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『神の権威に従って歩む』 2023年6月11日

説教題: 『神の権威に従って歩む』 聖書箇所: マルコによる福音書 11章27~33節 説教日: 2023年6月11日・聖霊降臨節第三主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今、共に読んでおりますのは、11章、今日はその11章の最後の部分です。この11章ではついに主イエスがろばの子に乗ってお入りになり、そしてエルサレム神殿の両替商や鳩売りなどを追い出し、祈りの場としての神殿の権威を正しくされようとした、その御言葉を先週、共に聴きました。主イエスがエルサレムにお入りになったのが日曜日であり、この日曜日からの最後の一週間を受難週と呼んでおります。宮清めの出来事は月曜日、そして今日の律法学者たちとの問答が火曜日の出来事になります。受難週の一コマであり、主イエスと律法学者たちとの対立が鮮やかに浮かび上がっている箇所であると言えます。


■何の権威によって

主イエスと弟子たち一行は再びエルサレムに、そして神殿の境内に入られました。すると、祭司長、律法学者、長老たちがやってきて、「何の権威でこのようなことをしているか」と言った、と書かれております。このようなこと、と言いますのは、前日の宮清めと言われる主イエスの行動のことです。そしてその時、主イエスは祭司長や律法学者たちのことを「強盗」と言っておられます。そのように言われた彼らは18節にありますように、「イエスをどのようにして殺そうか」と殺意を深めたのでありました。神殿における主イエスの言動は我慢がならないものでありました。その時、彼らは怒り心頭であり、すぐにでも捕らえたかったのですが、「群衆は主イエスの教えに打たれていたため、」とありますように、人々は主イエスを支持していたのです。ですから出て行かれる主イエスを見送るしかなかったのでした。そして翌日、主イエスが神殿にいらした時を待ち構えるようにして、彼らは昨日のことを詰問しました。ここでは昨日の祭司長、律法学者に加えて、長老たちが加わりました。ユダヤ教における権力者はすべて登場したことになります。彼らは宗教的指導者であり、律法を学び、正式な任命を受けて、神殿の一切を司っていました。自分たちが権威を持っている、神からの権威によって自分たちは行動していると自負していました。神殿の境内で売り買いする人たちを追い出し、両替人の台や鳩売りの腰掛けをひっくり返すという神殿の秩序を乱すようなことをした主イエスを容認できるはずがありません。このようなことをするならば、それ相応の権威があるはず、それはどこにあるのか、と問いただしたのです。ここでの論争によって、人々が主イエスにがっかりするなど、人々の気持ちを引き離し、主イエスの言葉尻を捕えて陥れようとも考えていました。また、あわよくば、神聖であるべき神殿を汚したという理由で拘束することも考えていたでしょう。そして、この論争の間にも彼らの心の中には「主イエスをどうやって殺そうか」という殺意が前提にあります。主イエスを亡き者にしようという彼らの計画は進行しており、そしてそういう意味においてはすでに裁判は既に始まっていると言えるでしょう。当時の裁判は最高法院において行われるものであり、今ここにはすでに祭司長、律法学者、長老たちがすでに揃っているのです。そしてそれは同時に、主イエスが最後の十字架の時に至るまで、人間の罪が明らかにされていくことでもあります。主イエスが十字架にお架かりになるまでまだ数日ありますが、すでに裁判は始まり、そして神の裁きと人間の裁きがここでぶつかり合っているのです。


■ヨハネの権威

問われた主イエスは彼らに質問を返されます。「では、一つ尋ねるからそれに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。」主イエスとユダヤ教指導者たちのこの問答は、ユダヤ教における一般的な形式だそうなのです。つまり、質問者が始めに質問し、その論点を明らかにするために、教師が質問者に逆質問をする、というものです。ですから、その形式に則ってみますと、この問答、対話の主たる方は主イエスであります。30節にありますように、主イエスは「答えなさい。」と言われ、御自身の権威を示しておられます。主イエスがなさった質問はこういうものでした。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」主イエスはバプテスマのヨハネのことを持ち出されました。バプテスマのヨハネのことはすでにマルコの始まりにおいて、主イエスの道備えとして神から遣わされ、人々に悔い改めの洗礼を宣べ伝え、神に立ち帰ることを語ったことが記されておりました。そしてその後、6章ではヨハネの死に至る顛末が記されておりました。領主ヘロデの行いが律法に許されていないと言ったことから捕らえられ、そして宴席において、義理の娘の踊りが人々を喜ばせた時、その褒美としてなんでもやろうと約束し、母へロディアに唆された娘はヨハネの首を、と望んだのでした。人々に約束した手前、ヘロデはヨハネが聖なる正しい人であることを知っていたにもかかわらず、自分の体面を保つためにその首をはねて殺してしまったのでした。実際にそれを命じたのはヘロデでありましたけれども、律法学者やファリサイ派たちも無関係ではありません。彼らもまたヨハネが捕らえられていた時も、ヘロデのなすがままにし、その振る舞いを咎めることはしませんでした。ヨハネが遣わされたのは誰からであったか、ヨハネが宣べ伝えることは誰の権威によるものであったのか、それを認めていなかったのです。ローマの支配下にあったのでヘロデが最終判断を下した形になっていますが、もしユダヤ人による判断を迫られたとしたら、祭司長や律法学者たちもヘロデと同じ決断をして、ヨハネの神からの権威を無いものとしたことでしょう。


■祭司長、律法学者の思惑

さて、ヨハネの洗礼は天からのものか、人からのものか、という主イエスの質問に、彼らはあれこれ思いを巡らせて、論じ合います。「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じずに殺してしまったのか」と返されることだろう。では、「人からのものだ」と言えば…ヨハネを預言者だと信じていた多くの群衆がいました。祭司長、律法学者たちは群衆を恐れました。預言者は神からの権威によって神の言葉を語る者であります。人々はヨハネの言葉は神の権威によって語られるものであったと信じ、認めていたのです。そのような群衆の前で、「人からのものだ」ということは、それらの群衆からの支持を失い、彼らから攻撃を受けることになるのです。祭司長や律法学者が依り頼んでいた権威とは、神からの権威ではありませんでした。人々の上に立ち、権威をふるっていながら、その人々を恐れていたのです。それゆえ、彼らは、自分たちを守るためには「わかりません」と答えるしかありませんでした。祭司長たちは群衆を恐れました。本来、神のみを畏れ、神のみに仕えるべきはずの祭司長たちは、神を畏れず、人間を恐れていました。彼らの依り立つ権威が神からのものでないことがはっきりしました。そして、ここでのこの議論そのものが、彼らの不信仰を表していると言えるでしょう。その議論は真実を求めるためのものではなく、自分たちを守るためのものであり、自分たちの都合の良い答えを導き出そうとするものでありました。主イエスはこのようにして、彼らが持っている権威の中身を露わにしました。中身のない権威であること、単なる権威の座に座っているに過ぎない者たちであることを明らかにされたのです。


■主イエスの権威

さて、この祭司長や律法学者たちの自分の権威に依り頼む姿は、決して私たちと無関係ではありません。人からの権威でなく、神の権威に依り頼むという姿勢は、私たちの信仰の問題と結びついています。私たちの全ての中心は何であるのか、という問いでもあります。大切なのは、それに服するという姿勢でありましょう。そのような姿勢なしに、神の権威を問うても、それは彼らと同じく、主イエスの問いに対して、「分からない」というはぐらかす答えでごまかすことになります。私たち人間は生まれつき、自分を守り、自分の権威を主張することで、自分の存在を認めてもらおうとします。ですから、「分からない」という答えは「分からない」のではなく、「分かりたくない」「認めたくない」のです。それを受け入れることで、自分の権威が失われるように思うのです。勝ち負けでいったら、負けを認めるような、そのような気持ちになり、頑なになり、自分の人生の主導権を手放すことをしないのです。しかし、まことの信仰、主なる神に従うということは、神様の権威に従うことであり、自分の人生の主導権を神様に譲り渡すことです。この「分からない」は「理解できない」の「分からない」ではなく、答えたくない、分かりたくない、認めたくない、の逃げの言葉であります。そのような答えを聞いた主イエスは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」と言われたのでした。真実を語らず、真実に生きず、正面から向き合わず、逃げの生き方をする人間に対して、主イエスがお答えを拒否されるのは当然のことと言えましょう。神に従って生きる、信仰を持って生きる、ということは、自らの逃げの弱さに向き合い、それを受け入れる厳しさを突きつけられることでもあります。私たちの持つそのような弱さのために、主イエスは十字架にお架かりになってくださったのであり、そのような弱さをすべて私が担うと言ってくださったことでもあります。


■結び

主イエスはろばの子に乗って、柔和、平和の主としてエルサレムに入って来られました。そしてまた、主イエスは神殿で宮清めをされるという厳しく、正しく、激しさをも持ってエルサレムに踏み込んでこられました。主イエスは同じように、私たちの心にも優しさ、穏やかさと共に厳しさを持って踏み込んでこられます。自分の権威が守られ、自分が決めたい、人にも触れられたくない、神様にも踏み込んでもらいたくない、と思っている領域があるとしたら、主イエスはそこに時に宮清めのような激しさで踏み込んでこられます。そうして支配してくださる、それが救いであります。私たちが握りしめているものを、主は共に担ってくださり、私たちの荷は軽くなるのです。そのような主の支配に自分を明け渡すこと、主の支配にお委ねすること、これが信仰に生きること、神の権威に従って歩むことであります。

主イエスが十字架につけられた日、この場にいた祭司長、律法学者、長老たちは何を思ったでしょうか。この場では主イエスに負けたが、とうとう排除した。自分たちの勝利である、自分たちの権威は安泰だ、と思ったでしょうか。しかし、真実の勝利は逆転しているのです。主イエスは徹頭徹尾、神のみを畏れ、神に仕えて、神の権威を示されました。祭司長たちと同じように、神を畏れず、人間を恐れて逃げ去った弟子たちも、復活の主イエスに出会い、神が主イエスを死から甦らせ、十字架を栄光のものとし、神のみが私たちを活かすお方であると知った時、神の権威に従って歩む者へと変えられたのです。

私が通っておりましたミッションスクールで、学園長からいただいた言葉で半世紀たった今でも忘れないものがあります。それは「神以外の何ものをも畏れない独立人になりなさい。」というものです。私たちが人間を恐れるというのは、人に見棄てられるのではないか、自分を守るのは自分しかいないと思うことです。しかし、本当に畏れなければならない神を畏れて生きるということは、逆に他の何ものをも恐れる必要がなくなる、ということです。私たちが神の権威に従って歩むということは、何ものをも恐れず、人を恐れることから解放され、主によって強められた歩みであり、神に対して、そして人に対して、真実に生きる歩みとされていくのであります。神の権威に従って歩む道を備えていただいていることに感謝いたします。


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