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『神の国の住人』 2023年4月2日

説教題: 『神の国の住人』 聖書箇所: マルコによる福音書 10章13~16節 説教日: 2023年4月2日・受難節第六主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

2023年度に入りました。そしてイースター前の受難節第6主日を迎えました。主イエスのご受難を覚えるこの時、主の御業、御言葉、教えを深く覚える日々でありますように。

私たちは2022年度からマルコによる福音書の始まりから御言葉に聴いております。マルコ福音書は16章ですから3分の2のところまで進んで参りました。エルサレムに入られる直前の弟子たちへの教え、今日はその2つ目の問答から聴きます。

「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」

「主イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れてきた。」今日の御言葉はこう書かれております。当時、ラビつまり律法の教師や預言者のところに子供を連れて行って、頭などに手を置いてもらい祝福してもらう、これは一般的なことでありました。ここは10章1節に書かれておりましたユダヤ地方とヨルダン川の向こう側、ペレアでの出来事でありましょうか。この地に住む親たちが子どもたちの祝福を求めて、主イエスのもとに子供たちを連れてきたのです。子供たちが健やかに成長するように、という願いは今も昔も、そしてどこでも変わりません。親たちの自然な思いです。


■弟子たちの思い

しかし、弟子たちはこの親たちを叱り、追い返そうとしました。なぜでしょうか。ここでも少し前の場面から振り返る必要があります。すでに何度かお話しいたしましたが、8章27節からこのマルコ福音書は第三幕に入り、主イエスご自身でご自分の死と復活を予告され、ホームグラウンドのガリラヤを離れ、その足は真っ直ぐに最終目的地であるエルサレム目指し、その目もしっかりとエルサレムを、エルサレムでの十字架を見つめておられます。この10章はその途上での出来事であり、主イエスは弟子たちへの最後の訓練、指導、というおつもりで弟子たちに接しておられました。主イエスが語られるご自身の受難について、弟子たちはきちんと理解してはいませんでしたが、主イエスの緊迫した様子はわかっていました。そのような主イエスを煩わせないように、と思ったのでありましょう。子供たちは、主イエスがお忙しいとか、お疲れであるとか、そんなことはお構いなしに、主イエスにまとわりつくでありましょうし、また、以前にもお話しいたしましたが、「子供の出る幕ではない」という言葉に使われますように、大切な場面においては邪魔な存在とみられていたのです。ですから弟子たちは、主イエスに対する配慮から、主イエスを守ろうとして人々を叱り追い返そうとしたのです。


■主イエスの「憤り」

しかし、そんな弟子たちに向かって、主イエスはどうされたかと言いますと、14節です。「イエスはこれを見て憤り」とあります。弟子たちに向かって「憤った」と記されています。主イエスが「叱る」のではなく、「憤った」のです。「叱る」というのは、理性的な判断によって間違いを正し、厳しく注意する、という意味合いですが、「憤る」というのは、抑えられない怒りがこみ上げて腹を立てるという感情的な意味を含む言葉です。主イエスはもちろん、弟子たちを「叱る」ことはありましたが、主イエスの感情の表現として「憤る」という言葉が使われているのはこの箇所だけであります。それだけ主イエスは弟子たちに対して、激しい怒りの感情を示されたのです。そして言われました。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。」


■一番近い者

主イエスは続けて言われました。「神の国はこのような者たちのものである。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」ましてや、15節のはじめには「はっきり言っておく。」と主イエスが居ずまいを正し、大切なことを話す時に使われる言葉があります。子供を妨げるな、そして子供のように受け入れる者でなければならない、と主イエスは言っておられます。さて、これを言われた弟子たちはどのように思ったでしょうか。またそう言われるまでどのように思っていたのでしょうか。彼らは弟子たちである自分たちが主イエスに一番近いと思っていました。実際に彼らは家族も仕事も捨てて、主イエスにお従いしてきたのです。主イエスから直接に教えを聞き、そして主イエスから十二弟子として選ばれ、権能も授けていただいたのです。主イエスを中心とする輪のまわりには、まず自分たちがいて、そしてその外側に子供の祝福を求めて集まってきた親たち、そして更にその外側に連れて来られた子供たちがいる、弟子たちはそのように考えていました。ですから、主イエスとの距離は自分たちが一番近い、その距離の近い、遠い、それはすなわち、神の国との距離であるともいえます。実際に主イエスの近くにいて、そして神の国にも近いと彼らの心の中にはそのようなイメージが出来上がっていたに違いないのです。ですから、「子供たちをわたしのところに来させなさい。あなたがたはそれを妨げてはならない。」と主イエスが言われた時、その彼らが心に描いていた順序、主イエスを中心とする順序は覆されました。そして「神の国はこのような者たちのものである。」という言葉によってそれは決定的となりました。弟子たちは自分たちが一番神の国に近いと思っていて、子供たちは周辺の一番遠くにいる者たちであると思っていたにもかかわらず、主イエスはそれを真っ向から否定された。主イエスが「神の国はこのような者たちのものである。」と言われた時、彼らは自分たちの立ち位置について初めて考えたのであります。


■子供たちへの祝福

そして主イエスはそれを行為で示されました。子供たちを抱き上げて、手を置いて祝福された。聖書はそう記しています。「抱き上げた」とありますのは、そこへ連れて来られた子供たち一人一人を抱き上げたのでありましょう。周りに子供たちを集めて、祝福の言葉を言われたのではなく、子供たち一人一人を抱き上げて、そして子供たち一人一人の頭に手を置いて、祝福されたのです。おそらく時間のかかることであったでしょう。そしてまた、連れてきた親たちもそこまでのことは期待していなかったかもしれません。しかし主イエスは丁寧に子供たちを祝福し、神の国はまさにそのような子供たちのものであり、子供たちのように神の国を受け入れることによってのみ、神の国の住人になることができるのだとお示しになるための行為でありました。そのことを周りにいる人々に、そして何よりも弟子たちにお示しになるためのものであったのです。


■「子供のように」受け入れる

それではここで言われている「子供のように」神の国を受け入れるとはどういう意味で、どうあればよいのでしょうか。「子供のように神の国を受け入れる」「神の国はこのような者たちのものである」というお言葉は、神の国、神の恵みはこのようにして与えられる、ということをお示しになったお言葉です。神の国に入る、その恵みに与るためには、何かの資格や条件が必要ということではありません。また、子供のように純真で無邪気な者が神の国に入れるということでもありません。神の国、神の恵みは神様からの贈り物なのです。ただただ喜んでいただく、そのことだけであります。子供は贈物をもらっても、お返しなどを考えたりしません。それをくれた理由も考えません。ただもらえるものを喜んで受け取る。しかし大人になると、というか、大半の大人は、この贈物をもらったら、どんなお返しをしなければならないか、とか、これを私にくれる理由は何だろうか、などと考えるのです。神の国に入る、神の恵みをいただく、神が愛してくださる、それらはすべて同義語です。子供は親が愛してくれることを疑いません。贈物をくれることに理由は求めません。しかし大人は理由がないと受け取らないのです。

ここで使われている「受け入れる」という言葉は、受動的な意味であります。つまり、与えられたものをただ受ける、という意味です。子供たちは自分の意志で主イエスのもとに来たのではなく、祝福を求めているのでもなく、神の国を信じているわけでもありません。ただ親に連れて来られるままに来て、主イエスの祝福をいただけるなら受ける、そのような受動的な存在です。自分は祝福を受けるに値するこのようなことをしています、このようなものを持っています、これだけの奉仕をしています、日本的に言えばこれだけのお賽銭を入れました、これだけの功徳を積んできました、だから祝福をお願いしますというような交換条件のようなことを子供は全く考えていません。そのような主張はすることができず、ただ喜んでいただくのみなのです。


■神の国の祝福に与る「資格」

神の国の住人となるには、資格は必要ありません。条件もありません。それはただただ神の愛、神の憐れみによって迎え入れられます。主イエスを通して与えられるその恵み、それをただ受け取るだけなのです。そこには順番も、理由も、理屈もいりません。ここで主イエスが弟子たちに対して憤られたのは、弟子たちが自分たちにはその資格があり、やってきた親たちにはその資格はなく、それゆえにそれらの親たち、子供たちを追い返す権利があると考えた、そのことなのです。弟子たちが神の国の祝福に与ることができるのも、弟子たちが立派な奉仕をしているからでも、何か特別な能力が認められたからでも、すべてを投げ打ってきたからでもありません。主イエスが招き、その招きに応答した、ただそのことのみなのです。神の国の住人となるのは、私たちの中の相応しさは何もなく、日本基督教団信仰告白の中にありますように、「神は恵みを持て我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう。」ただ神の選びとそれに応答する信仰告白なのです。申命記7章6節以下にはこうあります。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、(中略)あなたは知らなければならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方はご自分を愛し、その戒めを守るものには千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれる・・・」と続いています。イスラエルの民は神から選ばれて、そして主の聖なる民、宝の民とされました。そしてその神の選びは、主イエスによって私たち異邦人にまで及ぶものとなっているのです。


■結び

主イエスに一番近いと自負していた弟子たちは、主イエスが十字架にかかられる前の晩、主イエスを見捨てて逃げ去りました。ペトロも三度も主イエスとの関係を否定しました。そうして彼らの思いはこの時に砕かれました。そうして彼らがおそらく気づいたであろうことは、自分たちは主の弟子としてふさわしいものではなかった、一番近いどころか、一番遠い周辺の者たちであった。ですからその子供たちを退けることは、自分たち自身を退けることであったのだ。主イエスの憤りはそれゆえであったのだ、ということです。主イエスはひとりひとり抱き上げて祝福されたこどもたちと弟子たちとを重ねて、そのお姿を弟子たちに示されたのです。一番遠い所から一番近いところに呼び寄せた子供たちの姿、それこそがまさに弟子たちであったのです。主イエスが子どもたちを慈しむそのお姿を、弟子たちはあとになって、主イエスの自分たちへの慈しみ、愛であったのだと知ることとなりました。主イエスの祝福は、弟子たちにこそ、注がれていました。そのことを知った弟子たちは、再び、立ち上がり、そして人々を神の国の住人へと招く者へと用いられていったのであります。感謝と喜びの歩みであります。


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