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『神の子の死』 2023年11月12日

説教題: 『神の子の死』 聖書箇所: マルコによる福音書 15章33~47節 説教日: 2023年11月12日・降誕前第七主日 説教: 大石 茉莉 伝道師


今日与えられたみ言葉は、主イエスの十字架上での死、人としてこの世を歩まれた主イエスが息を引き取られ、そして、墓に納められた、その事実を告げる箇所であります。今日の聖書箇所を読みますと、その内容が極めて単純に語られているという印象を受けます。演劇やドラマで言えば、最終回のクライマックスといえましょう。観ている人が感涙にむせび泣く、そうであってもおかしくはない場面です。しかし、マルコはなんら脚色せず、むしろ淡々と、飾りなく、単純に記しているように思うのです。


■わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。」アモス書8章9節の御言葉です。旧約聖書において、暗黒は神の裁きの象徴として示されています。主イエスが午前九時に十字架にお架かりになり、そして昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続きました。マルコはここにアモスの預言の実現を見て、イスラエルに対する神の裁きを示しています。人間の罪の深さを表すように、暗闇が世界を覆ったのです。そして闇夜のようになったまま、三時間。その時間、おそらく人々は黙して語らず、闇夜の中で息をひそめるようにしていたでありましょう。主イエスを見守る人達は、主イエスの苦痛に満ちた顔を直視することができず、顔を背けながらももちろん立ち去ることはできず、ただただその場に立ち尽くすのみであったのです。この闇の時間は、実際の自然現象としてどうだったかなどと説明する必要はないでしょう。神の独り子であられる主イエスが人間の裁きによって、十字架につけられて、何時間もの苦しみの末に死を迎える、それは暗闇が世界を覆った出来事、人間の罪が闇として現れている時間なのです。

そして午後三時。主イエスは大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である、と訳が記されております。これはどういう意味でしょうか。主イエスは最後まで父なる神が助けてくれることを期待したのに、そうはならなかったという嘆きの言葉でしょうか。この言葉は、明らかに詩編22編の引用です。詩編22編はこうです。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いて下さらないのか。私の神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。/夜も、黙ることをお許しにならない。」2節、3節をお読みしました。たしかにこの詩編の詩人は神に向かって悲痛な叫びをあげていますが、この後、最後にはそのような中でも神を信頼し、神を讃えるという形で締め括られています。主イエスのこの叫びもそのようなこの詩全体の信頼や賛美をも含んでいると理解する人たちもあります。


■私たちへの裁き

主イエスが叫ばれたこの言葉、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」この言葉はどのような意味をもって私たちに迫るでしょうか。この主イエスが言われた詩編22編という詩編はイスラエルの民が救いを求める中で歌い続けてきたものでありました。そして祈りでもありました。一人の信仰者として、そして民として、この詩編を祈ってきたのです。それは救いを見失い、救いを求める人々にとって切実なものでありました。主イエスも十字架につけられてからの沈黙の中、神へ祈りを捧げ、そして神の御心を受け入れようとなさっておられたのです。主イエスがこの言葉を十字架上で叫ばれた時、それは絶望しながらもなお、神に祈っておられたということです。この詩編22編の最後は信頼や希望、賛美で締め括られ、主イエスがそのような意味でこの言葉を叫ばれたと解する人もある、と先ほど申しましたけれども、私はやはり違うように思います。もし主イエスが神を讃え、勝利と賛美の歌を残されるのであれば、他にいくらでも相応しいものがあったと思うからです。やはり主イエスは神に見捨てられるという絶望的な状況に深い痛みを覚えておられ、それゆえのこの叫びであったと思うのです。悲痛な叫びであります。神に対する揺るぎない信頼を示し続けた主イエスであるにもかかわらず、その神から捨てられたのであります。この叫びは主イエスの孤独、そして絶望を表すものでありました。しかし、この叫びは主イエスの叫び、主イエスの言葉でありますが、神が主イエスに叫びをあげさせている言葉であります。神は主イエスを裁き、主イエスを見捨てておられます。父なる神が愛する独り子である主イエスを見捨てる、それは何故か。それは罪人の代表者として、私たち人間、私たち罪人に向けられる神の裁きを主イエスがおひとりでその身に引き受けになったからです。私たちの罪の清算を、神は私たちの代わりに愛する独り子に背負わせるとお決めになったからです。主イエスは神の子、神であられます。神の子である主イエスが、人間の罪、汚れ、醜さ、それらをすべて一手にお引き受けくださって、十字架上で死なれました。本来、神から裁かれるのは、私たち人間であったのです。神から見捨てられるのは私たち人間でありました。主イエスは神、神の子でありながら、人として、私たち人間と同じ姿になってくださった、それゆえに、私たちが神に背き、神から離れるという罪を犯した時、どのように厳しく神から裁かれるのか、ということを主イエスはお一人でその身に受けとめ、耐えておられるのです。


■極みを経験された主イエス

私たち自身も人生において、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたくなるようなことに直面することがあるでしょう。例えば病気であるとか、事故に遭うというようなこともそのように嘆きたくなるかもしれません。また、家族の死ということも大きな痛みを覚え、こんなはずではなかった、というように思うこともあるでしょう。また、だれからも理解されず、自分は孤独であると感じることもあるでしょう。そして悲しみから、嘆きへ、時には誰かを責めたり、自分の人生を呪いたくなるようなことすらあるでしょう。私たちは弱い存在なのです。そのような苦しみの中にある時、「わたしがあなたと共にいる」そのように言ってくださるのが主イエスです。主イエスは十字架において、私たちが経験する苦しみを遥かに超えたどん底に降りて苦しみを経験されたのです。そのように私たちと共にいてくださる主イエスは、私たちの孤独、私たちの苦しみ、を最も深いところで受け止められたのです。私たちがこの生を生きていく中で、そのような経験をするとき、その時に初めて私たちは、主イエスが十字架上で父なる神に向かって叫ばれたその言葉が自分のものになります。主イエスが父なる神への信頼の言葉ではなく、嘆き、絶望の言葉を残されたのか、そのことがわかるのだと思うのです。罪に支配されたこの現実、絶望、闇、私たちがそのような中にある時、それの極みを主イエスが体験し、痛みを覚え、そしてその絶望の中で死んでいかれた、それゆえに、主イエスがわたしたちの救い主であるのです。

そして絶望の中にあっても、「わが神、わが神」と呼びかけられました。確かにこの言葉は、絶望の言葉でありながらも、父なる神との関係、一対一の関係がここに示されているのです。父なる神との関係は失われることはありませんでした。絶望の中にあっても、呼びかけることのできるお方がいる、それはこうして主イエスが示して下さった私たちにも与えられている関係、そして希望なのです。

主イエスの十字架は逆説的ともいえる出来事であります。つまり、絶望であり、希望。

呪いであり、祝福。裁きであり、救い。終わりであり、始まりであるのです。


■息を引き取られた主イエス

主イエスの悲痛な叫びも、ユダヤ人たちには新たな嘲りの対象になりました。主イエスが神に呼びかけるお言葉を、エリヤを呼んでいる、と取ったのです。終わりの日、新たな救い主が来られる時、エリヤが来ると言われておりましたから、人々は主イエスが本当に救い主であれば、エリヤが来るかもしれない、と面白半分に見ていたのです。エリヤが主イエスを降ろしに来るかどうか、それまでこの「ユダヤ人の王」を生かしておこうとして、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、つまり、気付け薬として飲ませようとしました。しかし、主イエスはそれを拒否されて、そして「大声を出して息を引き取られた」とマルコは記しています。マルコは大声で何を叫ばれたか、は記しておりませんけれども、ルカによれば、「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」ヨハネによれば「成し遂げられた」であります。この「成し遂げられた」別の聖書訳によれば「完了した」です。この短い言葉は、借金が支払われた時などに、その借用書に「支払い済み」とスタンプが押される、その言葉であります。つまり、主イエスの死によって、私たちの罪の清算がなされた、ということがこうしてはっきりと示されているのです。


■主イエスの死と共に起こったこと

主イエスが息を引き取られた時に、まず起こったことは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と38節に記されています。数か月前の月報にエルサレム神殿について巻頭言でお書きしましたが、その見取り図などを見ていただいてもお分かりになるように、エルサレム神殿は幾重にも仕切られていました。そしてその一番奥に、大祭司が年に一度だけ入ることができる至聖所とよばれるところがあり、その入り口には幕がありました。その幕が上から下まで裂けたというのです。これは極めて象徴的な出来事です。つまり、神殿に対する根本的な否定であり、律法主義に生きる祭司、律法学者たちへの裁きでもありました。そしてまた、当時のエルサレム神殿では、至聖所を中心にしてユダヤ人男子の場所、ユダヤ人女子の場所、異邦人のための場所、というように神に近づくための制約がありました。しかし、幕が裂け、壁は取り除かれて、だれでも等しく、直接に神に至る道が開かれたともいえるのです。

もう一つの出来事は、百人隊長についてです。主イエスの方を向いて、そばに立っていた百人隊長が言いました「本当に、この人は神の子だった。」この人はユダヤ人ではなく、ローマ軍の隊長であります。16節に「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。」とありました。この百人隊長もこの中にいたはずであります。主イエスに茨の冠をかぶらせ、棒でたたき、唾を吐きかけるという暴行、侮辱を加えたときもおそらくその中にいたか、一緒に見ていた人であったでありましょう。そしてまた主イエスの十字架のお苦しみの一部始終を傍で見ていた人でもありました。百人隊長の「本当に、この人は神の子だった。」という言葉は信仰告白のことばであります。主イエスの十字架上の叫び、それは誰かを呪う叫びではなく、神への祈りでありました。百人隊長は神は生きておられる、ということを悟り、そしてこの言葉を語ったのでありました。


■アリマタヤのヨセフ

主イエスが午前九時に十字架につけられ、6時間後の午後三時に息を引き取られたその日は安息日の前日でありました。日没によって安息日となります。主イエスの死を見守っていたマグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、サロメ、他の婦人たち、女性たちだけでは主イエスの遺体をどうしたらよいか、途方に暮れていた時、最高法院の議員であるアリマタヤ出身のヨセフが現れました。十字架刑という当時もっとも重く、呪われた死に方をした犯罪人の遺体を引き取る、それはとても勇気のいることでありました。ましてやこのヨセフは主イエスの弟子でも、身内でもないのです。それにもかかわらず、ヨセフはピラトに申し出ます。十字架刑は死に至るまでに長い時間を要します。ですからピラトは主イエスが本当にもう死んだのか、そんなに早く死んだのか、と驚き、そのことを確認しています。そしてヨセフに下げ渡しました。このアリマタヤ出身のヨセフ、この人は聖書において、この主イエスを埋葬した人、としてだけ出てまいります。彼は神の国を待ち望んでいた人でありました。そして、ただ期待する、待ち望むというだけでなく、本来主イエスに従う弟子のやるべきこと、を行う人として生きているのです。ここに主イエスの福音の希望に生きる姿が示されております。そうして確実に「死」を迎えた主イエスは、亜麻布でくるまれ、墓の中に納められ、大きな石で封印されました。当時のユダヤ教の埋葬の風習に則った手順を踏んだ、と主イエスの死が現実であったことが、どの福音書にも強調して記されているのです。こうして11章から始まった主イエスの受難物語が閉じられたのです。


■結び

神はこうして愛する独り子を十字架につけました。我々人間の罪の清算のための裁きをそのような形で行われました。愛する独り子を見捨てられました。しかし、イザヤ書54章7節、8節にはこう書かれております。「わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが/とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと/あなたを贖う主は言われる。」主イエスが神の裁きを引き受けてくださったがゆえに、怒り、裁きの時は終わりました。もはや私たちに向けられるのは、とこしえの慈しみなのです。どん底の十字架を、絶望の叫びを主イエスが味わい、そのお姿を残して下さったからこそ、私たちは自分たちがどんな絶望にあろうとも、もっと深い絶望の底から支えてくださる主イエスが共にいてくださることに希望を持ち、神の愛の内を歩むことが許されていることを知るのです。日々、主イエスの十字架を仰ぎ、自分の十字架を背負って、主イエスに従って歩みたいと切に願います。

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