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『神の戒めによって』 2022年11月13日

説教題: 『神の戒めによって』 聖書箇所: マルコによる福音書 7章1~13節 説教日: 2022年11月13日・降誕前第六主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

「ファリサイ派の人々と数人の律法学者が、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。」今日の御言葉はこのように始まります。ファリサイ派は、今まで何度も出てまいりました。3章6節では、「ファリサイ派の人々は出ていき、早速ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにイエスを殺そうか相談し始めた。」とあります。主イエスに対して恐ろしい程の敵対心で見ていたことが記されております。律法学者も同様であります。同じ3章後半で、悪霊追放をなさった主イエスを悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれているといって批判していました。ファリサイ派も律法学者もいずれも旧約聖書に記されている神の掟、律法を人々に教え、厳格に守り実践するという生活を送っていました。彼らはイスラエルの人々が神の民として律法を守るよう指導していく立場にありました。そんな彼らがエルサレムから、ここガリラヤまでわざわざやってきたのです。主イエスの語っていることが律法にかなっているかどうかを調べるために、そして敵意をもって、やってきたのです。


■手を洗うことの「言い伝え」

そんな律法学者たちが目をつけたのは、弟子たちが食事をするときのことでした。主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていない、ということでした。私たちも、子どもの頃は、外から帰ると、ハイ手を洗って、と母から言われたものですし、特に今、このコロナになってから手を洗うということに対してはきっちりと習慣づけられています。ただ私たちのこの手洗い習慣は、100%衛生上の問題であって宗教的なものではありません。当時のユダヤ人はといいますと、3節に書かれております。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」とあります。これは私たちの衛生的な意味で手を洗う、というものとは異なるものです。「念入りに」とも書かれています。宗教的儀式として手を洗うこと、そしてその方法が細かく決められていたのです。それはなぜか。彼らユダヤ人から見て、信仰を持っていない汚れた人が使ったお金を自分たちも使うから、とか、汚れた人が食べた食器で自分たちも物を食べるかもしれない、旅の宿で使う寝台も信仰を持っていない汚れた人が寝たところかもしれない、など、そのように考えるから、彼らは手を洗うだけではなく、器、寝台までもすべてきれいにすることを決めていたのです。それは汚れからの清めでありました。汚れとされているものを遠ざけて、自ら聖い者になろうとするのです。

しかしそれは、彼ら自身も5節で言っているように「昔の人の言い伝え」でありました。律法では、神様の前で特別な儀式をするときの清めは定められていますが、この手洗いの決まりは「昔の人の言い伝え」であって、律法ではありません。4節の終わりにあるように「昔から受け継いで固く守っていることがたくさん」あったのです。旧約聖書に記されている律法は神から与えられた神の言葉ですが、この「受け継いで守っているもの」は律法を守るために人間が作った戒め、しきたりです。なぜ、それがこのように大切にされるようになったのでしょうか。人々は清さを保とうとしたときに、手はどのように洗うのが良いですか?正しい清め方はありますか?という疑問が沸き起こってくるわけです。困った時は律法学者に聞く、人々は正しい生活に生きようとして律法学者に質問をします。彼らはそれに答えなければなりません。さて、どうするかといいますと、ここまでやっておけば、神の掟には背くことにならない、そのようにして教えるわけです。つまり、律法を実践するための細則マニュアルを作ったわけです。その細かな規則が細かければ細かいほど、律法が守られ、保護され、そして自分たちはそれを守ることで自分たちは敬虔な信仰を保っていると考えました。そのようにして、さまざまな神の掟についての言い伝えが、口伝えに伝えられ引き継がれてきたのです。


■イザヤの預言

このような言い伝え、しきたりに生きる筆頭がファリサイ派の人々と律法学者です。彼らは自らの聖さを保つために、日常の汚れを排除し、そしてそのような汚れを軽蔑していました。人間のしきたり、戒めで人を裁いていたわけです。そして彼らはそのことが正しいと思っていますから、主イエスに批判をこめて尋ねたのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」さて、それを受けて主イエスは言われました。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』」イザヤ書29章13節に記されています。

あなたがたは律法を説き、教えているが、そこで教えているのは、人間の戒めであり、そして神の御心に従っているように歩んでいるが、実際は、神から心が離れているのだ、という厳しい指摘です。主イエスはファリサイ派の人々と律法学者にあなたがたは偽善者だと言われました。「偽善」という言葉はギリシア語で「役者、俳優」「役を演じる」という意味の言葉です。神に従っているようにみえるのは、それは演技であり、心の中では神に従っていない、信仰によって生きている人であると見えるように演じている、ということです。人間の言い伝えを守ることで神をあがめているような気になっているが、それはイザヤが言うように、口先で神を敬うだけであり、むなしくあがめているのだ、実際には神の掟を捨てているのだ、と主イエスは言われたのです。

一時期、「人は見た目が9割」という本が流行りましたね。人は直観的に、人の外見でいい人か悪い人かを判断するということに基づいたものでした。私たち誰もが人からどう見られるか、思われるか、ということを気にしているように思います。私たちもそのために演じるという部分が少なからずあるのでしょう。「偽善」的な要素は誰もが持っています。

この「偽善」イコール「役を演じる」というのは、仮面をつけて芝居を演じるということがその語源です。見栄えのよい仮面をつけたくなるのです。つまり、私たちは人の目に見栄えよく生きようと思うがゆえに、偽善の誘惑と闘うことになるのです。その仮面の下には、本当は正しくない顔があります。


■深刻な偽善

主イエスは偽善者の生き方を、十戒の「父と母とを敬え」を用いてお話になられました。神から遠くなっている人は、父母もまた遠いということであります。口先では神を敬い、心は離れているという矛盾した状態を明らかにするのです。自分たちの「言い伝え」を固く守り、それを利用して、神の掟をないがしろにしているというのです。モーセの十戒の第五戒は「父と母を敬え」であり、父、また母をののしる者は死刑に値する、と出エジプト記20章、21章に記されています。しかし、「言い伝え」はその大切な掟の抜け道としてまかり通っているというのです。

「コルバン」とは神への供え物であります。これは実際に神殿に備えるものではなく、神様に備えるために日常のものから分けたものです。それを11節にあるように、「もし誰かが父または母に対して、『あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です』と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ」と言われていたのです。「お父さん、あなたのために使いたいものですが、これはコルバンとして神様にお捧げするので、あなたにはあげられません。本当はあなたのために使いたいのですが、そうすると神様にお捧げするものがなくなってしまうのです。私は神第一に生きているのです。だからあなたには差し上げられないのです。」こんな馬鹿馬鹿しい話が神の名において通用していたというのです。

これは極端に誇張した例だとしても、私たち人間の一面を表している姿だと思うのです。父や母を敬う、当たり前のように言われることですが、実際には簡単なことではありません。

これは具体的な事柄です。年を取り、自力ではやっていけなくなった父母の面倒を見る。養っていかなければならない場合もあるでしょう。現代の私たちの生活を見ても、年をとった親の世話をするということは経済的にも物質的にも、そして精神的にも大変なことでしょう。平均寿命が延びて多くの人が長く生きられるようになった反面、介護をされる側だけでなく、介護する側も年老いてくる困難さ、いわゆる老々介護ということもとても身近な問題です。様々な公的な支援を用いることはそれぞれの事情に則してなされるべきでありましょう。どのような形を取ろうとも、神の戒めのまえに謙虚にあらねばなりません。父母のために心を砕くという思いと祈りがなければならないのです。


■神の戒め・人間の戒め

詩編10編4節にはこのように書かれています。口語訳でご紹介します。「悪しき者は誇り顔をして、神を求めない。/その思いに、すべて「神はない」という。」今日登場したファリサイ派や律法学者ほどではなくとも、私たちも自分たちの立てたしきたりに従うとき、神の言葉よりもそちらを大切にするということが起こりうるのです。神の戒めを守るために作った人間の戒め、しきたりはどちらも一見正しく良いもののように見えます。しかし、自分たちのしきたり、それは人間の価値観です。ですから、それは人間によって判断され、区別し、そして人を裁くのです。それは人間を高慢にし、人間が神のようになろうとするということです。神の戒めは人間が罪あるものであることを知らしめて、そして人を神の前に謙虚にするものなのです。「聖い者」は神によってされるのであり、人間自ら、聖い者になると考えること、そしてそれができると考えること、それは人間の傲慢という罪であります。


■結び

2章で主イエスは汚れていると考えられていた徴税人や罪人と食事を共にされました。「そのような人たちのためにわたしは来た」と言われました。その時もファリサイ派の人々は「どうして彼は罪人や徴税人と一緒に食事をされるのか」と非難をこめた言葉を発しています。自ら汚れを避け、そして自ら聖くなろうとする歩みにおいては許せない行為でありました。しかし、そのような自ら聖くなろうと考える歩みには人間の傲慢という罪が潜んでいます。神に目を向けず、人に目を向け、人間の戒めによって人を裁くのです。自分を裁き、隣人を裁きます。神に従っているように見えて、それは神の御心ではありません。そのような人間の罪が、最後には主イエスを十字架につけることになったのです。主イエスの十字架は、そのような私たちの罪を解放し、神の愛の内に自由に生きるために十字架へかかってくださいました。主イエスが何のために来られたのか、神の言葉が神の言葉としての権威を持つために、であることを、マルコによる福音書は繰り返し、繰り返し語ります。ここでも主イエスはそのことを明らかにされたのです。主イエスは十字架にお架かりになるためにこられました。そのためだけに来られたのです。主イエスは十字架によって、神の戒めの意味を、神の言葉の意味を、神の恵みを私たちにお示しくださったのです。主イエスがなさったこと、そして主イエスが語られたこと、すべてを私たちは謙遜をもって受け止めて、神の御前に立つために、聖書の御言葉を学び続けて参りましょう。今、私たちは主のご降誕を待つ降誕前主日の時を歩んでおります。再来週からは主がこの世に来て下さった、待降節、アドヴェントに入ります。主がこの世に来て下さったその意味を大いなる喜びと、そしてその恵みに感謝して、あらためて神の戒めに従う私たちでありたいと心から願います。


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