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『神のものは神に』 2023年6月25日

説教題: 『神のものは神に』 聖書箇所: マルコによる福音書 12章13~17節 説教日: 2023年6月25日・聖霊降臨節第五主日 説教: 大石 茉莉

■はじめに

今日の御言葉の始まりには「人々は」と記されておりますけれども、この「人々」とは一般的な人々を指すのではありません。主イエスがエルサレムにお入りになって神殿で宮清めを行われた11章に登場しております祭司長、律法学者、長老たち、を指しています。彼らは主イエスと殺そうと考えていました。しかしながら、彼らは合法的に、自分たちには非のないように、自分たちの正当性は守られつつ、事を進めなければなりませんでした。そのため「主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして」とありますように、罠をしかけることを考えたのです。ファリサイ派とヘロデ派を遣わした、とあります。以前にもお話しいたしましたが、この両者、本来は犬猿の仲であります。ファリサイ派は旧約聖書の律法を厳格に守ることで、イスラエルが神の民であることの誇りを保ち、人々をそのように指導していました。そのため現実に妥協しない宗教的理想主義の者たちであり、自分たちの信仰の正しさを主張し続けた者たちであります。それに対してヘロデ派というのは、領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きであり、ヘロデにおもねり、ローマ権力に支配されている現実のなかでうまく立ち回っていた政治的現実主義者たちでありました。というように本来は対立していた両者なのです。そのファリサイ派とヘロデ派が主イエスへの敵対という点においては一致団結し、亡き者とするために結託しているのです。そして主イエスのもとにやってまいりました。3章6節で、主イエスが安息日に手の萎えた人を癒された時、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。」とありました。この時から始まった彼らの計画は、実行に移されようとしているのです。


■主イエスへの問い

さて、そのような彼らが主イエスのもとに来て、主イエスに言いました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれにもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」ここで示されている主イエスについてのことは、すべて真実であり、主イエスのお姿が正しく表現されております。主イエスは真実なお方であり、だれにもはばからず、分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるお方であります。しかし、これを語っている者は心からそう思っているのでないのです。主イエスに殺意を持ち、主イエスを陥れるためにやってきているのです。ここにも彼らの欺瞞、偽善があらわれています。

そして問うたことはローマ皇帝に税金を納めることの是非でありました。律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか、納めるべきでしょうか、それとも納めてはならないでしょうか、教えていただきたいのです、というものでありました。この事柄を理解するためには、歴史的状況を知る必要がありましょう。当時、ユダヤ人たちにとって、ローマ皇帝が課している税金は屈辱的なものでありました。ローマによる支配をまざまざと見せつけられ、征服されていることを示すものであったからです。それゆえにユダヤ人たちの間では、いつか神からの救い主、メシアが現れて、ローマの支配を断ち切り、ローマの支配から解放してくれると考えていたのです。それはおのずとローマ皇帝への税金からの解放でもありました。そのような期待がありましたから、皇帝に税金を納める、というのはローマ帝国の支配、権力を認めるかどうか、という問題であったのです。

ですから、この問いを主イエスに向かってするには、ファリサイ派とヘロデ派が一緒になってやってくる必要がありました。もし、主イエスが「納めなくてよい」と言われたならば、ヘロデ派によって、主イエスはローマ総督に訴えられてローマへの反逆者として捕らえられることになります。逆に、「納めなさい」と主イエスが言われたら、今度はファリサイ派が、主イエスはローマの支配に加担している者であると人々に語るでありましょう。人々はローマ支配を解放するメシアとして主イエスに期待を寄せているわけですから、人々の主イエスに対する権威を失墜させることができるのです。

しかし、質問を受けた主イエスは「彼らの下心を見抜いて言われた。」とあります。この下心と訳されている言葉は、他の聖書では、欺瞞、擬装、偽善と訳されております。元々は演劇用語で、仮面をつけ本心を隠す、という意味から来ています。そしてその仮面は神によって剥がされ、神の御前では通用しないものであります。そして主イエスは「デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」と言われました。


■皇帝のものは皇帝に

さて、そうして持ってこられたデナリオン銀貨です。当時の生活において流通していたお金でありました。おそらくそこにいるほとんどの者が、持っていたことでありましょう。ローマの支配を不愉快に思っていたファリサイ派も日常生活においては使っていたものなのです。そのお金を主イエスはわざわざ持ってこさせました。きっと主イエスご自身が手に取られ、周りの人々にゆっくりとお見せになったのではないでしょうか。そして、お尋ねになりました。「これは、だれの肖像と銘か」このデナリオン銀貨には、ローマ皇帝ティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。

さて、彼らは皇帝のものです、と答えます。「皇帝ティベリウス、聖なる尊厳なる者の子」というような文字が刻まれていたようです。数回前で主イエスが神殿で宮清めをなさったとき、両替商の台をひっくり返した、とありましたけれども、神殿への献金は、このローマ皇帝の像が刻まれた貨幣で献金されることはありませんでした。そのためにデナリオン銀貨からユダヤの貨幣シェケルに両替する両替商が神殿内にいたのです。さて、皇帝の肖像と銘が刻まれていることを認めた彼らに対して、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。当時、貨幣はそれを発行した支配者のものでありました。ですから、皇帝の肖像と銘のある銀貨は皇帝のものなのです。主イエスは税金を納めるべきか否か、という質問に、このような形でお答えになりました。そして大切なのはここで「返す」というお言葉を使われていることであります。皇帝のものであるものは皇帝に返したらよい、とういわれたのです。そしてさらに重要なのは「神のものは神に返しなさい。」というお言葉であります。


■「神のもの」とは何か

皇帝のものを皇帝に返すということの前提、それが「神のものは神に返す」であります。皇帝に返すという自由行為は「神のものは神に」の上に成り立つことなのです。この世のもの、それはすべて神によって造られたものです。詩編24篇1節・2節に「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの。主は大海の上に地の基を置き/潮の流れの上に世界を築かれた。」とありますように、地上のもの、それらはすべて神のものなのです。ですから、皇帝のものと言われるものも根本的には神のものなのです。この地上にあるもので神のものでないものなどありません。さらに進んで言いませば、創世記1章27節にはこう書かれております。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」ここには私たち人間が、神の似姿として創られ、神の像が私たちに彫り込まれているというのです。それは神が造られたすべての被造物において、特別のことであります。私たちは神の似姿を刻まれた神のもの、神は私たちに「あなたは私のもの」と言っておられるのです。ですから、この世のすべてのものが神のものであり、そしてさらに言えば、私たち自身こそが、神に返される神のものなのです。


■自分の人生の主

私たちは自分の生、自分の命は自分の物と考えていないでしょうか。それ故に、自分が働いて得たもの、自分の持っているもの、それらは自分の物であると考えるのではないでしょうか。しかし、私たちには神の刻印が押されているのです。皇帝の刻印が押されたものが皇帝のものであるように、神の刻印が押された私たちは神のものであります。それにもかかわらず、私たちは自分のものとして、自分を主として生きてゆきたいと考えるのです。それが私たちの罪の現実です。私たちは自分の存在が神のものであって、自分のものではないということをきちんとわきまえる必要があります。主イエスがこの論争の数日前に、神殿で両替商の台や鳩を売る者の台をひっくり返し、神殿を強盗の巣にしてしまっていることに対する実力行使をなさいました。神のものを自分のものとしてしまっていることへの激しい怒りを示されたのであります。現実のこの世で生きることにおいては、ファリサイ派もデナリオン銀貨を持ち、使っていたように、わたしたちもこの世の規則や支配と無縁ではありません。この世を信仰者として生きることは神に従いさえすればそれでよいというものではなく、この世が神のものであることを前提として、社会と関わり、社会に対する責任を果たしていくということであります。


■結び

私たちの生は神のものであり、神にお返しする生き方、神の僕としての生き方について、ペトロの手紙Ⅰ2章13節以下が明確に記います。「主のために、すべての人間の建てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうとも、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです。自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」これはパウロの時代に限った事ではありません。今を生きる私たちも、神を畏れる、この前提の上にこの世での歩みがなされることによって、神に栄光が帰せられるのです。この世の支配に従いつつ、神に自分をお返しする、自分は神のものであることを明らかにする、それは主イエスご自身の歩みに見ることができます。主イエスの人としての歩みは、この世の支配に身を委ねつつ、御自身を神に捧げた歩みでありました。主イエスはこの世の支配者の手に自らを委ね、捕らえられて十字架にお架かりになりました。ご自身は神のものとして、神のご意志に従われたのです。私たちは毎週、使徒信条を告白いたします。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみをうけ」とあります。ポンテオ・ピラトはこの世の支配者でありました。主イエスは神に従う歩みの中で、この世の支配に身を委ねられ、そしてそのことによって、人間の救いという神様のご計画が実現したのであります。わざわざ、使徒信条において、このように告白することは、神の救いのご計画、救いの支配の中に、この世の権力が位置付けられていることを示すものでもあるのです。私たちはこの主イエスに従う者たちであります。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマの信徒への手紙14章7・8節)私たちは主イエスの十字架によってその罪を贖っていただきました。贖いというのは、買い取って清算するという意味であります。私たちのことを主イエスはご自身の命で買い取ってくださったのです。ですから、わたしたちは買い取ってくださったキリストのもの、神のものなのです。わたしたちはこの世に生を置き、そして神と人とに仕えつつ、主を証しするミッションを与えられております。そのことを大いなる喜びとして、歩んで参りましょう。


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