top of page

『神の備えを見よ』2025年8月3日

  • NEDU Church
  • 8月4日
  • 読了時間: 10分

説教題: 『神の備えを見よ』

聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書40:3-8

聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:7-19

説教日: 2025年8月3日・聖霊降臨節第9主日

説教: 大石 茉莉 牧師

 

はじめに

今日の箇所は先週、ともに聴きました獄中のヨハネの問いに対して、主イエスがお答えになられた続きであります。ヨハネの弟子たちが帰ったあと、弟子たちや群衆に洗礼者ヨハネについて語っておられます。しかし、先ほど読んでいただいたこの箇所をお聞きになってどう思われたでしょうか。イエス様、もう少しわかりやすくお話しいただけませんでしょうか・・・と思わず言いたくなるような、そんな御言葉が続いていたのではないでしょうか。聖書の御言葉は当然ですが、当初から日本語で書かれたものではありませんから、日本語の訳が難しいという時もあります。新約聖書の原語であるギリシア語を丁寧に調べてみると、その言葉が使われている別の箇所から意味がわかることがあります。けれども元々の言葉や、状況、背景など調べてみてもすっきりしないこともあります。今日の聖書箇所は、まさにそのような手強い箇所です。前半部分は比較的理解しやすいと思いますが、だんだんと頭の中にクレスチョンマークが増えていくのではないでしょうか。主イエスのお言葉をたどりながら、御言葉を聴いてゆきたいと思います。

 

■偉大なる預言者ヨハネ

始まりの7節から11節あたりまでは、主イエスが洗礼者ヨハネについて語っておられます。洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いの荒れ野で生活していました。そして人々に悔い改めを宣べ伝えて、洗礼を授けていました。そのことはマタイ3章に記されていました。「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。」という主イエスの問いは、わざわざ草を見に行ったわけではないであろう、ということです。それに続けて、「では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か」と問いが続きます。しなやかな服とは上等な服のことです。そのような人なら王宮にいるであろうと。ヨハネの風貌はマタイ3章に記されておりましたように、「らくだの毛衣を着て、腰に革の帯を締め」であリましたから、人々はこのしなやかな服という主イエスのお言葉で、しなやかな服の対局であるらくだの毛のごわごわしたヨハネの上着を思い出したに違いありません。三つ目の問いは「では、何を見に行ったのか。預言者か」であります。この問いに対して、主イエスは「そうだ。言っておく。預言者以上の者である。」と言われました。続けてイザヤ書40章3節以下を語られました。「呼びかける声がある。/主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」今日の旧約聖書でこの箇所をお読みいただきました通り、この御言葉が洗礼者ヨハネによって実現した、と主イエスは言われました。そして11節に続きますように、「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」と洗礼者ヨハネのことを評価しておられるのです。ここまでは聖書をこのまま読んできまして、理解できるところだと思います。問題はこの後です。「しかし」と続く御言葉を読みますと、あらっ?となるのではないでしょうか。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」洗礼者ヨハネは偉大な人であった、と言われたのに、最も小さい者が彼より偉大である、と言われると大混乱です。これはどのような意味であるのかを紐解いて参りたいと思います。洗礼者ヨハネは、主イエスが救い主であるということを告げました。しかし、牢に捕らわれの後、死を迎えることになります。ですから、主イエスの十字架と復活、昇天、そして聖霊が弟子たちに送られたペンテコステの出来事も知らずに世を去りました。主イエスの救いの御業が弟子たちによって広められ、異邦人にも救いが宣べ伝えられたことも知らないのです。まるで旧約の民を率いて約束の地へ向かったモーセがその地に入ることなく死を迎え、ヨシュアに先を託したことに重なります。洗礼者ヨハネはその献身、その奉仕において偉大であったことは間違いがありません。来るべき方の働きに参加したのです。素晴らしい預言者でありました。このヨハネによって備えられ、主イエスが現れたということは新しい恵みの時が来たことを意味しています。そしてそれから後の救いに与る者たちが、天の国で最も小さい者であります。まさに私たちをも含む地の果てに至るあちらこちらで主イエスの十字架と復活による神の偉大なる恵みを知り、神の子とされて、そして天の国に招き入れられた者たち、神の素晴らしい特権に与っている者たちがあります。これらの者たちはただ、神の特別な恩恵に与っている。その点において偉大である、と主イエスは言っておられるのです。

 

■ヨハネの時

続く12節も難しい表現が続きます。「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。」とても大切なことをお語りになっておられるということはわかるのですが、それが何を意味するのかを読み取ることは至難の業です。新しい協会共同訳では「洗礼者ヨハネの時から今に至るまで、天の国は激しく攻められており、激しく攻める者がこれを奪い取っている。」となっていました。少し表現は異なりますが、いずれにしてもこれでもよくわかりません。この箇所を巡っては様々な解釈がなされて、対立するような訳し方もされてきました。つまり、天の国は襲われている、という訳と、天の国が激しく入り込んできた、とも読めるのです。いずれにしても、まずわかりますことは、洗礼者ヨハネの時、彼の活動、彼の存在が大きな転換点となっているということです。その前提の上に、私は「ヨハネの時から、天の国は激しく入り込んできた」つまり、「神ご自身がこの人間の世界に介入してこられた」ということを示していると思います。そして襲うという言葉は、誰が戦いを挑んでくるというよりも、救いに与ろうとする者たちが、真剣に手に入れようとしている、ということであろうと思います。ヨハネが活動を始めてから、天の国、神の救いが、人々のものとなり始め、天の国を獲得しようと熱心になっている者たちがいる、ということを語っていると思うのです。

ヨハネが時代の分岐点に立っているのです。そのことが13節に示されています。「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」ヨハネは旧約の伝統、預言者と律法の時代の終わりに立っています。ヨハネを境に新しい時代、救い主、主イエス・キリストの時代、旧約聖書の時代から新約聖書の時代へと変わるのです。新しく始まった神の豊かな救いの恵みとさらに永遠の命に与ろうとして、人々が熱心に求める時代になったのだと主イエスは教えておられるのです。主イエスは山上の教えの中で「求めなさい。そうすれば与えられる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。」と言われました。また、「狭い門から入りなさい。命に通じる門は狭く、その道は細い。」とも言われました。この私がきたことにより、新たな時代が始まったのだ。天の国に与れるよう、熱心に真剣に求めなさい、とすでに語っておられたのです。

 

■今の時代

神はそのようにして私たちの世界に介入してくださいました。それは何のためでしょうか。神はなぜそこまでなさるのでしょうか。それは神が人間を共に歩む者としてお造りになったからです。常に神からの語りかけをきき、安心して生きるための道を備えてくださったにも関わらず、人間はそのように生きることを拒みました。神との関わりを放棄します。それがエデンの園における蛇の誘惑に負けた人間の罪の始まりです。神はそのように背いた人間を愛し続け、そして何とかして再び人間が神と共に歩むために、とてつもなく長い時間をかけて準備なさり、私たち人間を再び天の国に招くために、備えをしてくださいました。それを実現するために備えられたのが、洗礼者ヨハネであり、そして主イエスであられます。そうして主イエスは何としても、私たちを天の御国に招き入れたいと思っておられますが、そのような神のご計画、主イエスの思いは人々になかなか理解されません。それが今日の16節、17節で主イエスが語られた御言葉です。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」「笛ふけど、踊らず」という諺がありますように、これはあれこれ誘っても相手が反応しないということです。これは当時の子供たちの遊びの中の言葉だったようです。何の遊びかといえば、結婚式ごっこ、と葬式ごっこです。婚礼の歌を歌い、笛を吹いても誰も一緒になって歌ってくれず、踊ってもくれなかった。そして葬式の歌を歌っても誰も悲しんでくれなかったということです。当時の葬式は悲しみをより強く表すために、泣く人を雇ったとも言われています。ですから、大袈裟なほどに泣くというシーンを子供たちは再現しようとしていたのかもしれません。主イエスは今の時代は、まるでこの子どもたちに似ている、と言われます。それはどのような意味であるのかと言えば、洗礼者ヨハネをも、そしてまた主イエスをも受け入れず、その教えに反応しないということです。

その後の18・19節にありますように、荒れ野で禁欲的な生活、断食をするヨハネに対して、「悪霊に取りつかれている」と言い、そして弟子となった徴税人マタイの家で食事をする主イエスに対して、大食漢で大酒呑み。罪人の仲間、というように、どちらをも批判するのです。こうして、相手が自分の思い通りの遊びをしてくれないと文句を言い合っている子どもたちのように、今の時代の者たちは、救い主の先駆けの洗礼者ヨハネも、そして救い主である主イエスをも、自分の期待とは違うと言って受け入れない、今はそのような時代なのだと言っておられるのです。

 

■ヨハネの教えと主イエスの教え

ヨハネの教えは罪を悔い改め、悔いることでありました。それは葬式に重ねられています。葬式の歌に合わせて嘆き、悲しむように、自分の罪の悔い改めを求めていました。それに対して主イエスの教えは、婚礼の祝い、喜びの時、その祝宴として示されていました。主イエスの教えと御業にはそのような神の愛、神の憐れみ、そして神の恵みが表されていました。洗礼者ヨハネの教えが間違っているわけではありません。主イエスの到来のための道備えとしての教えです。主イエスによって実現する喜びと祝いに共に与るためにヨハネの悔い改めの教えがあるのです。罪の悔い改めなしに赦しの恵みには与れないのです。「今の時代」の者たちはその両方を受け入れない、主イエスはそのことをここではっきりと語っておられます。「今の時代」それはいつでしょうか。主イエスが語られた2千年前に生きていた人々でありましょうか。2千年後を生きる私たちの今、も全く変わりはないのではないでしょうか。私たちも聖書の御言葉になかなか素直になれず、自分の都合のよいように判断し、都合の良いところだけを受け入れる、そのような者たちなのではないでしょうか。神が共に喜ぼう、悲しみも共にしよう、と言ってくださっているにも関わらず、私たちはその神の招きを拒み、神の働きかけをないものとしているのです。

 

■結び

今日の最後に主イエスは「しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される。」と言われました、神の正しさはその働きによって証明される、と言い換えることができるでしょう。つまり、主イエスのなさった御業、御言葉によって証明されるということです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」それが何よりのしるしであると主イエスは言われます。神がどのような備えをなさってくださってきたか、ヨハネを遣わし、そして救い主イエスを遣わす。そこまでして私たち人間を救いたいと願っておられる、そのことがここに描き出されています。婚礼に代表される喜びも、葬式に代表される悲しみも、私が共に担う、共に歩もう、と備え、招いてくださっているその道を、その招きに従って歩みたいと願います。

 
 
 

最新記事

すべて表示
『主イエスの嘆きの中に』2025年8月10日

説教題: 『主イエスの嘆きの中に』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:6-13 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:20-24 説教日: 2025年8月10日・聖霊降臨節第10主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

 
 
 
『来るべき方はあなたですか』2025年7月27日

説教題: 『来るべき方はあなたですか』 聖書箇所:旧約聖書 イザヤ書29:18-19(旧1106ページ) 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書11:1-6(新19ページ) 説教日: 2025年7月27日・聖霊降臨節第8主日  説教: 大石 茉莉 牧師 ■ はじめに...

 
 
 
『わたしのもとで』2025年7月20日

説教題: 『わたしのもとで』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書55:1-5 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書10:34-42 説教日: 2025年7月20日・聖霊降臨節第7主日 説教: 大石 茉莉 牧師   ■ はじめに...

 
 
 

Comments


bottom of page