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『神の呼びかけに応えて生きる』2026年1月18日

  • NEDU Church
  • 1月19日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『神の呼びかけに応えて生きる』

聖書箇所: 旧約聖書 エレミヤ書1:4-10

聖書箇所: 新約聖書 マルコによる福音書1:14-20

説教日: 2026年1月18日・降誕節第4主日

説教:大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日、私たちに与えられました聖書箇所は、今お読みいただきました通り、エレミヤ書の1章、預言者エレミヤの召命、そしてマルコ福音書1章、主イエスによる漁師たちの召命の記事です。エレミヤもそして弟子となった漁師たちも、いずれも彼らが神を探し当てたのではありませんでした。神が彼ら、人を見つけ、そして声をかけられ、召命を与えて、歩む道へと押し出されるのです。エレミヤ書では若き青年エレミヤが神の呼びかけに対して、恐れつつも預言者として立つ姿が描かれていました。そしてガリラヤ湖では呼び掛けられた四人の漁師が主イエスの呼びかけに従う姿が描かれています。時代も状況も違っていますけれども、共通していることは、「神が声をかけられ、そしてその言葉に従う者たちがいる」ということです。この神の呼びかけに応えるということは3千年前も、2千年前も、そして今の私たちにとっても同じこと、信仰の始まりということです。今も響く神の呼びかけです。今日、私たちは「神の召しとは何か」「聴いた者はどのように応えるのか」ということをこの御言葉から聴きたいと思います。

 

■エレミヤの「とき」

マルコは今日の始まり14節・15節でこう記しています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた。」ヨハネは正しい人で神の道を正しく示したために、権力者ヘロデ・アグリッパに捕らえられました。不条理な出来事であり、そしてそれは人間の罪深さを表しています。しかし、そのような闇を神はそのままにしておくことはありません。暗闇を切り裂くように光が与えられたのです。それが主イエスの宣教でありました。「時が満ちる」、という言葉は、「完全である」という意味を含む言葉です。ですから、神の救いのご計画の準備が完全に整った、その時、であることを示しているのです。「悔い改める」とは、我々の生き方の軸を神の方に向けるということです。根本的な変革なのです。「神の国は近づいた」それは、神から近づいてきてくださったということです。神があなたを招いている、だから神に心を向けなさい。神が与えてくださる道を歩みなさい。神の恵みを信頼しなさい。主イエスはそのように人々を招いておられます。若きエレミヤに主が声をかけられたのも神のご計画の「時が満ちた」からでありました。青年エレミヤに主はこう言っておられます。5節、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」エレミヤの存在そのものが神のご計画なのです。しかし、エレミヤは神の召しに応えられるとは思えませんでした。ただの若者なのです、力もありません。ことばも知りません。そのように神の召しを拒もうとします。しかし、神は言われるのです。「恐れるな。わたしがあなたと共にいる。」神はエレミヤの弱さを十分に知っておられます。弱くともその弱さを支えるのはわたしだ、と言っておられます。あなたを支えるのはあなた自身ではなく、このわたしである、神はこう語られるのです。これはエレミヤに限らないことです。私たちも同じようなことを経験し、そして同じように戸惑い、ためらいます。しかし、私たちの能力や力、その持てるものを根拠として神は召しておられるのではなく、神ご自身の力、神ご自身の導きによって私たちそれぞれを召しておられるのです。

 

■ガリラヤ湖畔の召し

ガリラヤ湖のほとりで主イエスがシモンとその兄弟アンデレに目を留められて、そして声をかけられたのも同じです。「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう。」彼らは特別な人間ではなく、むしろ普通の暮らしをしている漁師です。多くの人の前で話したこともないのです。ただ毎日、ガリラヤ湖に舟を出し、魚を捕ってそれを売る。そのあとは網の手入れをする。家族と共に食事を摂り、あすの漁に備える。そのような生活を繰り返してきたのです。彼らは宗教家でもなく、普通の人々でした。そのような者たちに主イエスは「わたしについてきなさい。」と言われました。この言葉はとても大きな意味を持つ言葉なのです。神の召しの本質は、特別に整えられた人を探して声をおかけになるのではなく、現実の中に生きるそのままの姿の人をご覧になって招かれるのです。私たちも何か特別な能力を持っているから招かれたのではなく、普通に生活し、そしてむしろ苦しみや悲しみの中にあって、自分の無力さを感じている時に招かれたのではないでしょうか。「主に従う」これは主イエスの弟子となるという基本の言葉です。私たちのキリスト者としての生活も、全て主に従う、このことを土台として成り立っています。主イエスは彼らに「人間をとる漁師にしよう。」と言われました。この先、神の救いの御業を人々に伝え、救いへと導くという新しい働きへと招かれたのです。神の救いは彼らのもつ能力によるのではなく、神の持つ力によってあなたがたを新しい存在へと造り変える、主イエスはそのように言われたのです。私たちも主イエスに従い、主イエスを救い主と告白するものは洗礼を受けます。その時、私たちは古い自分は死んで、新たな存在となります。自分の目には何も変化はなくとも、私たちは変えられているのです。コリントの信徒への手紙2 5章17節に「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とある通りです。神の呼びかけは変革を伴っているのです。

そしてシモンとアンデレは「すぐに網を捨てて」従いました。その次に弟子となったヤコブとヨハネも「父ゼベダイと雇い人たちを残して」従いました。この主イエスの呼びかけ、2組の応答、というやり取りの中に「すぐに」という言葉がいずれも使われています。神の呼びかけに応えるという信仰の始まりがダイナミックに示されています。彼らはこの先のことを理解していたわけではありません。主イエスが自分に与えようとしている使命も、またその先の苦難も見えていませんでした。しかし、彼らは、ためらうことなく、主イエスの声に心が動かされたのです。そして「従おう」と決断しました。神の召しに従うということは、計算して、理解して、ではなく、突き動かされるように、その方を信頼する、ということです。

 

■すぐに網を捨てて

弟子となったこの漁師たち四人はこうして「すぐに」主イエスに従いました。自分の大事なものを捨てて、また家族を残して従ったのです。私たちはこれを読みますと、不思議に思うのではないでしょうか。そんなにすぐに従えるものだろうか。大事なものを捨てる、また家族を別れる、自分にはできない、そのように思うのではないでしょうか。どうしてそのように主イエスを信頼することができたのだろうか・・・ついていったらどうなるのか、何を保証してくれるのか、弟子となった漁師たちは一切そのようなことを確認していません。また、ついていくにしても、あれこれ準備して、整えて、というようなことも言っていません。これが主からの招き、召命に応答する献身ということです。自分自身をお捧げして、委ねることです。どうしてそのようなことができるのでしょうか?この世を生きる私たちが何か新しいことを始める時、さまざまな状況を見極めて、大丈夫なのかを確認し、自分の意志も何度も問い直して、判断するのではないでしょうか?進むか、止めるか。自分たちに当てはめて考えてみて、それは極めて当然のことと言えましょう。今日の説教の最初にも申し上げましたけれども、この召命、献身、ということに関して、漁師たち、また預言者エレミヤ、つまり私たちの側から求めたのではないということです。もしも私たちの側から神を求めたのであれば、それは条件をつけるのです。私たち人間側からの条件、つまり、先を見通せるか、また、安全か、答えを得られるか、保障されるか、それらの項目をあげればキリがありません。しかし、たとえ自分が数えうる限りの条件を全て満たしたとしても、どれひとつとして絶対的なものはないのではないでしょうか。私たちがどんなに条件を整えたとしても、明日の歩み、明日の命が保障されるということはありません。もし彼らが自分から従うべき導き手を探し求めていたとしたら、その中で主イエスと出会ったとしたら、きっとこんなふうにすぐに一切を捨てて従っていくことはできなかったでしょう。彼らが主体であったならば、自分たちが考える条件をひとつひとつ確認しなければならないからです。しかし神はこのように予期しない形で出会ってくださるのです。神が求めてくださる、神が呼んでくださるのです。「わたしがあなたと共にいる。」「わたしについてきなさい。」そのように呼びかけてくださり、その声を聞き、そのまなざしに出会ったとき、それは私たちが考える人間的な条件を覆す、それを超えるものであるということがわかるのです。私たちの絶対的な安心というのは、この世界を造り、そして私たちを造り、私たちに命を与えて、そしてこの世に起こる全てのことを支配して、導いておられる神を信じ、その方にお委ねするということによって得られるのではないでしょうか。

 

■結び

エレミヤも弟子となった漁師たちもいずれも自ら求めて神に近づいたわけではありませんでした。神が先に働きかけて、そして彼らを見つけ、呼び、そして言葉を与えられたのです。それは私たちも同じです。私たち自身が神を求めて、教会へ足を運んだとしても、その前に見えざる神の働きがあるのです。エレミヤも漁師たちも、日常の生活の中で神に出会ったのです。私たちにも同じように、特別な日にではなく、日々の暮らしの中で神が出会ってくださるのです。そして私たちを通して、私たちを用いて、神の働きは広まっていきます。エレミヤが「語る言葉を知りません」と言ったように、私たちもそんな大層なことはできません、と言いたくなるかもしれませんが、私たちも弱いからこそ、神が働いてくださるのではないでしょうか。私たちを強い者にしてから用いられるのではなく、神に召されて強くされていくのではないかと思うのです。

私自身、神様からの召しを受けた時、シモンとアンデレのように「すぐに」従うことはできませんでした。けれども、祈りのうちに、神の召しはどんどん大きくなって、それ以外のことは全て後回しになっていきました。そのような「時」を経る、それは日本語としては「すぐに」ではないように思いますけれども、神の時が満ちるという意味では完全な「時」がきたのだと思うのです。神が召してくださって、何かの働きに用いようとなさっておられることに、喜びを感じるようになり、立ち上がって、というより、神に立ち上がらせていただいて、今に至ります。

私たちすべての者たちが、同じように神の働きに参与する者として、神に従う者として、時に誰かを励まし、誰かを慰め、そして神の言葉を伝える器として召されているのです。「わたしについてきなさい。」「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」この神の言葉に支えられて、私たちは神の召しに応える勇気を持つことができるのです。私たちは自分の力ではなく、神の導きと神の力によって生かされて、そして遣わされていきます。日々の生活の中で、神の御声を聴き、神の呼びかけを聴きとりたいと思います。そしてその招きに応えて、このわたしを神にお委ねして、お捧げしていきたいと思います。私たちのどんな小さな働きも神はその御業のために用いてくださるのです。その恵みを喜び、主に信頼し、感謝を持って歩みたいと思います。

 
 
 

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