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『恐れることはない』2026年1月11日

  • NEDU Church
  • 11 分前
  • 読了時間: 9分

説教題: 『恐れることはない』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書43:1-7

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書14:22-36

説教日: 2026年1月11日・降誕節第3主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

「それからすぐ」と今日の箇所は始まっています。つまり、前回ともに聴きました五千人以上の人々が満たされたという奇跡の出来事のすぐ後、ということです。途方もなくたくさんの人々が主イエス、弟子たちの周囲にいて、そして食べ物が与えられ、皆が満腹したという想像できない奇跡の後です。この時の弟子たちの状態、感情などは聖書には記されていません。しかし、「あなたがたが彼らに食べるものを与えなさい。」と言われた主イエスのお言葉通り、主イエスの祝福の後、配ってみたら、五千人が満腹し、さらには残ったパン屑を集めてみたら、十二人の弟子たちの持つ籠、12個がいっぱいになったのです。弟子たちは、どうなっているのか、こんなことが起こるなんて・・・と目をみはり、顔を上気させて興奮、高揚感でいっぱいであったのではないかと想像できます。そんな弟子たちを主イエスは「強いて」舟に乗せて湖の向こう岸へと渡らせました。満腹になった群衆たちもまた、驚きゆえの興奮状態で騒ぎになっていたと思われます。五千人の給食の奇跡は4つの福音書全てに記載されており、ヨハネ6章15節には、群衆が主イエスを王にするために連れて行こうとしているのを知って、山に退かれた、とあります。弟子たちも自分たちの師がすごいことをなさった、という興奮状態から群衆と共にこのお方こそ王!という雰囲気に巻き込まれてしまったのかもしれません。とにもかくにも、興奮状態の群衆から引き離し、弟子たちを強いて、舟に乗せて騒ぎから離したのです。そしてそれはこの後に示されている「嵐」、つまり信仰の養いの時でもあったのです。そして主イエスご自身はお一人で山に登られて、そして祈りの時を持たれました。当然ですが、主イエスはこの後の嵐の到来を知っておられました。むしろ、嵐さえ起こすことさえできるお方なのです。そのことをわかっていて、主イエスは弟子たちを湖へと送り出しました。神は私たちの信仰の養いのため、また、私たちへの計り知れないご計画のために、あえて嵐の中に置かれることがあるということでありましょう。

 

■逆風との闘い

弟子たちが湖へと漕ぎ出したのは何時ごろだったでしょう。夕方に食事をとり、そしてその後、すぐ、彼らは湖へ送り出されたのでした。その後、主イエスは祈りの時を持たれ、「夕方になってもただ一人そこにおられた」と23節にあることからしても、日の暮れる前に彼らは舟に乗ったのでしょう。そして彼らの舟は何スタディオンか離れたところにありました。1スタディオンが約200メートルほどですから、1キロとか1.5キロとかそのような距離でしょうか。岸から離れた湖の真ん中で強い向かい風に遭遇して、必死に漕ぐも進まずにいたのです。「波に悩まされていた」と訳されている言葉は、痛みを持った苦しみにあう、とか、拷問で苦しめられる、というような時に使われる強い言葉です。彼らは肉体的にも精神的にも苦しめられて、押しつぶされそうになっていました。彼らはこのガリラヤ湖で育った漁師たちです。天候に左右される湖の様子を身体で知っている元漁師の彼らが拷問と思うほどの強い向かい風でした。彼らは湖をよく知っているだけにもはや死をも感じ取っていたことでしょう。自分たちの頼りになる主イエスは一緒にはおられない。風は強く、そのために湖も荒れていました。戻ることはできず、前にも進まない。助けを求めても答えはない。彼らは神に祈ることも忘れ、神の存在を忘れて、ただ、無我夢中で漕ぎ続けるだけでした。私たちにも同じようなことが起こります。大変な渦に巻き込まれた時、もがきなんとかしなくてはと思います。その時、神に委ねるよりも自分でなんとか乗り切らなければ、と思うのです。しかし、実際、この時、主イエスは祈っておられました。逆風の中を行く弟子たちのために、執り成しの祈りを捧げておられたのです。主イエスは同じ舟に乗ってはおられませんでしたが、乗っているのと同じように、いえ、乗っている以上に、執り成しの祈りをもって弟子たちの歩みを支えておられたのです。聖書は、神は常に私たちを見守り、私たちのために祈っておられる、と証ししていますけれども、私たちはそのことを忘れるのです。

 

■「恐れるな。わたしだ」

そうして一晩中、弟子たちは格闘しつつ過ごしました。夜が開ける頃、主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに行かれました。主イエスは湖に向かい、嵐に向かい、そして何よりも弟子たちのところに向かって行かれたということです。弟子たちは恐れに覆われて、疲労困憊していました。そのような弟子たちは、自分たちの師である主イエスが近づいてきているのに、「幽霊だ」と言って怯えました。主イエスは救い主であられます。そのお方が近づいて来られたのに、その存在を認めることができませんでした。救いのために、癒しのために来てくださった主イエスであるのに、恐れに覆われた彼らには恐ろしく映ったのです。主イエスがその姿を現して下さり、主が共におられるという恵みを示してくださったにも関わらず、その恵みを受け取ることができず、むしろ恐れ、脅えてしまうという弟子たちの不信仰がここには描かれています。そしてそれは私たちの不信仰でもあります。私たちは極めて人間的常識に神を閉じ込めてみています。水の上を歩くことなどあり得ない、という前提を取り払うことができないのです。ですから、それを大きく超える形で共にいてくださろうとしている主イエスを、神を信じることができないのです。私たちの考える恵み、救いをはるかに超える大きな恵み、救いの御業で主イエスは共にいてくださいました。私たちは人間の思いを大きく超える神の恵みに出会う時、恐れを覚えます。それが生けるまことの神と出会うということです。そして主イエスは彼らに声をかけられました。「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」この「私だ」という言葉は、「幽霊ではない、あなたたちの知っているわたしだよ」という意味ではありません。ギリシア語では「エゴーエイミ」。「わたしはある」出エジプト3章で主なる神様がモーセにご自分のお名前を示された時の言葉です。「わたしはある。わたしはあるという者だ。」神としての存在そのものを表わす言葉です。主イエスはこう言われたのです。「私はあなたの神である。恐れの中にいるあなたの元に、その場所に私は来た。」今日のイザヤ書43章1節には「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。」とありますけれども、まさに主イエスは弟子たちにそのように言われたということです。

 

■ペトロの一歩

それを聞いたペトロは言います、「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」なんだかおかしなことを言ったかのようにも聞こえますけれども、これはとても意味のある返答です。主イエスは弟子たち、「私だ」と言われました。ペトロはそれに応答しました。ですから、「あなたでしたら」と言ったのです。神の語りかけに応答するという信仰告白です。そして「私に命令して、水の上を歩いて御もとに行かせてください。」と申しました。これもペトロ自身が特別な力を持つことを願ったのではなく、主の命令であれば、水の上を歩くことも実現すると信じるが故の言葉です。主に信頼し、主の力を信頼する信仰の告白であると言えます。そして、主イエスはそのペトロの信仰の告白に応えて、「来なさい」と命じてくださいました。ペトロは主イエスのその言葉を受けて、一心に主イエスを見つめ、舟から降りて水の上を歩き、主イエスのもとへと進んでいきました。水の上を歩いたのです。しかし、次の瞬間に、ペトロは風をみて怖くなりました。風をみました、そしてその風によって渦巻く波を見ました。主イエスを見つめていたはずが、主イエスから目を逸らし、自分の周囲の状況を見たのです。すると怖くなった、そして沈みかけたということです。主イエスを見つめ、主イエスを信頼して、主イエスがお命じになるならば、自分が水の上を歩くこともできると信じていたその時には歩けたのですが、主イエスから目を離し、自分の周囲の状況を見た時に、極めて人間的な、人が水の上など歩けるわけがないという人間的な思いにとらわれたということです。それは主への信頼から離れるということでもあり、つまり、不信仰の表れです。しかし、その時、ペトロは叫びました。「主よ、助けてください。」私たちもその信仰の歩みにおいて、しばしば主に同じように叫びます。私たちも主が共にいてくださると感じる時と、主が私から離れてしまったように感じる時があります。そうして往々にして、大変な時こそ、私たちは主を忘れてしまい、ほとんどパニックのようになって「主よ、助けてください」と叫ぶのです。そして主イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕えてくださいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」こう言われて一緒に舟に乗り込んでくださいました。そして風は静まりました。「信仰が薄い」とは直訳すると、「信仰が小さい」という言葉です。ペトロに限らず、私たちの信仰はとても小さなものです。主を近くに感じて、主にある喜びに生きていたかと思うと、翌日には主がそばに感じられなくなる、というようなおぼつかない歩みです。主イエスを信頼して歩んでいるかと思うと、自分を取り巻く状況をなんとかしなくてはと焦り、主への信頼を忘れ、主イエスから目を離してしまうのです。そして溺れそうになる。そんな小さな信仰の私たちを主イエスは見捨てては置かれません。叫びさえすれば、「すぐに」捉えてくださり、そして同じ舟に乗ってくださるのです。この時、舟の中にいた人は「本当に、あなたは神の子です。」と言ってイエスを拝んだ。と今日の最後に記されていますが、これこそが教会における礼拝です。私たちは毎週、そのように信仰の告白をしているのです。主イエスが溺れそうな私たち、信仰の小さい私たちを捉えてくださり、そして共に神を礼拝し、罪の赦しに与る、これが私たちに与えられている救いです。

 

■結び

主イエスが舟に乗り込まれた時、風は止みました。主イエスが共にいてくださるとき、そこには平安があるということです。困難な水の中も共に通り抜けてくださる。主が共にいてくださるから、大河の中でも押し流されず、火の中でも焼き滅ぼされない。主が共におられるからです。「わたしの目にあなたは価高く、尊い」神は私たち一人一人をここまで愛しておられるのです。ですから一人一人に寄り添い、共にいて平安を与えてくださるのです。逆風でも、嵐でも、どんな困難な場にあっても、神は共にいてくださり、平安を与えてくださるのです。私たちは本当に小さな信仰ゆえに、神を忘れますけれども、神は決して私たちをお忘れにはなりません。主イエスが独り山で祈りをお捧げになったように、見えないところで祈っておられ、私たちに近づいてきてくださり、そして恐れのただなかで、「恐れることはない。私だ。」と語りかけてくださいます。沈黙しているようでも、神は働いておられるのです。私たちにもペトロに言われたように、「来なさい。」と主イエスは言われます。私たちのこの地上での歩みは、時にまるで水の上を歩くかのような不安を持つことがあります。立ちすくんでしまいそうなその時にも、主イエスは言われるのです。「恐れることはない。私だ。来なさい。」この奇跡物語を、私たちは御言葉として大切に聴きたいと思います。そして困難なとき、苦しい時に、「主よ、助けてください」という叫びと共に、一心に主イエスを見つめ続けて歩むことができるようにと祈りたいと思うのであります。

 
 
 

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