説教題: 『神の恵みを覚えて』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編103:1-13
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:15-23
説教日: 2025年3月16日・受難節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
5章から続いてきました主イエスが弟子たちや群衆に向けて語られた山上の教えもこの7章で終わりになります。この7章12節までで実際の教えは語り終えられて、前回の13節からは弟子たちに向けての励ましとそして弟子として歩んでくる者たちへの覚悟が語られています。ここで主イエスが語られたお言葉は、決してその場にいた者たちだけではなくて、今、こうして聖書を読み、神の民とされ、主の僕として生きる私たちに対しても語られたお言葉であると言えましょう。真の弟子、そして真の教会であり続けるためには、絶えず吟味していかなければならないことが教えられているのです。パウロの伝道によって生まれた教会、例えば、コリントやガラテヤなどでも「偽預言者」という教師たちによってその福音、教え、指導が誤ったものとなり、教会が混乱しました。それは教会の始まりから、現在に至るまで同じであります。現代の私たちの教会もいつ誤った道へと入り込んでいってしまうか、わからないという危険性を持っていると言えるでしょう。教会は主キリストの体でありますが、牧会に携わる教職者も教会員である人々も罪ある人間だからです。それゆえに人間の思いでなく、神の御心がなされる場であるように、と問つづけ祈り願うのです。そして偽預言者との戦いは、信仰に正しく生きようと思った者たちの周りに常にありました。旧約の時代、例えば預言者エレミヤも偽預言者と戦い続けた預言者でした。エレミヤ書29:8「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。彼らはわたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。」ここにこう記されていますように、ユダの人々は偽預言者たちの言葉に惑わされていたのです。なぜかといえば、それは人々に優しい、甘い言葉であったからです。前回ともに聞きました狭い門、主イエスが伴ってくださる細い道、それは見出すことが難しいとありました。どこにあるのだろう、と探しております時に、偽預言者たちは、大きな門、広い道であるこっちを通りなさい、と滅びへと誘うのです。
■警戒しなさい
主イエスは「偽預言者を警戒しなさい。」と最初で宣言されています。この「警戒する」と訳されている言葉は、意識を集中して見つめる、という意味の言葉です。きちんとチェックするということでありましょう。なぜならば、偽預言者は「羊の姿をしているけれども、実は狼である。」ということです。子供たちのよく知るグリム童話、狼と7匹の子山羊というお話、覚えておいででしょうか?お母さん山羊が森に食べ物を探しに行く間、「誰が来ても、ドアを開けてはいけませんよ」と言われ、7匹の子山羊たちは留守番をします。狼がやってきて、狼のガラガラ声で「お母さんですよ」と言ってみますが、子山羊たちはこれを見破って開けることはありませんでした。狼は声を変えて再び子山羊たちのところへ行きますが、子山羊たちは、「ドアの下から足を見せて」と言って、その足が黒かったので、狼であることを見破りました。そして、狼は足にパン屋で粉をつけて、その足を白くしてお母さん山羊になりすまし、ドアの隙間から白い足を見た子山羊たちはドアを開けてしまうのです。そして柱時計の中に隠れた末っ子山羊以外はみんな狼に食べられてしまったのでした。お腹がいっぱいになった狼が眠っている間に帰ってきたお母さん山羊は、末っ子山羊からことの顛末を聞いて、狼のお腹を裂いて子山羊たちを助け出し、代わりにお腹に石を詰め込まれた狼は目を覚まして喉が渇き、川の水を飲もうとして石の重みで川に転落して溺れ死んでしまうというお話です。まさにこのグリム童話に出てくる狼のように、偽預言者は手を変え、品を変え、まさにお母さんのふりをして近づいてくるということです。子供たちにとって一番安心する存在である母のふりをしてくる。狼が狼としてやってくるのではないということです。
■実で見分ける
さて、そのように狼が手を白くして羊のふりをしてやってくる。甘い言葉でさまざまな誘いをかけてくるのです。主イエスは16節以下でその見分け方を話しておられます。「あなたがたは、その実で彼らを見分ける。」「茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともない。」20節にも再び繰り返して「あなたがたはその実で彼らを見分ける。」と、このように言われるのです。ここに4つの植物が出てきました。茨とぶどう、あざみといちじくです。この対照をみますと、茨とあざみがダメな方で、ぶどうといちじくが良い方ということがわかります。茨とあざみ、この二つはセットで創世記3章18節に出て参ります。アダムと女が蛇に唆されて神の戒めを破り、善悪を知る木の実を食べたことが神の前に知られるところとなり、楽園から追放されるというところです。アダムの犯した罪ゆえに土が呪われるものとなり、そして生涯、土を耕し食べ物を得る苦労をしなければならない。そしてその大地には茨とあざみを生えさせる、と神は言われたのです。茨とあざみは荒地の象徴なのです。一方、ぶどうといちじくはイスラエルの民を象徴する植物です。ヨハネ15章にありますように、父なる神が愛される民のことが手入れをするぶどうの木に譬えられているのはよく知られた箇所です。つまり、荒地の茨とあざみには良い実はならないのだと。ぶどうといちじくという良い実がなっていれば、その木は良い木、本物であるから、実を見て偽物と本物を見分けなさいと言っておられます。そして21節で「主よ、主よ」と言っているだけではだめで、「天の父の御心を行う」ことが大事であると主イエスは続けておられます。天の父の御心を行うことが良い実を結ぶことであるということです。日本語訳からはわかりませんが、「実を結ぶ」の「結ぶ」と「御心を行う」の「行う」は原文では同じ言葉が使われています。ここからも、良い実を結び、神の御心を行うこと、その者たちが天の国に入るのだと主イエスは言っておられるということです。
■かの日には
ここで勘違いをしてはなりません。「主よ、主よ」と言うだけではなく、行動が伴わないと、その信仰は偽物であると言うことではありません。22節以下に書かれている人たちは、「主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか」と主の前でいうであろうと記されています。考えてみてください、私たち、主の僕に連なる者とされているわけですが、もし、私たちが神の御前に立たされたとする時、この人々のようなことを言うでしょうか。「私はあなたの名によって愛の業を行いました。この人もあの人も私の導きによって救いを得ました。正しく御言葉を語りました。隣人を愛し続けてきました。」と言うでしょうか。むしろ、逆ではないでしょうか。「主の戒めを守れず、隣人を愛せず、あなたの前で堂々と言えることは何一つありません。」と頭を垂れるしかないのではないでしょうか。偽預言者、偽物たちはそうやって堂々とキリスト者らしさを誇るのです。自らが成した何かではなく、父なる神の御心を問うたものであったか、父なる神の御心に沿った行いであったかどうか、と言うことが大切なのです。
■天の国に入る
ここまでこうして読み進めて参りますと、5章からの山上の説教、教えが全て繋がっていることがわかるのではないでしょうか。神の御心を尋ね求めることが徹底して語られてきました。自分の正しさ、自分の行いを拠り所とするのではなく、ただ神が自分を治めておられ、神が自分を養ってくださっているということ、神の導きを信じ、神の導きに自らを委ねること、このことが語られてきたのです。「神の御心を行う」ということが、さまざまな形で語られてきました。良い行いは人に見てもらうためではありません。人に見てもらいたい、人に見せるための行いというのは、自分を誇らしく思うからであります。地上の富を積み上げることというのも自分の功績を頼りにし、それを誇りに思うことでもあるわけです。また、それらの富や宝が自分のものであると思うがゆえに、地上の富に縛られ、そのことで思い煩うということにもなるのです。実はそれらのものは全て神の養いによるのであり、私たちのことを神が見てくださっておられ、全てのものは神によって与えられていることを思うとき、私たちは自分の力により頼むのではなく、ただ神の力、神の恵みを受け取ることの感謝に生きるようになります。その対極に描かれてきたのが、律法学者とファリサイ派の義です。5章20節の御言葉、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」彼らが天の国に入ることができないのはなぜか、それは自分たちの正しさ、判断基準は自分たちであって、神の御心かどうかということは基準ではないからです。今日の22節、かの日に登場する人々も確かに良い行いはしたかもしれません。しかしながら、それらは自分の功績、自分の満足のためにしたのであり、富も自分のものとして自分の豊かさのためにしたのであり、それで天の国に入れると思っているのです。神によって自分が養われていること、また与えられたもの全てが神からのものであること、神の御心にかなっているのか、ということには関心はありません。神の恵みから離れた行いなのです。
■あなたたちのことは全然知らない
主イエスはそのような人々に対して、「あなたたちのことは全然知らない。わたしから離れ去れ。」と厳しく言われます。自分の功績、自分の富に生きる者は父なる神の救いからは無縁の者たちです。罪ある私たちが父なる神と繋がるために主イエスはこの世に来られ、私たちと父なる神の橋渡しをしてくださっておられます。ですから、主イエスを介在としないで、父なる神との関係が繋がることはないのです。ガラテヤ書3:26以下にありますように、私たちは主イエスを救い主と信じる告白によって、キリスト・イエスと結ばれて、そして父なる神の子とされています。キリストに結ばれた私たちはキリストを着ているのであり、主イエスに結ばれているがゆえに、私たちは「天にまします我らの父よ」と呼ぶことが許されているのであります。ですから、主イエスと結ばれていない者たちのことは、主イエスははっきりと、きっぱりと「あなたたちのことは全然知らない」、無関係である、と言われるのです。
■結び
今日の旧約聖書、詩編103編は神の恵み、神の慈しみ、神の憐れみを詠っています。3節、「罪をことごとく赦し」とありますし、8節には「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく/とこしえに怒り続けられることもない。」「天が地を超えて高いように/慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。父がその子を憐れむように/主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」と詠われています。主の恵みを心に留めて生きよ、という勧めです。私たちはこの世においてさまざまな人と関わり、さまざまな事柄に対処しながら、生きていくわけですけれども、神の恵みと憐れみ、そして神の慈しみのもとに置かれていることを常に覚え、全ての人に対して神は愛を注いでおられるのだということを心に留めたいと思うのです。それが父なる神の子とされた私たちキリスト者の信仰の歩み、御心に適う道を尋ね求めることだからです。
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