『神の子どもたちの自由』 2026年3月22日
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説教題: 『神の子どもたちの自由』
聖書箇所: 旧約聖書 出エジプト記30章11-16節
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書17:22-27
説教日: 2026年3月22日・受難節第5主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日の始まりは主イエスご自身による2回目の受難予告の箇所です。ご自身による受難予告は3回、第1回目は16章21節以下にありました。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」このときというのは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」という信仰の告白をした、それに続いて語られたものでありました。そして第3回目は20章17節以下、この後、いよいよ都エルサレムにお入りになって殺されてしまうというその最後の段階になるときに語られます。場所を見ますと、16章13節以下のペトロの信仰告白の場所は、フィリポ・カイサリア地方、つまり、聖書巻末地図6でみてお分かりになるように、ガリラヤ湖の北の方、ヨルダン川源流の地域です。そして第2回目はガリラヤ。ここは主イエスが伝道を始められた場所、ホームグラウンドです。そして第3回は20章17節にありますように、「イエスはエルサレムへ上って行く途中」でなされます。このように、3回の受難予告はフィリポ・カイサリア、ガリラヤ、エルサレムへの途上、と次第に南にくだりながら、つまり、エルサレムへと近づきながら、語られていくのです。
■集結の時
さて、この第2回目というのはどのようなときで、どのような意味を持っているのでしょうか。そのあたりから見てみたいと思います。17章22節は、「一行がガリラヤに集まったとき」となっています。今日の箇所22節において主イエスと弟子たち一行はガリラヤに「集まった」のであります。この表現は少し不思議に感じる言い方です。「集める」と訳されている言葉は、団結するとか、集結する、というような意味の言葉です。普通に「戻ってきた時」と言っても良さそうですけれども、そうではないのです。ここから読み取りたいことは、つまり、主イエスと弟子たちはただガリラヤ地方に戻ってきたというのではなくて、この後の旅路、つまり、このガリラヤを通って南下し、最終地エルサレムを目指す旅の始まりとしてきちんと意識されているということです。そして主イエスが伝道活動をなさってきたカファルナウムを中心とするこのガリラヤで主イエスのお姿をもう見ることはない、その最後の時なのです。その弟子たちが集結したガリラヤで、主イエスは2度目の受難予告をなさいます。
■人々の手に渡されて
「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」主イエスはこのように言われました。この第2回目で初めて使われているのが「引き渡される」という言葉です。ここでは「人々の手に」引き渡されると言われ、3回目の受難予告では、「祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。」と語られます。ユダヤ人の指導者である祭司長、長老、律法学者たちに引き渡され、彼らによってローマ帝国総督ピラトに引き渡され、そして十字架刑による死刑を宣告して執行人に引き渡す、これが主イエスの十字架の受難の経緯です。しかし、この「引き渡す」という言葉は、単にこれらの人間の行為を表す言葉ではないのです。隠された主語があります。それは神です。主イエスの父なる神が独り子である主イエスを十字架の死に引き渡したということが語られています。神は私たち人間の救いのために、愛する独り子を十字架の苦しみの死に引き渡されたのです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とある通りです。「引き渡す」というのは主イエスの受難のシンボルとも言える言葉なのです。23節の「そして殺されるが、三日目に復活する。」とありますのも、「父なる神によって殺されるが、三日目に父なる神によってよみがえらされる。」と主イエスはお語りになったのです。これが神の御心です。ですから、こうしてこの伝道の原点であるガリラヤに集結し、「私たちは今、ここに集結した。神の御心に従うため、人間の救い主となるための歩みが今、始まる。」主イエスはこの場所で、このように言われたということなのです。弟子たちの反応も1回目とは異なっています。「非常に悲しんだ。」一度目にはペトロが「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」と諌め、主イエスからは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と弟子の覚悟を表す大切なお言葉が語られました。第1回目にはそのようなやりとりがありましたけれども、第2回目となるこのガリラヤでは、主イエスがすべての弟子たちと集まり、そして再び、ご自分の苦しみと死を予告された。そのことは彼らを緊張させ、不安と恐れをも与えました。「悲しんだ」と訳されている言葉は、重苦しい状態になるとか、不安にさせるという意味の言葉です。主イエスのために悲しんだというよりも、自分たちのこの先に不安と恐れを感じたということでありましょう。何も言葉を発することなく、ただ、彼らの緊張、不安、恐れだけが伝わってきます。
■神殿税
そのような緊張感を漂わせながら、一行はカファルナウムまで来ました。カファルナウムというのは、すでに何度も出てきている場所で、主イエスの伝道の拠点、ペトロの家もありましたから、そこに帰ってきたということでしょう。するとそこに、神殿税を集める者たちがきて、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか。」と言ってきました。神殿税とは、ユダヤ人成人男子が年に一度、神殿に納める税金。それは出エジプト記30章11節以下の「登録が済んだ者はすべて、銀半シェケルを主への献納物として支払う」という規定によるものです。旧約の時代の額が半シェケル、新約時代の額は2ドラクメであったようです。1ドラクメは1デナリオン、1デナリオンは当時の1日の賃金ですので、年に一度、2日分の賃金を神殿のために捧げるということが神の民イスラエルという共同体に属しているしるしであり、神への義務とされていたということです。30章15節に「豊かな者がそれ以上支払うことも、貧しい者がそれ以下支払うことも禁じる。」とありますように、皆が平等に支払い、そしてその「お金は臨在の幕屋のために用いる」、つまり神殿の修理のために使われると用途も明確に定められています。それがイスラエルという共同体に属し、神からの祝福を受けるしるしでもあったということです。ですから、それを納めないということは、イスラエル共同体の外、救いの外に置かれるというほどに意味を持つものであったのです。ユダヤ人にとってはエルサレム神殿こそが、神の民であることの証明であり、神殿税を納めるということは当たり前、当然の義務であったのです。そのような背景の元、神殿税の集金人がペトロのところにやってきて、「あなたがたの先生は神殿税を納めないのか。」と尋ねました。この表現からはどうも否定の問いです。疑いが感じられます。ここまでにすでに神殿の中心人物であるファリサイ派との対立が示されていました。ですから、この集金人たちもペトロの師であるイエスという先生は、納める気はないんじゃないか、と疑ってかかっているわけです。ペトロは「納めます」と答えます。元の言葉を見ますと、ただ「はい」とだけ言っています。そして注目しなければならないのは、彼らが求められている神殿税は主イエスに対するものであるということです。そして主イエスが納めるかどうか、を問われているわけですが、ペトロは主イエスに確認するわけでもなく、一言はい、と言っています。先生である主イエスは家の中におられます。さて、そのように答えたペトロが家の中に入ると、主イエスの方から、先手を打って、次のような譬えを語られました。「シモン、あなたはどう思うか。世間に王たちがいる。王たちは税金や貢物を集めて、それで政治を行うが、自分の子ども、王子からは税金を取るのか。」ペトロは「いや、そんなことはありません。ほかの人々からです。」と答えました。自分の子どもから税金をとりあげる親はいません。王のためにお金を捧げなければならないのは、他の人たち、つまり国民だけです。そうすると主イエスは「では、子どもたちは納めなくてよいわけだ。」と言われました。主イエスはこの譬えを通して、まことの王である神に対して、神の独り子である主イエスは税を納めなくてよい、ということをまず語られました。しかし、それだけではないのです。子どもではなく、「子どもたち」となっています。税金や貢物を納めなくてよいのは、神の子どもである主イエスお一人ではなく、神の子どもとされた者たちすべて、です。ですから、主イエスと共にいたペトロをはじめとする弟子たち、そして今、こうして弟子とされている私たち全てです。協会共同訳聖書には、この「納めなくてもよいわけだ。」という言葉の直訳として「では、子どもたちは自由だ。」と記されています。つまり、納めても、納めなくとも自由である、と主イエスは言われたのです。私たちもキリスト者としての務め、例えば日曜日に教会に行く、献金をする、何かの奉仕をする、というようなことはありますけれども、それらは義務ではなく、神の恵みに対する応答であり、喜びのうちになされるのです。神は私たちが税を納めたから、義務を果たしたから愛してくださっているのではなく、無条件に愛し、養い、守ってくださるのです。さらに言えば、子どもたちの分の支払いは、主イエスがご自身で全て支払ってくださいました。弟子たちはそのことを後で知ることになります。そして私たちはすでにそのことを知っております。主イエスの十字架です。それゆえに、私たちは、その最大の支払いに対して感謝を込めて、自らの持てるものをお捧げするのです。
■つまずかせないために
今日の最後の箇所27節は、主イエスのユーモアに満ちていると感じます。実際には支払う必要はない、しかし、彼らをつまずかせないようにしよう、と言われるのです。信仰を与えられた者たちは自由でありますけれども、自由に任せて、誰かを躓かせるようなら無理をしてはいけない、とパウロも1コリント8章の食べ物のことで示しています。本当は何を食べても構わないのだけれども、自分が食べることで周りの人がつまずいて、まことの神に近づくことを妨げるのであれば控えなさい。神から与えられた自由をそのように用いてはならない、という箇所です。本当の自由とは神に愛されている者として、人のために自分の自由を用いることです。主イエスはペトロに「ガリラヤ湖で釣り針を垂れなさい」と言われました。主イエスの受難予告による不安、恐れ、そして神殿税取り立て人からの詰問に、すっかり緊張していたペトロでしたが、慣れ親しんだガリラヤ湖で釣り針を垂れるというその行為は穏やかな日常を取り戻せることでした。そして最初に釣れた一匹の魚の口の中に銀貨一枚が見つかる。一人分の神殿税は銀半シェケル。銀貨一枚は二人分。わたしとあなたの分として納めなさい、主イエスはそのようにしてペトロの分も払ってくださいました。「わたしとあなたの分として」という主イエスの言葉にも、主イエスの愛が満ち満ちています。ペトロにとって、さて、どうしよう、と頭を悩ますような事柄もたった一匹の魚によって神は解決してくださる、そのことがこうして示されたのです。
■結び
そして父なる神が愛する独り子である主イエスを十字架につけられ、主イエスはすべての者たちのための支払いを済ませてくださいました。そして神はその主イエスを甦りをさせてくださった、それゆえに私たちは滅びからも罪からも解放されて自由が与えられました。主イエスはまことの王としての自由を持ちながら、その自由をご自分のためではなく、私たちのために用いてくださいました。私たちはその主イエスによって自由が与えられたのです。キリストにあって自由にされた者として、生きるにも死ぬにもイエス・キリストのものとされた者として、与えられた自由を愛のために用いることができるよう、祈り続けたいと思います。
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