました」と言う言葉は決して嘘偽りではないのです。しかし、そうして学び、善いことを求め、行ってきたその人が「まだ何か欠けているでしょうか」と尋ねるのです。彼は不安を覚え、満たされないものを感じていたということです。それゆえに主イエスのもとに来て、尋ねたのです。ここからわかりますことは、人間は自分を見つめている限り、善いことをしている自分に目を向けている限り、完全なる平安、平和は得られないということです。なぜならば、この自分の正しさは不完全であり、常にもっともっとと足りないものを探すしかないからです。そのような思いがなくなることはありません。
■持ち物を売り払い
主イエスはその青年に、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」と言われました。主イエスは19節で「隣人を自分のように愛しなさい。」と言われ、それを聞いた青年は「そういうことはみな守ってきました。」と言っていました。そうであるならば、神の戒めを守り、隣人を自分のように愛しているならば、これができるであろう、と主イエスは言われたのです。この主イエスのお言葉で、青年は悲しみながら立ち去りました。「たくさんの財産を持っていたからである。」と今日の聖書は締めくくられています。彼の持っていた財産、それは確かにお金でもあったでしょう。しかし、彼が捨てることのできなかった彼の財産、それは彼自身が努力して積み重ねてきたものでありました。永遠のいのちはお金では買えない、そのために善いことをして生きるということで財産を築いてきたのです。そして主イエスからの教え手を加えてより完全なものにしたいと考え、そのために主イエスのもとに来たのです。そのような彼に善いことを追い求めるのではなく、善い方との交わりに生きなさい、と言われました。ですから主イエスの言われたお言葉は、持ち物を売り払って貧しい人に施せば永遠のいのちを得ることができるという引換条件ではありません。主イエスが手放しなさいと言われたのは、自分を拠り所とする生き方を手放しなさいということです。自分を手放す、それによって無一文になります。丸裸になります。その時に何に依り頼むのか、ということです。ただお一人の良いお方である神の恵み、神から与えられている恵みを自分の財産とするということです。それを土台にして生きる時、間違いのない正しさに裏打ちされた土台でありますから、神の正しさに生かされる者となり、神の慈しみと恵みに生かされる者となり、本当の豊かさを得る者となるのです。何かを持って神の前に立つのではなく、自分の成功や実績に点数をつけてもらおうとするのではなく、何も持たず、ただ神の前に立ち、神が与えてくださる恵みを両手いっぱいに受け取りたいと思うのです。
■結び
永遠のいのちとはなんでしょうか。私たちの心臓はいつかは止まります。肉体は滅びます。そうであれば、永遠のいのちとは何なのでしょう。死んだ後の魂が安らかであるということでしょうか。永遠のいのちとは、そのような未来、将来のことではないのです。ヨハネによる福音書6章47節には「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と主イエスは言っておられます。そしてまたこの後の主題でもある「天の国、神の国」それもまた、未来に得られるものであるのと同時に、現在すでに私たちに与えられているのです。キリストの体である教会において、また聖餐において、すでに私たちはその保証のうちに置かれています。永遠のいのちとは、過去、現在、そして未来それらが一つとなった私たちの時間軸で測れない神の平安のうちにあり、私たちが今すでにそのうちに置かれているということなのです。
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