説教題:『神の国のしるし』
聖書箇所:マルコによる福音書 4章26節~34節
説教日:2022年9月4日・聖霊降臨節第十四主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
この4章は「種を蒔く人」のたとえで始まっていました。そして前回は、「ともし灯」のたとえ、そして、今日が再び、「種」シリーズの後半戦、「成長する種」と「からし種」のたとえです。主イエスはたとえを用いて、何についてお話になったのでしょうか、それは「種を蒔く人」も、「ともし灯」も、神の国についてのお話である、と申し上げました。
そして、今日の箇所も同じように、神の国についてのたとえであります。主イエスご自身が26節でそのように言われています。「また、イエスは言われた。」とあるように、繰り返し、神の国について話されているのです。そして今日の箇所ではわかりやすく、主イエスご自身が、「神の国は次のようなものである。」と、「神の国を以下のようにたとえるよ、」とお話が始まるのです。
■夜から始まる
主イエスは言われました。「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」ここでちょっと面白いことに気がつかされます。夜昼、と書かれているのです。昼夜ではなく、夜昼。私たちの感覚では、朝昼晩、つまり朝から始まって、夜で終わる。そうでありますから、夜昼というのは、「あれっ」と思わされます。ユダヤの安息日のことを以前お話したかと思いますが、ユダヤの安息日は金曜日の日没から始まります。つまり夜が始まりなのです。ここで夜昼と書かれている表現は、ユダヤの人々の生活に則しています。
実は私はここ根津での生活が始まりましてから、朝、根津神社でラジオ体操をしています。ラジオ体操の歌から始まります。「新しい朝が来た 希望の朝だ」とみんなで歌います。誰も何の違和感もありません。私たちにとっては、どうひっくり返っても朝から始まる。その感覚を変えるというのは難しいように思います。ですから私たちは朝から始まって、一日活動し、そして一日が暮れると床に入って眠る。それが私たちに染み付いた生活習慣です。しかし、ユダヤの人たちは昔から、日没から新しい日が始まる。眠ることから一日が始まるのです。闇が始まりであったことは創世記第1章にも書かれています。闇の中に、神が言われます「光あれ。」こうして昼が造られました。神の創造の御業は夜から始まっているのです。夜、私たちが眠りについているときに、知らない間に、種は芽を出して成長していきます。神の創造のみ業です。
■成長のプロセス
そのように神の御業は私たちの目に見えないところで働き、動き続けます。「土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず、茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」主イエスはそのように続けられました。種の成長にとってはその通りのプロセスです。このたとえのどこが、そしてなにが神の国なのでしょうか。このたとえの出発点、「種が蒔かれる」それは種が土に蒔かれるということですから、これは目に見えることです。そして最終形も、豊かな実りでありますから、これも目に見えることです。しかし、その成長のプロセスは多くの場合、ゆっくりとしており、どうして成長するのか、私たちにはその理由はわからず、知らないうちに大きくなっています。この根津教会にもの中庭にもかなり様々な植物があります。つつじ、アジサイ、ブラッシュツリー、レモン、オリーブ、ヒマラヤスギ、君子蘭、バジル、カモミール、ドクダミ、などなど数えきれません。それぞれに成長する時期があり、花の咲く時期があり、実のなる時期があります。私たちは、そのそれぞれの成長する時期がどうして定められているのか、はわかりません。植物の成長、それは命が育まれることです。植物でも動物でも生命には神秘的なものを感じずにはいられません。新しい命の誕生では、誰もがその神秘さに感動することでしょう。それら、命を左右することは人間の領域ではなく、神の領域です。神の尊厳の一端に触れるのです。神の国はそのようなものである、と主イエスは言われるのです。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われた主イエスの第一声から神の国は着実に前進しています。しかし、私たちの目には見えないのです。当時の人々も神の支配が見えないと感じ、そしてメシアを待望していたのです。そのような人々に向かって、主イエスは神の支配について、このたとえを使われました。
■福音の種蒔き
マルコはこのたとえから、福音を宣べ伝えることの大切さを語っています。地に蒔かれた種が芽を出し、成長し、そして豊かな実を結ぶように、神の国も世界に大きな実を結ぶようになるということです。土に蒔いた種は、それぞれの命のプロセスによって芽を出す時期も違い、成長の速度も違います。それらをずっとじっと目を凝らして見続けている人はいません。大地に委ね、安心して眠り、そしてまた起きる。やがて、茎が延びて穂を出し、そして豊かな実りとなります。私たちは水やりはできても、それを育てたもうのは神様なのです。神の国は、そして神の言葉は、それぞれの深いところに染み入り、やがて芽を出す、それは神の尊厳に触れることであり、神自らが営まれる神秘の世界なのです。私たちにできることは、ただただ、それぞれに神の国の到来を信じて待ち、そして神の福音を宣べ伝えていくことだけなのです。
■極小の種でも
主イエスは神の国について、別の言い方でお話になられました。それでもまた、種を用いてお話になったのです。「からし種のようなものである」と言われました。からし種というのは日本ではあまりなじみのない植物ですけれども、主イエスがどのようなものなのか、を詳しく語ってくださっています。種は地上では一番小さく、実際に1ミリもないほどの大きさのようです。そして蒔いて成長すると野菜よりも大きくなり、その葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようになる、それはぐんぐんと伸びて、高さは5メートルほどにもなるそうなのです。そして横にも同じように広がるのでしょう。鳥が巣を作り、卵を産むほどに葉は生い茂ってまさに緑豊かな安定した木となるというのです。神の国についてのたとえですから、何を語っているのかと言えば、先のたとえはいのちの神秘、生命の謎でありましたが、このからし種のたとえは成長の大きさがポイントです。目に見えないほどの小さな始まり。神の国もその始まりは気づかないほど小さくとも、驚くほど大きなものとして表れるのだということが言いたいのです。主イエスの活動によって始まった神の国宣教、主イエスの言葉を聞いて信じた者たちはほんの少数でも、神の国は芽を出して成長し始めているのです。それが最後には大きな完成を見るのです。
■「たとえ」で話される理由
さて、主イエスはなぜこのようなたとえをお話になられたのでしょうか。この4章では種のたとえが三つ、そしてともし灯のたとえ、いずれも「神の国」についてのたとえであると申しました。主イエスがこの世にいらして下さったのは私たちを神の国に招くため、わたしたちが神の国に生きる者となるためです。主イエスの伝道の活動が神の国をもたらすためであるのですから、だとしたら、神の国の実現のために私はこういうことをしています、というように、主イエスの伝道活動、なさったことをお話されてもよかったのです。選挙活動のように「私はこれをします、わたしならこれができます。これが証拠です。」と言ってもよかったのです。たとえば、病を何千人癒しましたとか、どこそこの集会所で何回話をしてどれだけの人が集まったとか、主イエスのお働きを目に見えるものとして語ることもできたのです。しかし、主イエスはそうはなさいませんでした。なぜかといえば、神の国のご支配はそのような形で目に見えるものではないからです。見えないものを、見えるものになぞらえる、それがたとえです。そのようにして主イエスは私たちに伝えようとなさいました。「見えないもの」が「ない」のではなく、「見えないもの」が「ある」ということを伝えるためなのです。
■神の国のしるし
神の国は、小さな種。その種は言葉として到来しました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」という主イエスのお言葉で始まった神の国の支配、そのはじまりは、とても小さなものでありました。しかし、主イエスが十字架にかかられ、そして復活された後、弟子たちの働きによって神の国は形となり始めました。教会が形成されたのです。形となった教会の道のりは決して平坦なものではありませんでした。むしろ、困難を極めたと言ってもよいでしょう。初期の教会は迫害と抵抗に晒されていました。それは主イエスご自身が活動されていた時にも激しい敵意を抱く人々がいたのと同様です。しかし、それでも蒔かれた種には成長して、実を結ぶ力があるのです。神の国の完成は神のご計画。その時には私たち人間がどのような抵抗をしようとも、それを打ち破って、収穫の時となれば豊かな実りをもたらすのです。
私たちが毎週、信仰を告白している使徒信条を思い出してください。「我は聖なる公同の教会を信ず」と告白しています。聖なる公同の教会とはなんでしょうか。そして教会を信じる、とは何でしょうか。神を信じる、父なる神を信じる、キリストを信じる、我らの主を信じる、聖霊を信じる、私たちはそのように申します。そして教会を信じる。「信じる」それは私のような教会の担任教師として遣わされている人を信じるとか、教会の運営に携わっている役員、それらの人たちを信用する、信頼する、ということではなく、それはたとえ、誰も信用できなくなったとしても、この教会を選んでおられる神様を信頼する、究極的にはそこにたどり着くのではないでしょうか。ですから、目に見える人やモノではないのです、私たちが「信じる」ものは目には見えない。
それでもここには神の国があると信じている、それが私たちの信仰であります。ここ、教会では、神の言葉が語られ、聞かれる場所である、私たちはそのように信じているのです。ですから、教会は「神の国」そのものではないかもしれませんが、少なくとも神の国の「目印」「標識」そして「きっかけ」にはなるのです。種はそのようにして蒔かれて、私たちの気づかないうちに目を出すのです。教会はそのようにして、2千年の種蒔きを繰り返してきました。
■結び
今、ここにこうして教会の中に身を置いている方々、この説教を聴いている方々、なぜ教会に足を踏み入れることになったのでしょうか。なぜ聴くことになったのでしょうか。だれかに誘われた、それもあるでしょう。偶然教会を通りかかった、それもあるでしょう。それはたまたま、とか、偶然に、とか自然に、とか、私たちはそのように言うかもしれません。しかし、それは主イエスが私たちの目に見えないところで、ずっとずっと種を蒔き続けていてくださっているからです。「あなた」にも一粒の種が蒔かれ、それが芽を出す、そして教会につながる。それは決して偶然ではありません。主イエスによる種まきの結果、神の国の実現のための御業なのです。私たち、ひとりひとりが、すでに神の国のしるしなのです。私たち一人一人の働きは小さくとも、神に仕え、神の国の完成のために関わらせていただいている、そのような私たちは幸いであります。私たちがいかに神の御心に反する者であっても、私たちがいかに罪を犯し続ける者であっても、神の慈しみは変わらず、私たちに注がれる恵みは変わらないのです。創世記8章22節にはこうあります。「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも/寒さも暑さも、夏も冬も/昼も夜も、やむことはない。」神の御業はとこしえであります。
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