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『神の家族への招き』 2022年8月14日

説教題:『神の家族への招き』

聖書箇所:マルコによる福音書 3章31節~35節

説教日:2022年8月14日 聖霊降臨節第十一主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

前回お話しいたしましたように、今日の御言葉は、本来は、その前の20節からと繋がっております。主イエスと弟子たちはシモンペトロの家、姑たちがもてなしてくれる定宿にお戻りになりました。しかし、休息をとるどころか、群衆がまた集まってきて食事をする暇もなかったほどでした。食事をする暇もない、と訳されていますが、原文から正確に訳しますと、パンを食べる暇もない、となります。忙しいさまを表わす表現としては、パンを食べる、立ったままパンをかじる暇もないという方がリアルに伝わってくるような気がいたします。さて、そのように群衆が押し寄せていました。病や悪霊に憑かれて人々が主イエスの癒しを求めてやってきていたのです。そこに主イエスの身内、つまり、母マリア、そして主イエスの弟たち、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、そして妹までも一緒でしょうか、やってきたことが21節に書かれておりました。「気が変になっている」という噂はナザレまで聞こえていました。それを聞いた身内の者たちは、心配になって様子を見に来た、などと悠長なものではありません。「取り押さえにきた」のです。30歳になって、家を飛び出し、伝道の活動をするようになった息子・兄イエスのことを、彼らも「おかしくなった」と思い、止めさせて家に連れ帰ろうと思い、母マリアを先頭に一族でやってきたのです。


■イエスの誕生

マルコ福音書においては、主イエスはそのはじめから、神によって遣わされた者として登場して、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われ、伝道する救い主として記されています。すでにお読みしてきた1章です。マタイやルカ福音書においては、主イエスが人の子としてお生まれになり、ヨセフとマリアの長男として家族とともに、少年時代から青年時代までをナザレで父ヨセフから大工仕事を教わりながら過ごされたことが記されていますが、マルコ福音書は主イエスの子ども時代からのつながりを読み取れる箇所はあまりありません。この箇所はそのような人間イエスを描いている数少ない箇所と言えるでしょう。


■母は外に立つ

さて、31節を見てみましょう。「イエスの母と兄弟たちが来て、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」とあります。この箇所で特徴的なのは、「外に立ち」です。ここに身内でありながら彼らが持っていた距離感が示されています。シモンとアンデレの家は群衆で一杯になっていました。主イエスは家の中におられ、その周りには大勢の人たちが座って話を聞いていました。外までも群衆がいっぱいでした。主イエスの母と兄弟たちにとって、この群衆はどのような存在であったかを考えてみます。彼らにとって、群衆は、主イエスを取り囲んで、家族から隔てて、家族から遠い存在にしていく迷惑な者たちでした。ですから、家族たちは主イエスを群衆の中から、救出してその煩わしい関係を断ちきって、連れ戻したいと考えたのです。ですから、人を遣わして、主イエスを呼び出します。

本来、離れていた家族が久しぶりに再会したのであれば、駆け寄って、抱き寄せて、喜びに沸くものです。しかし、ここでは「母と兄弟」は外に立つ。最も近い存在が離れているのです。距離を置いた、遠い存在になり、外に立ち、そして中に入ろうとはしないのです。この姿勢にはっきりと、彼らの強く、そして固い、頑なさが見えます。肉親として近い者たちが自ら離れて遠くに立ち、その姿勢を変えずに、自分からは近づかずに、人を介して呼ぶのです。


■「気が変になっている」

身内の者たちは、「気が変になっている」と聞いて、息子・兄イエスを取り押さえにきたわけですが、この「気が変になっている」という言葉のもともとの意味は、実は「外に立つ」というものなのです。自分自身の外に立つ、本来の自分ではない、別の自分になっている、と言う意味で「外に立つ」という言葉は、「気が変になっている」という意味を持っているのです。マルコはここで大きな問いを発しています。つまり、気が変になっているのは、果たして誰か?という問いです。先週の箇所で言えば、悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれ、自分の言葉を失い、悪霊の命じるままに行動する、それが気が変になるということです。そのことが起こっているのは、主イエスなのか、それとも主イエスの神の御業を認めず、主イエスの働きを止めさせようとしている身内の者たちか、という問いです。外に立つ身内の者たち、まさに彼らは、実際に外に立っています、そして、本来の自分たちではなくなっているのではないか、悪霊に支配されているのはないか、とマルコは言いたいのです。


■主イエスの周りに座る人々

「外に立つ」母と兄弟に対して、主イエスの周りに座る人々がいます。この座るというのは、当時のユダヤ人にとって教えを聴く者が、ラビ<教師>の周りに座って聞く姿を示しています。ルカ福音書の10章に有名なマリアとマルタの話があります。姉のマルタが主イエスのおもてなしのために台所でせわしなく働いて、妹のマリアは「手伝ってくれない」と主イエスに文句を言うのです。妹マリアは静かに主イエスの足元に座り、その話に聞き入っていました。主イエスは「妹マリアは、なくてはならないものを選んでいる。」と言われました。主の弟子として、主の教えを聴くことに集中している、その事を意味しているのです。このように主イエスを囲んでいる者たちにとって、主イエスは師であり、主イエスと座る人々との間には師と弟子という生きた関係が成立しているのです。

外に立つ、周りに座る、この簡単な記述が主イエスとの関わりの大きな違いを示しています。

主イエスが座っている人々に教えを話されている中、身内の者たちからの伝言が告げられます。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹が外であなたを捜しておられます。」


■主イエスの母、兄弟

その声に対して、主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」とお答えになりました。とても厳しく突き放したお答えです、拒絶の言葉であります。母マリアを筆頭とする身内の者たちは、もちろん主イエスを愛していました。愛しているからこそ、そばに連れ戻したいと思ったのです。身内だからこその行動でありました。しかし、この時、彼らは血縁の愛情で人間イエスを見ていました。マリアにとって「イエス」はわが子。自分の子どもとして見ていました。「わが主イエス」とは呼べませんでした、そのように受け入れることはできなかったのです。兄弟たちも同じです。「わが兄イエス」とは呼べても、「わが主」とは思えなかったのです。ですから、外に立ち、そこから中にははいれなかったのです。そのように「外に立つ」者に、主イエスは厳しい言葉で「自分とは関係がない」と言われるのです。そしてそれに続く34節で周りに座っている人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、私の兄弟がいる。」と言われました。周りに座っている人々、それは主イエスの癒しを求めてやってきた様々な人々でした。病を持った人、汚れた霊に取りつかれている人、自分の願いのためにやってきた人々です。しかし、主イエスはそのような人々をご自分の家族と言われたのです。主イエスは「見なさい。」と私たちにも語りかけておられます。教会に集う私たちは、主にある兄弟姉妹と言われます。血縁的な家族ではありません。しかし、主イエスはご自身の周りに座っている者たちを、わたしの母、わたしの兄弟、と呼んでくださるのです。主イエスの周りに座り、その御言葉に耳を傾ける者たち、そのような者たちを家族としてくださいます。詩編の詩人は歌います。133編です。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」主イエスによる交わりの恵みに目を向けるよう、主イエスは言われるのです。


■神の御心を行う人

続く35節で、主イエスは「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言われました。御心を行う人、と聞くと、私たちは何か立派な行いをする人と考えてしまいがちですが、そうではありません。ここで主イエスが兄弟、姉妹、そして母、と呼んだ人々は、ただただ、主イエスの御言葉に聞くために、周りに座っていたということです。じっと座って、主イエスの御言葉に耳を傾けていました。特別に神さまや人々に仕える行いをしていたわけではないのです。そのように座っていた人々の中には、使徒として選ばれた12人の誰かもいたことでしょう。しかし彼らも少し前にお話したように、何かの功績によって選ばれたのではありませんでした。ただただ神の選びによるものでありました。その十二使徒ですら、肝心な時に主イエスを裏切り、離れて行ったのでした。この場に集まっていた者たちも、ただ主の癒しを求めて来た者たちがたくさんいたことでしょう。全員が主イエスに従った者たちではなかったのです。こうして主イエスから兄弟、姉妹、そして母、と呼んでもらった主イエスの周りに座している者たち、そして私たち、誰もが「神の御心を行っている」とは言えないのです。今、こうして主イエスの周りに座してみ言葉に耳を傾けていても、ずっと主イエスに従っていきますと断言することなど私たちにはできません。この場で主イエスの周りに座っていた人々が、主イエスのことなど忘れたかのように離れて行ったように、私たちも試練にあうとたちまち主が共にいてくださることを忘れてしまう存在なのです。主イエスの母マリアは、天使によって主イエスを与えられたことを告げられた時、「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように。」と申しました。ルカ福音書の1章の主イエスの誕生が予告されるところです。そのように信仰を告白した、私たちのお手本とも言うべき母マリアでさえ、主イエスの神の救いの御業を、気が変になったと思い、取り押さえにきたのです。いとも簡単に外に立つ者になったのです。


■結び

外に立っている者。中に座る者。中に座る者がいとも簡単に外に立つ者になる。それが私たち人間の現実です。私たちは弱く、そして脆く、ふらふらと行ったり来たりする存在だからです。努力や頑張りで中に座り続けることはできません。では、何に目を向けたらよいのでしょうか。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」と主イエスはおっしゃいました。ただ、そこにいた人々、実際にはすぐに立ち去ったかもしれない人々、座っていながらも外に立つ者になる人々に向けて言われました。ですから、主イエスのそのお言葉は、外に立つ者、中に座る者、その両方、すべての人に向けて言われたお言葉なのです。主イエスの全ての人への招きの言葉なのです。「わたしの母、私の兄弟」つまり、「私の家族になりなさい」という招きのお言葉なのです。「神の御心を行う人」とは、主イエスの御言葉を聞くことによって、私たちが造り変えられる、ということです。新しくされるということです。神の御言葉を聞くことによって、私たちは神の御心を知るように変えられるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とローマの信徒への手紙10章17節に書かれているとおりです。主イエスの十字架と復活によって、その救いの御業を実現してくださった神様の恵みの御心を知るように変えられ、自分の思いではなく、神の御心を大切にすることを、自らの中心に置くようになっていくのです。私たちは主イエスによって、そのように神の家族へ加えていただいています。その大いなる恵みを味わいつつ、信仰が養われていくよう祈り願いたいと思います。

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