『味わい、見よ、主の恵み深さを』 2026年1月4日
- NEDU Church
- 11 分前
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説教題: 『味わい、見よ、主の恵み深さを』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編34:1―11
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書14:13-21
説教日: 2026年1月4日・降誕節第2主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
主の年2026年が始まりました。皆様それぞれに今年はどんな年にしたいとか、こうありたいという願いがあることでありましょう。2025年度もあと3ヶ月となりましたが、今年度の教会標語は「祈りと御言葉に生かされる」です。年の始めにあたり、改めてこの祈りと御言葉に生かされるということをじっくりと思いたいと思います。日々、慌ただしく過ごす中で、短い時間でも良いので、一人で祈りの時を持つ、聖書の御言葉に聴く、それを日常の習慣の中に定着させるように試みてくださいますようにと願います。私たちのすべてが神によって備えられ、すべてが神によって与えられているのですから、神への感謝と神への賛美をお捧げし、ますます御言葉によって満たされたいと思います。さて今日、与えられた聖書はマタイ14章13節以下、皆さんよくご存知の五千人の給食と言われる箇所です。
■死から命の御業へ
今日与えられた御言葉は、まさに神の恵みによって私たちが満たされるということが示されております。ここに示された奇跡は、単にすごいことが起きたということではありません。詩編34編11節に「主に求める人には良いものの欠けるところがない」と記されている神の約束が、主イエスによって具体的に目の前に示されたということなのです。この五千人に食べ物を与えるという奇跡はどのようにして始まったのか、といえば、13節「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、独り寂しいところに退かれた。」と始まっています。主イエスは何を聞かれたのかといえば、それは14章1節以下に記されている洗礼者ヨハネの死でありました。ヨハネの死の知らせを聞いた主イエスは、悲しみ、痛みをもって一人で父なる神の前に祈りを捧げられたのです。独り寂しいところ、それは荒れ地のようなところだったかもしれません。荒れ野というのは、神が最も深く語られる場所なのです。そしてそのような死の出来事の後に記される命の出来事、これが神の救いの御業なのです。洗礼者ヨハネの死と五千人の給食の記事は共観福音書、つまりマタイ、マルコ、ルカのどれもが続けて示されていますけれども、マタイが一番、死と命への転換を意図して記しているように思います。主イエスがお独りで退かれましたが、群衆がついてきました。命の源である主イエスを求めてきたのです。彼らは病を抱え、飢えており、そして癒しを求めていました。主イエスに希望を見出していたのです。主イエスはそのような人々を深く憐れまれて、病気を癒やされました。たとえ悲しみの中にあっても、人々の悲しみ、痛み、苦しみに寄り添われた主イエスが示されています。これが神の心が示されています、神は慈しみと憐れみの神であられます。「憐れむ」という言葉は、内臓が苦しむほどの深い痛みを覚える、という意味の言葉です。主イエスは常に私たちの痛み、苦しみをご自分の痛みとして受け取ってくださるお方なのです。今日の旧約聖書詩編は34編の11節までといたしましたけれども、その少し後18節、19節にはこう記されています。「主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」私たちは自分に元気がなければ、なかなか人に優しくできませんけれども、主イエスの憐れみは、悲しみの中、苦しみの中で小さくなるどころか、ますます豊かに溢れ出るのです。
■足りないもの
そうして夕方になりました。夕暮れです、弟子たちが主イエスに言います。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」弟子たちは目の前の現実を見て、そのように言いました。彼らの心情は私たちの心情そのものです。「ここには何もない」「群衆も途方もなくたくさんいる」「それぞれに食べてもらうしかない」一番現実的な解決方法として彼らは提案したことでしょう。しかし、主イエスは言われたのです。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」そう言われましても・・・と弟子たちの戸惑う様子が目に浮かびます。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と答えます。「〜しかありません」私たちもこのように「〜が足りない」ということを訴えることがあります。時間が足りない、力が足りない、お金が足りない、能力が足りない、時に信仰が足りない、とも言うかもしれません。しかし、主イエスは言われるのです。「それをここへ持ってきなさい。」弟子たちは主イエスの言われた通りに、パン五つと魚二匹を持ってきます。そして主イエスはそれを手に取って、天を仰いで祝福の祈りを捧げられました。主イエスがなさったことはなんでしょうか。確かに、パンは五つだけという小さな量であったでしょう。魚も二匹と言うわずかな量です。しかし、主イエスがなさったことは、その小ささを神に委ねて差し出されました。父なる神を信頼し、委ねられました。そして神はその小さなものを用いてくださると信じていました。それが信仰なのです。足してくださることを求めるのではなくて、手の中にあるものに感謝し、神に委ねることなのです。詩編34編10節にありますように、「主に求める人には良いものの欠けることがない。」ということです。これは決して私たち主の元にある者たちに困難がないということではないでしょう。困難はあるでしょう。乏しさもあるでしょう。しかし、神に差し出すならば、それが神の働きの原点となるということです。神の奇跡はそこから始まります。
■主の晩餐
そして主イエスはどうなさったか。19節「そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。」これは主イエスが十字架にお架かりになる前、弟子たちと最後の食事をなさった時と同じです。マタイ26章26節「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。」この主の整えてくださった食卓は主イエスご自身を捧げてくださったその命のパン、主イエスご自身が十字架において裂かれました。パンを取り、祝福し、裂き、そして与える。私たちはその大いなる恵みを覚え、その恵みを味わうこととして聖餐式を執り行うのです。この五千人の人々を前にして行われた奇跡は、まさに十字架における主イエスの与え尽くした恵みの先取りです。主イエスが命のパンなのです。詩編の詩人も言いました。「味わい、見よ、主の恵み深さを。」主イエスから弟子たちに渡されたパン、彼らはそれを群衆に配りました。そしてどうであったのか、「人々は皆、食べて満腹した。そして余ったパン切れを集めると、十二の籠いっぱいになった。」とあります。「皆」です。そこにいたすべての者たちが満たされたのです。これが神の救いの出来事です。誰かが我慢したわけでもなく、調整して足りたのでもなく、全員が食べて満腹になって、そして残りが12の籠いっぱいになったのです。この時、主イエスと共にいた群衆たち、五千人の男性、そして女性と子どもたちを入れたならば、途方もない人数でありました。その人たちは、五つのパンと二匹の魚を通して、主の恵みの味を知りました。そしてここに示されています12の籠が何を意味しているかといえば、イスラエル十二部族です。弟子たちが何もないと言った村から離れた寂しい場所で、主イエスはすべての者たちが豊かとなる宴を開かれました。全ての者たちが、満たされる命の祝宴なのです。こうしてパンを裂き、人を養うという神の働きは今も続いているということを、この後の聖餐式で喜びと感謝を持って味わいたいと思います。
■主の祝福は溢れ出る
今も、私たちの日常の中で、私たちの生活の中で、神は同じように働かれます。私たち自身は、自分たちに与えられているものよりも、私たちの不足に目を向けて神様に言い訳を用意します。時間があれば、お金があれば、力があれば、また、信仰があれば、とさえいいます。しかし、主イエスは言われるのです。「それをここへ持ってきなさい。」こう訳されている言葉を原文に忠実に訳しますと、「それを私のところへ持ってきなさい。」です。主イエスのところに持ってくる私たちの時間、小さな献身、また弱々しい信仰、それら全てを、主イエスは受け取ってくださり、そして祝福して、裂いて、分け与えて、用いてくださるのです。神は大盤振る舞いなさるお方です。神の恵みはこれだけ、と分量が決まっていて、いる人々で慎重に配分するのではないのです。溢れ出る愛、溢れ出る恵み。必要以上に与えるお方なのです。ですから、私たちに神が求めておられるのは、完璧な用意、準備ではなく、神を信頼することだけなのです。そうして与えられる恵みを味わいなさい、と言われます。味わうというのは、神の前に鎮まり、神に心を開いて、神の働きをじっくりと受け取ることです。詩編34編5節にありますように、「わたしが主に求めれば、主は答えてくださる」のです。神は私たちの祈りを決して聞き逃したりはなさいません。そしてその祈りを聞いた神は、使いを遣わして、私たちの周りに「陣を敷いてくださり、守り助けてくださる」のです。その陣は目には見えなくとも、聖霊の働きとして私たちを守り、支え、導いてくださるということを覚えたいと思います。
■結び
この五千人の給食と呼ばれる奇跡は、ただ主イエスがすごいお方、すばらしいお方という物語ではありません。これは神の国の出来事が私たちの目に見える形になったということです。神の国は、足りなくとも、むしろ足りないところに始まり、そしてたとえ小さくとも捧げることを通して現れ、満たし、そして余りあるほどに働くのです。ですから、私たちは足りないままで、私たちの持てるものを神に感謝して心を込めて差し出したいと思うのです。そして私たちの小さな信仰を神にお委ねしたいと思います。神は間違いなく、私たちを満たしてくださいます。神は必ず、「味わい、見よ、主の恵み深さを。」と言ってくださるのですから。

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