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『天の国のために』2026年5月10日

  • 2 日前
  • 読了時間: 10分

説教題: 『天の国のために』

聖書箇所: 旧約聖書 創世記2:18-25

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書19:1-12

説教日: 2026年5月10日・復活節第6主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日から19章に入りますが、その1節にはこのように記されています。「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。」「これらの言葉を語り終えると」でありますから、18章に語られた教えのことを指していることは明らかです。そしてそれに続いて、主イエスの道行きが記されます。17章22節に「一行がガリラヤに集まったとき」という言葉があり、この箇所の説教の際に、これは単にガリラヤに戻ってきたというのではなく、伝道の原点であるガリラヤから南下してエルサレムを目指すための旅、神の御心に従うための旅が始まるという結束を表しているとお話しいたしました。そしてそのガリラヤからいよいよ本格的な移動が始まるのです。「これらの言葉を語り終えると」というのはマタイが大きな区切りを示すときに使われる特徴的な言葉です。ユダヤ地方というのは、エルサレムを含む地域です。この先を少し先取りして地理的なことを見てみますと、エルサレムへ登っていく途中で主イエスが三度目の受難予告をされるのが20章17節以下、そしてエルサレムに近いエリコの町での出来事が記されて、21章でエルサレムにお入りになり、主イエスはその週のうちに捕えられてそして十字架につけられ、殺されるのです。その十字架の死へと向かう歩みがこの19章から始まるということです。

 

■離縁できる理由

このように一つの区切りとなってはいますけれども、内容としては18章の教えが続いていると言えます。18章では、小さな者を受け入れる、罪を赦しあうきょうだいの話、そして教会共同体を生きる私たちのことが示されていました。そして罪の悔い改め、その赦しの実現について語られていました。罪を赦された者が生きる生活の姿、それが教会の生活であり、そのものであると主イエスは言われたのでした。今日の箇所においては、夫婦の間柄について記されています。18章で示されてきた、受け入れあうこと、赦しあうことが同じように、夫婦という、むしろ近しい関係であるがゆえに、より求められていると言えます。18章の最後で示されたのは、私たちの赦しの根底には神の赦しがあるということであり、今日のこの離縁についての話も同じ視点で見る必要があるのです。

主イエスのもとにファリサイ派の人々がやってきて質問しました。しかし、何かを知りたかったわけではありません。むしろ、「試そうとして」という言葉の通り、悪意を持って質問したということです。「何か理由があれば、夫が妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」「どんな理由であれ、夫が妻を離縁することは許されていないのでしょうか。」協会共同訳ではこのように訳されています。つまり、絶対にダメなのか、離婚してよいならば、理由は何か、ということを彼らは尋ねているわけです。この律法というのは申命記24:1-4に書かれていることです。少し長いのですがお読みします。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。その女が家を出て行き、別の人の妻となり、次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。」申命記の言葉の真意というのは、離婚したのち、その女性が誰かと再婚し、そしてその夫とも離婚、もしくはその夫が死んでしまって女性は独身となったとしても、その人と再び結婚してはならない。ということです。しかし、ここでファリサイ派が問題としたのは、そのことではありません。当時の結婚の制度は圧倒的に男性が優位なものであり、女性は男性の保護のもとにあり、妻は夫の所有物であるかのように考えられていました。ですから夫の側からは離婚はできるが、妻の方から離婚を申し立てるということは考えられないことでした。妻は自分の持ち物の一つとは言っても、羊などの所有物と同じようにするわけにはさすがにいきません。それゆえにどんな条件が整ったら、離婚しても良いのか、ということが繰り返し問題とされたというのです。この冒頭の部分には「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは」とあります。「恥ずべきこと」というのは性的な不品行を指しています。このようなことが妻にあったならば、それは離婚の正当な理由となるということです。これは議論の余地のないところでありました。これは現代の結婚においても成立する理由なのはいうまでもありません。しかし、論争となっていたのはその後です。「気に入らなくなったとき」これが曲者です。当時はこの申命記の律法の解釈をめぐって論争があったようです。「気に入らなくなったとき」、つまり、夫の気に触ることをした妻は離婚しても良いということになるわけですが、夫の気に触るとはどのような範囲、どのようなことを指すのか、ということで議論していたわけです。極端な話、料理が美味しくなかった、とか、夫ではない男性と立ち話をしたなどなど、つまりは夫の機嫌を損ねるようなことをしたならば、それは離婚の正当な理由になったというのです。そのような申命記の「気に入らなくなったなら」論争に、ファリサイ派の人々は主イエスを巻き込みたかったのです。

 

■神の御心としての結婚

そのようなファリサイ派の企みをお受けになった主イエスは、「こういう理由なら離婚できる」とお答えになったのではなくて、4節から6節をお語りになられました。それは創世記からの引用です。創世記1章27節「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」さらには2章24節「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」今日の旧約聖書は2章18節からお読みいただきましたが、その始め18節にはこうありました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」ここに神が人間を男と女として造ってくださった御心が示されています。人間が男と女としてあるのは、人は独りで生きるべきものではなく、助け手と向かい合い、助け合って共に生きるべきであるということです。この御心によって男と女は結婚し、そして支え合い、助けあって生きる、夫婦となるということなのです。「二人は一体となる」という言葉は、神が二人を結びあわせたということを言い表している言葉です。結婚というのは単なる人間の契約ごとではなく、神の御心と御業が働いているということを受け止めるよう主イエスは言っておられるのです。したがって、主イエスは神が結び合わせたものを否定し、放棄することになる離婚に反対しておられるということです。

 

■罪ゆえに

本来、人間は、男と女はそのように助け合い、支え合い、受け入れ合い、赦しあって生きるように造られました。しかし、最初の人、アダムとエバは蛇にそそのかされ禁断の木の実を食べました。そしてその時にどうしたのか、といえば、互いに赦し合うのではなく、互いのせいにしました。「女が悪い」「蛇が悪い」「そんなふうに女を造った神様、あなたが悪い」という責任転嫁です。人間はそのような罪に堕ち、そして受け入れ合うどころか、相手を自分の思うように動かす、そうでなければ排除して生きることになってしまったのです。ファリサイ派の「どんな理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているか」という議論にはそのような罪が言い表されていると言えるでしょう。主イエスはそのような罪に生きるようになってしまった人間に、神の創造の御心を告げましたが、ファリサイ派の人たちは再び主イエスに質問いたします。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」彼らの意図は主イエスから何かを教わるのではなく、なんとかして主イエスを律法違反として訴えたいということでありますから、こうしてモーセ律法を持ち出します。主イエスはお答えになりました。8-9節です。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」つまり、律法に離婚についての規定があるのは、人間の罪の現実のためであって、神の本来の御心ではないということです。

さて、主イエスのそのお答えに反応したのは、ファリサイ派ではなく弟子たちでした。「『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った。」主イエスが言われたのは、結婚は神の御心であり、神が結び合わせてくださったということを受け止めなさい、ということでありましたけれども、弟子たちの発言は当時の一般的なユダヤ人男性の人間的な思いを代表するものであると言えるでしょう。つまり、夫にはある条件さえ整うならば、妻を離縁して他の女性と結婚することは男性の持つ権利であると考えていたからです。つまり、結婚は人間が自分の意志でするものであり、続けるもやめるも人間の権利であるということです。今の時代はそれが男性だけでなく、女性も同じように持つ権利として持っていると言えるでしょう。自分の思い通りにならず、我慢するならば、結婚などやめればよいという思いです。神に従うのか、自分の思いを優先させるのか、という問いです。そのまま私たちに投げかけられている問いであります。

 

■結び

この弟子たちの言葉をお聞きになった主イエスは、「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。」と言われました。「恵まれた者」というと、恵まれた環境にある者と理解しがちですが、直訳しますと「与えられた者」です。ですから神によって主イエスを信じる信仰を与えられた者ということです。信仰を与えられ、そして主イエスに従う者たちがこの言葉を受け入れられると主イエスは言われたのです。つまり、結婚とは神が結び合わせてくださったものであると信じて生きることであり、それゆえに相手を受け入れ、相手を赦し、共に生きることであるということです。人間同士でありますから、時に感情として相容れないものがあったとしても我慢するのではなく、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みゆえに、互いに赦されている者たちであることを受け入れ、共に生きていくということです。12節以下には様々な理由で結婚しない人、独身で生きる人のことが語られています。結婚できないように生まれついたということもあるでしょうし、宦官のように人為的に去勢された人もあったでしょう。現代においても何らかの理由で結婚できない人というのもあることでしょう。またカトリックにおける司祭や修道女のように天の国のために結婚しない人もあります。いずれも信仰に従って、それを神が自分に与えてくださったこととして受け入れて生きるということ、それは自分の権利ではなく、神の恵み、神が与えてくださったことなのです。主イエスは今日の箇所で、結婚の祝福をお語りになりましたけれども、それだけではなく、別れるとしても、再婚しないとしても、結婚しないとしても、いずれも神の栄光を表すためであるということ。つまりは天の国のために、ということです。結婚の問題のみならず、夫も妻も、子どもも親も、友人も、仲間もすべてが神によって与えられ、備えられた相手です。また、自分の人生も自分が生きている人生ではなく、神によって生かされているいのちであることを覚える時、神の愛の絆に生きることを知るのです。全てが神の栄光を表すために、天の国のために、共に生きていくことができるように祈りましょう。

 
 
 

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