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『真の清さ』2026年1月25日

  • NEDU Church
  • 5 日前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『真の清さ』

聖書箇所: 旧約聖書 ヨエル書2:12-17

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書15:1-20

説教日: 2026年1月25日・降誕節第5主日 

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えを破るのですか。食事の前に手を洗っていませんが。」ファリサイ派と律法学者たちが主イエスの前にやってきてこのように言いました。これは問いかけというよりは詰問です。ここで問題にされているのは衛生上の問題ではありません。宗教上の清さの問題です。なぜ食事の前に手を洗わないといけないのか、といえば、それは日常生活の中で、宗教上の規定で「汚れ」とされているものと接触する可能性があり、その汚れが自分の手や食べ物を通して自分の中に入ってしまって汚れないようにするためです。つまり、自分は清いと思っているからであり、汚れは外からやってくると考えているわけです。この「汚れ」という言葉が今日の箇所で何回も繰り返されています。この言葉はギリシア語で「コイノオー」と発音し、「共有する」という意味があります。そしてこの「コイノオー」の仲間の言葉として、教会でよく使われる「コイノーニア」という言葉があります。主イエスとの交わり、そして教会内での交わりを表す言葉です。極めて肯定的な良い意味の言葉ですが、ここでは否定的な言葉になっています。それは、ファリサイ派の人々が考えるように、罪人や異邦人と一緒に食事をしたならば、つまり共有したならば、汚れてしまう、と考えたからです。それゆえに、彼らはまずは手を洗い、清めてから仲間たちとだけ食事を共有していたのです。主イエスや弟子たちは罪人や徴税人たちと一緒に食事をしていました。ですからファリサイ派の人々にとっては主イエス、弟子たちの行動は考えられないことだったのです。

 

■昔の人の言い伝え

今日の箇所の小見出しに「昔の人の言い伝え」とありますように、当時のユダヤ教にはモーセ律法に加えて口伝律法というものがありました。つまり律法を守るための細則です。律法に従った生活をしようとする人々は、こんな時にはどうすれば良いですか、ということを指導者たちに質問します。彼らはこうすれば律法に背くことにはならない、という実践的な指導をするわけです。こうして実践マニュアルができていきました。それは律法を守るために生まれたものでしたが、だんだんとそれが神の言葉よりも重く扱われるようになっていったのです。そのことを主イエスは「自分の言い伝え」と表現しておられます。主イエスは彼らの問いに対して、問いで返されます。「なぜ、あなたがたも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」神の掟よりも自分の言い伝えを優先しているではないか、と言われました。

 

■父と母を敬え

モーセの十戒の第5の戒め「父と母を敬え」誰でもが知っている戒めです。「父と母を敬い、そして父と母を罵るものは死刑に処せられる」律法、出エジプト記の20章、21章に記されています。主イエスの言われた「自分の言い伝えで神の掟を破っている」とはどういうことを指すのかといえば、こういうことです。例えば、ある人に年老いた両親がいました。その父と母の生活ぶりを見た息子は、家にある食べ物、もしくはお金を渡せば、両親は喜ぶだろうと思いました。そのように父と母を敬いたい気持ちはあるけれども、けれども、そうすると神様への捧げ物がなくなってしまう。そのような時、どうしたら良いでしょう」と指導者に尋ねます。すると指導者は「仕方がないですね、神様優先にしなさい。」と言って、言い伝えでお墨付きをもらうのです。そうして父や母に何もしなくても済むということがまかり通っていました。彼らは自分たちの言い伝え、口伝律法を巧みに利用して、神の戒めを骨抜きにしていたのです。本来の律法の意味、父と母に対する尊敬、愛情、そして祈り、それらは全く無視されて、神の言葉は形骸化していました。主イエスが問題にされたのは、律法を守っているかどうかではなく、何を最終的な基準としているか、ということです。彼らは神を敬っているつもりで、実はただ自分たちの宗教体系を守っていただけであるということです。

 

■唇で敬い、心は遠い

主イエスは彼らをはっきりと偽善者たちと呼び、イザヤ書29章13節を引用されました。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」このイザヤの言葉は紀元前8世紀、アッシリアの脅威が迫るイスラエルにおいて、神殿礼拝は捧げられていたものの、形式上のものとなっていた時代、政治的には神よりも外交を大切にし、社会的には不正が蔓延した時、イザヤが民を糾弾した厳しい警告です。神は儀礼ではなく心からの神への信頼を持って礼拝を捧げることを求めておられます。これはかつてのイスラエルの民のみならず、今、礼拝を捧げる私たちに対する強いメッセージでもあります。私たちも毎週、こうして礼拝をお捧げしているわけですが、心を神に向ける。自分の心を神に明け渡して、神様との一対一の濃密な時間を持つということは、意識しないとなかなかできないものです。私たちの心はついつい、あちらこちらに向いてしまうのです。心が神に向いていないならば、それは「空しく崇めている」、むなしい礼拝だと主イエスは言われるのです。そしてそれは信仰者一人一人のみならず、教会そのものとして意識しておかなければならないことでしょう。礼拝は説教者をはじめとする様々な奉仕者、そして出席者全員によって捧げられるものなのです。日本基督教団信仰告白にもありますように、福音を正しく宣べ伝え、聖礼典が執り行われること、その礼拝の基本を大切に守りたいと考えています。

 

■人を汚すもの

そして主イエスは言われました。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」この時、主イエスはファリサイ派に面と向かって言うだけでなく、「群衆を呼び寄せて言われた」と10節にあります。わざわざ多くの人を呼び寄せて、そしてとても厳しい口調でお話しされました。主イエスに群衆の前で偽善者と呼ばれたファリサイ派、律法学者たちは、主イエスの言動につまずきました。かんかんになって怒っていると言う意味です。弟子たちからそのように告げられた主イエスは13節にありますように「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。」と厳しいお言葉を続けました。旧約聖書はイスラエルの民を「神に植えられた木」と表現しています。彼らは、自分たちは神に植えられた特別な存在であるから、誰も引き抜くことはできず、間違いなく成長し、実を結ぶと確信していたのです。彼らはそのような誇りを持って生きていました。主イエスはそのような彼らのプライドを打ち砕く言葉を投げつけたのでありました。主イエスは人間の罪の根っこを問題にしておられるのです。天の父がお植えにならなかった木、つまり、根元の腐った木は抜き取られるのだということです。誰が正しいかではなく、何が神から出たものであるかと言うことなのです。そして汚れとは、口から入ってきたものによるのではない、汚れは人の中にある、そしてそこから出てくるものが人を汚す、と言っておられるのです。17節に「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。」とあるのは、たとえ汚れた食べ物が入ってきたとしても、それらは必ず外に排出されるから大丈夫だと言っておられるのです。主イエスは清さ、汚れの基準を外側から内側へ転換します。さて悪いものはどこからくるのか、18節、「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。」それは心の中から、人間の内側から出るのだと言うことです。その心にはどのようなものがあるのかといえば、具体的に「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」これらが人間の心の中、内側に巣を作っているのであるのだから、外側をいくら洗い清めたとしても心が変えられない限り、人は真に清くなることはないのです。

 

■心を裂け

語られた主イエスの厳しい御言葉と重なるのが今日、与えられた旧約聖書ヨエル書2章12節以下です。「今こそ、心からわたしに立ち帰れ/断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく/お前たちの心を引き裂け。」旧約の民は悔い改めの時、衣を裂きました。しかし、神はそれだけでは足りないと言われるのです。たとえ、断食して、泣き悲しんで、衣を裂いて、灰をかぶったとしても、そのような外側だけの行為だけで悔い改めたとはいえないのだと言っておられるのです。心の向きを変えること、神に立ち帰ること、このことが求められています。しかし、ここで言われているのは厳しいだけの神ではありません。13節後半、「主は恵みに満ち、憐れみ深く/忍耐強く、慈しみに富み/くだした災いを悔いられる。」これが神のお姿です。神の本質なのです。悔い改めの根拠は私たちの行為、私たちがどれだけのことを示したかではなく、ただ神の憐れみなのです。悔い改めと言う言葉は、否定的な言葉として響くかもしれませんが、聖書における悔い改めとは、罰を避けるための反省ではなく、恵みの神に向き直ること、神のもとに立ち帰ることなのです。そのことを覚え、13節に繰り返し示される神のご性質を知るとき、私たちは恐れではなく、希望を持って神に立ち帰ることができるのです。さらにヨエルは16節においてこう告げています。「民を呼び集め、会衆を聖別し/長老を集合させよ。」つまり、老いも若きも、乳飲み子も、花婿も花嫁も、つまり全ての者たちを神の前に立たせよ。と言うことです。教会で礼拝を捧げよという神の命令なのです。教会は清い者たちの集まりではなく、悔い改め続ける者たちの群れであり、神の御前に立ち、神に立ち帰り続ける者たちなのです。悔い改めは終わりではなく、むしろ憐れみ深く、恵みに満ち溢れる神のもとに立ち帰るという新たな始まりなのです。

 

■結び

神はイスラエルの民に心を裂くことを求められました。しかし、彼らにはこのヨエルの預言、ヨエルの言葉は届きませんでした。そしてどうなったか、それは今の私たちには知らされています。主イエスご自身がお引き受けくださり、十字架上で主イエスの心が裂かれ、十字架上で主イエスの体が裂かれました。そのようにして主イエスは全ての人々の罪を清算してくださいました。旧約の民が悔い改めるべきだった罪、神のもとに立ち帰ること、それらを全て主イエスがご自身で清算してくださいました。十字架上で流された血潮によって私たちを清めてくださったのです。その後、生きる者たちは遠く離れていた神と繋がって生きるようにとしてくださいました。ですから今や、主イエスに繋がっている私たちはすでに聖なる、清い者とされています。私たちは外面を取り繕う必要はなく、ありのままで神の前に立つことがゆるされています。神の恵み、そして主イエスによって示された大いなる恵みです。清さは主イエスにあります。主イエスは私たちを造り変えてくださいました。その主イエスにつながることで清い者たちとされた私たちです。その大いなる恵みに感謝して歩みたいと思います。

 

 
 
 

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