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『神の御手を動かす力』 2023年4月23日

説教題: 『神の御手を動かす力』 聖書箇所: ヤコブの手紙 5章16節 説教日: 2023年4月23日・復活節第三主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

今日はヤコブの手紙5章16節の御言葉から聞きたいと思います。2023年度の教会標語は「互いのために祈る」といたしました。この年間標語はヤコブのこの箇所に依拠しておりますゆえ、礼拝説教として一年間親しんでいただきたいこの御言葉から聴きたいと思います。


■ヤコブの手紙

せっかくの機会ですので、「ヤコブの手紙」全体について少しお話したいと思います。ヤコブという人が書いた手紙、これがまずその名称の告げるところであります。1章1節を見ますと、この手紙の著者は、自分のことを「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と記しています。この主イエスの僕であるヤコブとは誰を指すのか?新約聖書において、ヤコブは数人登場いたします。漁師から主イエスに招かれて弟子となったゼベダイの子ヤコブ、同じく十二弟子のひとり、アルファイの子ヤコブ、主イエスの兄弟であるヤコブ、小ヤコブと呼ばれる者などであります。この中で有名なのは主の兄弟ヤコブということになりますが、この手紙の著者として特定することはできません。この手紙はギリシア語で書かれており、豊かなギリシア語の表現を持った文体であることからも、ガリラヤ出身の主の兄弟ヤコブが著者ではないのではないか、というように言われることもあります。そして3章を見ますと、「私たち教師」という言葉が出てまいりますので、著者は教会の指導者という立場にあったユダヤ人キリスト者であったということがわかります。ですから、それ以上のことは確定できないということであります。そして手紙でありますから、誰に宛てて書かれたものであるのかということも大切なのですが、それは1章1節に「離散している十二部族の人たちに」と記されておりますことから、一般的にはディアスポラ、つまり散らされている、ユダヤ人キリスト者に向けて、ということになりましょう。書かれた時代については、詳しい説明は致しませんが、パウロの主張した信仰による義の教えが誤って解釈されたことを正すために書かれた記述があることから、パウロ以降、おそらく1世紀末か2世紀初めごろに書かれたものであることがわかります。そして手紙の内容は共同体における具体的な信仰生活における勧め、キリスト者の生活における行為に強調点が置かれているものであると言えます。そしてもう一点、このヤコブの手紙は公同書簡といわれるものの一つであります。「公同の」と言いますのは、私たちが毎週、使徒信条におきまして、「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会・・・」と告白いたします時の「公同」であります。つまりは、教会がどこに行っても、同じ教会である、という教会の普遍性を表す言葉です。ですから公同書簡は特定の教会にあてて書かれたものではなく、教会全体、それはこの手紙が書かれた初期キリスト教の時代のみならず、現代の時代にあってこの手紙を受け取っている私たちの教会に送られた手紙であるともいえるのです。


■「祈り」の勧め

この手紙は「祈り」が全体を通してのテーマとなっていると言えるでしょう。祈りは個人の生活においても、教会共同体においても、重要な役割を果たすのです。疑わず、揺れ動かず神からの知恵を求めなさい、と1章にも記されているのです。さて、ここからは標語に選びました5章の後半に目を向けたいと思います。標語に選びました16節は7節からはじまる「忍耐と祈り」と小見出しのついた中に含まれております。さらに申しませば、このヤコブの手紙の最後の部分になります。当時の手紙の様式は、実践的な勧告で締め括られました。このヤコブの手紙も教会という共同体における生活に関しての勧めが記されて、結ばれているのです。教会標語は16節だけを選びましたが、13節から見てまいりましょう。

ヤコブは言います。苦難に際しても、喜びに際しても、絶えず主なる神に依り頼み、祈りなさい、という勧めです。この13節の「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」とあります御言葉は、口語訳聖書では「あなたがたの中で、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。」と訳されております。この訳の方が、直接に呼びかけられているような気がいたします。そして喜んでいる者は賛美の歌を歌いなさい、どんな時でも神に向き合いなさいとヤコブは伝えます。そしてそれに続いて病の中にある者は、教会の長老を招き、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい、と続けています。カトリック教会はこの箇所を根拠として、カトリックにおけるサクラメント、「病者の塗油」「終油」を定めていると言えるでしょう。たしかに油を塗ることは旧約の時代にも用いられた病の癒し方であります。しかし、ここでヤコブが強調していることは、油を塗ることではなく、祈ることの大切さであります。祈りこそが癒しの鍵なのです。


■「祈ってもらいなさい」

ここでは、病が取り上げられていますが、「病気の」と訳されている言葉は、ギリシア語では「弱い」という意味です。ですから、ヤコブが語っているメッセージは、単に病気だけを意味するのではなく、キリスト者が持つ内面の悩み、また、当時であればキリスト者に対する社会的な迫害など、様々な苦難を指していると言えます。ヤコブは「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」と言います。ここでは「教会の長老を招いて、祈ってもらいなさい。」と記されています。人は病や不安、苦難などに襲われる時、自分で祈る力を奪われることがあります。病気であれば、痛みや苦痛、悩みや試練であれば、不安や戸惑い、そうした時、心が騒ぎ、神の前に鎮まることができず、祈ることができなくなるのです。もちろん、私たちはそれぞれ神に祈りを捧げます。しかし、同時に、私たち人間は誰かに祈ってもらわなければならない存在であるということです。祈り合うことが信仰を支えるのです。

そもそも神は「人が独りでいるのは良くない。助ける者を造ろう。」(創世記2章18節)と言われました。人は一人ではなく、相手があり、それはさらには共同体へと広がりを見せるのです。ですから、人は神が共にいてくださる完全性の中で、神の家族として属し、キリストの名によって共に祈るように、と求められているのです。主イエスがマタイ18章20節において、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言われているとおりです。


■祈りの共同体としての教会

信仰に基づく祈り、つまり、それは祈りの共同体である教会における祈りは、病人を救い、苦しみを癒し、そして主がその人を起き上がらせてくださいます。この「起き上がる」という言葉は、主イエスによる癒しの御業、ヤイロの娘に対して、「起きなさい」と言われたのと同じ言葉です。このように主イエスは癒してくださり、起き上がらせてくださるのであります。そしてヤコブは罪も主が赦してくださる、と言います。神の救い、癒しは人を起き上がらせ、そしてそれは罪の赦しでもあるのです。主イエスが来られたのは、「丈夫な人のためではなく、病人のためであり、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と言われているとおりです。その主からいやしていただくために、「罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」とヤコブは言います。罪を告白し合い、というのは、カトリックでいうところの告解と呼ばれる聖礼典とは意味が異なります。カトリックにおける告解は、神父・司祭に罪を告白することを通して、その罪における赦しと和解が与えられます。そして神父が「あなたの罪は赦されました」と宣言するという儀式です。私たちプロテスタントでは、そのような儀式、聖礼典を持っていません。それは私たちが一人一人、それぞれが神との直接の関係を持ち、神からの直接の赦しをいただくことができると考えるからです。そのように神と自分との垂直な関係が私たちプロテスタント信仰の基本であります。ですから、それぞれの祈りの中で神に向かって罪を告白するのです。しかし、私たちキリスト者はそのような垂直な関係だけで生きるのではなく、教会員との水平の交わりの中に生きることが求められているのです。

ナチスドイツに抵抗した牧師、ボンフェッファーは「自分の罪に自分ひとりで関わる者は完全に孤立した者である。」とその著書の中で言っています。キリスト者同士の交わりにおいて、敬虔な者として交わり、罪人として交わらなかったら、それは偽りと偽善の中に自分を閉じ込めることである、というのです。「罪がないかのように自分自身を欺く必要も、兄弟を欺く必要もなく、そのような仮面は神の前では全く役に立たない。神の前に自分を隠すことはできない。神はありのままのあなたを望んでいるのだと。」それは、神との垂直な関係に加えて、兄弟姉妹との水平な関係の大切さを問題にしているのです。


■互いの魂への配慮

ヤコブの手紙の最後は以下のように締め括られています。「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ出すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになる、と知るべきです。」私たちは福音書に示される迷える羊の譬えをよく知っております。マタイでは18章に、ルカでは15章に、百匹の羊を持っている人が、そのうち一匹が迷い出てしまった時、九十九匹を山に残して、失った一匹の羊を探しに出るであろう。というものです。通常、この「羊を持っている人」というのは、羊飼い、つまり、教会においては牧会者、わたしのような立場にある者のことを指すとイメージいたします。しかし、ヤコブが語っていることはそうではありません。罪人、真理から迷った人を連れ戻すこと、それは「だれかが」と語られておりますように、決して牧師だけを示しているわけではなく、すべての兄弟姉妹たちに向けての言葉なのです。私たちは、主イエスとの密接な、深い、まっすぐな関係において、正しい者とされていますが、ひとたびそこから離れたら、真理から迷い出した罪人となり、神の御前において滅ぶべき人間であります。そこから連れ戻す、その役割が兄弟姉妹にあるのだ、とヤコブは言うのです。私たちは、主にある兄弟姉妹として、互いの救いのために配慮し合うことが命じられているのです。教会におけるさまざまな人々への働きかけ、それを「牧会」、ドイツ語では「ゼールゾルゲ」と言いますが、それは「魂への配慮」という意味を持っています。私たちは互いに魂への配慮をすることが求められているのです


■結び

祈りはそのように「互いの魂への配慮」へとつながっています。祈りは神との垂直関係の祈りだけでなく、兄弟姉妹との水平関係の祈りでもあります。そのような祈りは、神の御手を動かし、そして御心がこの地においてなり、そして私たちは、その大きな力をみせていただくことになるのです。教会はそのように共に祈る、その交わりの場であります。ご高齢や感染症対策のために、病のために、直接に集うことは叶わなくとも、この教会に連なる兄弟姉妹として共に祈り合うことはできるのです。なんでもないことのように思えて、実はそれはとても重要なことであります。その場がこのように与えられていることに感謝し、心を合わせて互いのために祈る時、神はその御手をのばし、必ずやお働きくださるのです。今年度2023年はこの箇所を常に心に留めて、互いのために祈りあう群れでありたいと願います。

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