説教題: 『御心を尋ね求める』
聖書箇所: 旧約聖書 レビ記13:1-8
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書8:1-4
説教日: 2025年3月30日・受難節第4主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日からマタイ福音書の8章に入ります。5章から7章は山上の説教として主イエスが弟子たち、群衆に教えを語ってこられたのでした。そもそもの主イエスを取り巻く環境を振り返ってみましょう。4章23節、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。御国の福音を宣べ伝える、それはさらにその前4章17節「悔い改めよ。天の国は近づいた。」とありますように、この御言葉から伝道を始められたのでした。そして4章25節、「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」それらの群衆を見て、主イエスは山に登られ、そして教えが7章の終わりまで語られてきたのでした。今日の御言葉の1節、「イエスが山を降りられると」、山上での教えから、次なる主イエスのお働きに変わるのです。4章23節にありましたように、主イエスのお働きは大きく「教える」「宣べ伝える」そして「いやす」と三つで説明することができます。
■教えから癒しへ
「悔い改めよ。天の国は近づいた。」の御言葉から、宣べ伝えることを始められた主イエスは、続いて多くの「教え」を語られたのち、山を下りられました。そしてここから8章、9章と小見出しを見ていただいてわかるように「いやす」というお働きをなさるのです。主イエスの癒やしの御業の始まりは、「重い皮膚病を患っている人を癒す」ということでありました。山を下りてこられた主イエスに、弟子たちと共に大勢の群衆が従ってきました。彼らは小高い山の上で、主イエスが語られるのを間近で聴き、我こそはなるべく主イエスのお近くに、というような思いで、誰もが顔を上気させて主イエスを取り囲んでいたことでしょう。そのような熱気に満ちた集団と対照的にひっそりと佇む一人の重い病を患った人がいました。この人はおそらく主イエスが小高い山の上で語られるのを物陰で見ていたことでありましょう。この重い皮膚病とは、どのような病気かということは明らかではありませんが、先ほどの旧約聖書レビ記13章1節以下にありましたように、なんらかの皮膚の疾患などで皮膚病が疑われるときは祭司のところへ連れていく、となっております。新しい協会共同訳聖書では、「規定の病」となっています。つまり、律法であるレビ記に定められている規定に従って、祭司が「あなたは汚れている」、「あなたは清い」と言い渡すわけです。医者ではなく、祭司が判断するということでありますから、宗教的に汚れているかどうかということを指しています。重い皮膚病と判断された人は、汚れた人ということになりますから、神の民イスラエルの祭儀、つまり礼拝に連なることができず、共同体から排除されました。この13章45節以下にはこうあります。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」病気というだけでも辛いことですのに、「わたしは汚れている」と自ら言わなければならないなどというのは、大変な精神的な苦痛を強いられていました。人々から白い目で見られ、避けられ、疎まれて、暮らさなければならなかったのです。そのような孤独に生きるこの人が、主イエスが中心におられる一群に近づいていったのです。本来であれば、なるべく人に会わず、人から避けられる以前に自ら人を避けて暮らしていたこの人にとっては、主イエスのもとに行くために大勢の群衆に近づいていくということは大変な勇気のいることでありました。たくさんの人々の視線を浴びながら、彼は主イエスの前に進みでました。この人は宿営の外に住まわされていた、つまり、村から追い出されて、山に近いどこかに押しやられていた人でありますから、それは人々から捨てられた人でした。そしてだからこそ、実は主イエスに近かった人だと言えるのです。
■主よ、御心ならば
彼は主イエスに近寄っていきました。多くの群衆の冷たい視線が彼に注がれていたことでしょう。それにもかかわらず、彼は怯むことなく、主イエスの前にひれ伏したのです。そして言いました。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます。」この「ひれ伏す」という言葉を福音書記者マタイは好んで使っています。その始まりは主イエスがお生まれになったとき、東の占星術の学者たちは母マリアと共におられた幼子のところにいき、「ひれ伏して幼子を拝み」と2章11節にあります。また、マタイ福音書の最後、28章17節、弟子たちはガリラヤで復活なさった主イエスに会い、そして「ひれ伏した」とあります。それ以外の数カ所でもマタイは使っていますが、この意味は、主イエスを拝んだ、つまり礼拝をした、ということです。さらにこの重い皮膚病の人は、「主よ」と呼びかけています。主イエスを信じる私たちが「主よ」と呼ぶのと同じように、この人は主イエスを自分の主と呼び、御前にひれ伏して礼拝を捧げました。さらにこの人の語った言葉にも注目したいと思うのです。この人は「主よ、御心ならば、わたしを清くすることができます。」と言いました。原文に忠実に訳しますと、「もしあなたが意志するならば、あなたは私を清くすることができる。」というきっぱりとした宣言の文章です。この人はこの重い皮膚病のために大きな苦しみを抱え、汚れているとされてきた人です。もし自分がそのような状況であったならば、どのように願うでしょうか。「主よ、お願いですから、この苦しみを取り除いて、私の重い皮膚病を治してください、清くしてください。」このような願いを訴えるのが自然ではないでしょうか。しかし、この人は違いました。「あなたが意志するならば、あなたの意志によって、私の病は癒やされる。私は清くなる。」という確信を語っているのです。「あなたの意志、あなたの思いは必ず実現するのです。あなたのご意志を私に与えてください。」この人はこのような確信を語るのです。この人なら治せるかな?試してみようかな?というようなことではないのです。彼は主イエスが完全なるお方であり、この方が意志することは実現するということを知っています。それゆえに、自分が求めることは、この方が「そのようになれ」と言ってくださることだけである、と信じているのです。
■御心がなりますように
私たちも多くの悩みや苦しみを抱えて神に祈ります。個人の思いとしては、どうか、この苦しみが取り去られますように、とか、悩みが解決しますように、ということが心の片隅にあるわけですけれども、私たちに与えられている祈り、主イエスがこのように祈りなさい、と教えてくださった主の祈り、そこでは「神様、あなたの御心がなりますように」ということであります。主イエスも十字架への最後のゲッセマネの祈りで、「父よ、できることなら、この杯、苦しみをわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」このように祈られたのでありました。私たちは主イエスに倣う者たちなのです。私がどうして欲しいではなく、神がどうされたいのか、このことを常に尋ね求める祈りが私たちに与えられているというのは、本当に慰めであり、大いなる恵みです。単に自分の苦しみや悩みが取り去られますように、願いが叶いますように、と手を合わせて祈るではなく、神様、あなたのご意志、あなたのご計画が大事なのであって、そのことに信頼し、あなたにお委ねいたします、あなたのご意志が聴き取れますように、と私たちは祈るのです。
■よろしい、清くなれ
そのように祈ったこの人の信仰、この人の言葉を主イエスはすぐに真正面から受け止めてくださいました。3節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」主イエスはその人に触れた、と書かれています。「汚れ」ということは、律法に従って生きる宗教共同体にとって重要な問題でありました。汚れていれば、神の前に出ることも祈ることも許されず、汚れた者に接した者も汚れると信じられていました。それゆえに一般の人々は汚れから自分を遠ざけていたわけです。人間同士の関わりも実際の接触も絶たれていたこの人に主イエスは手を伸ばして触れてくださいました。誰も近づかないその人に、誰も触れないその人に、主イエスは触れられた。そのとき、周りで冷ややかに見ていた人々はどきりとして、おそらく身震いと同時に一歩退いたことでありましょう。そして同時に主イエスに触れられた重い皮膚病の人には震えるほどの暖かさとそして熱い血が身体中を駆け巡ったに違いありません。ここに主イエスの行為としての愛を見ることができます。そして主イエスは行いだけではなく、そのお言葉において、この人に触れられました。「よろしい。清くなれ」直訳しますと、「私は意志する」であります。この人が、「もしあなたが意志されるならば」と言った言葉への応答です。主イエスが意志されるならば、私の病は癒される、清められると信じ、そのことを求めてひれ伏して礼拝したこの重い病の人の思いに対する主イエスの応答として、「私はあなたを清くすることを意志する」と言われたのです。主イエスはその手によってその人に触れ、その言葉によって、心に触れ、そしてその人は癒された、清くなったのです。御心がなりますように、と心から祈り求める者へ、主イエスはこうして救いの宣言をなさるのです。神の救いの恵みはこのようにして与えられます。
■神の国へ入れられる
主イエスの御意志はこの人を清くするというだけではありません。そのことが4節に記されています。主イエスは言われました。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」レビ記13章には皮膚病、そしてそれに伴う祭司による汚れの判定が記されていましたが、続く14章には清めの儀式のことが書かれています。14章2節以下「以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、祭司は宿営の外に出て来て調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。」その後、祭司は供え物を献げ、清めの儀式を行うのです。「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にいなければならない。彼は七日目に体の毛を全部、すなわち、頭髪、ひげ、まゆ毛、その他の毛もすべてそる。そして、衣服を水洗いし、身を洗う。こうして、彼は清くなる。」これがレビ記の規定です。レビ記の規定を行うことによって、この人は共同体の中に戻ることができます。この人を清くすることだけが主イエスの御意志なのではなく、この人が神の民として歩むこと、これが主イエスの御意志なのです。
■結び
主イエスはこの地にいらして、天の父なる神のご計画、この地に神の国がなりますように、そのことの実現のために語り、教え、癒しの御業を示されたのです。私たちも罪の汚れのある者たちでありますけれども、主イエスの前にひれ伏し、あなたこそ救い主です、と告白した時から、主イエスが私たちに触れてくださり、そして私の名のゆえにあなたは清くなったとしてくださいました。私たちもこの人と同じように、神の民の共同体に連なる者としてくださったのです。私たちも常に、「主よ、あなたの御心がなりますように」という祈りを捧げ、主イエスに触れていただき、主イエスの御言葉によって、癒され、慰められて歩んでゆくことができるようにと願います。
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