『岩の上に立つ家』 2025年3月23日
- NEDU Church
- 3月24日
- 読了時間: 10分
説教題: 『岩の上に立つ家』
聖書箇所: 旧約聖書 詩編62:2-9
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書7:24-29
説教日: 2025年3月23日・受難節第3主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
5章から続いてきました山上の説教の締めくくりの御言葉が与えられました。この締めくくりには家と土台という譬えが語られています。どんな家かは問題ではありません。大切なのは、土台である、と主イエスは言われます。その土台が岩の上に建てられたか、もしくは砂の上に建てたか、ということであるというのです。この譬えはとてもわかりやすく、砂上の楼閣という言葉があるように、基礎がしっかりしていなかったら、簡単に壊れてしまうということです。岩の上に自分の家を建てた人は賢い人、砂の上に家を建てた人は愚かな人、と書かれていますように、この譬えが人の生き方を指し示しているということは誰でもお分かりになるでしょう。
■問題は岩
問題はここで言われている「岩」というのが何であるか、ということです。岩の上に家を建てる、岩を自分の人生の基盤とする、というのはどういうことを意味しているのでしょうか。人は誰もが自分の人生をどのようなものにしたいかということを考えることでしょう。何になりたいかとも考え、そのための学びもしますし、社会人として働く場合でも企業の研究をして、何か目標を定め、それに向かって努力するわけです。いい大学、いい会社、かつてはそれが盤石の人生の基準であるなどと言われましたが、今の時代はそのような単一な価値観ではなくなりました。それでもこの世での生活においては、それぞれの価値観において、何らかの自分の土台を定めて歩んでいるわけです。さて主イエスが言っておられる「岩」とは、「土台」とは何を指すのでしょうか。
■主イエスによって
主イエスは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う」こと、それが岩の上に家を建てる、土台とすべき岩なのだ、と言っておられます。ここで言われる「これらの言葉」とは何を指すのか、というと、5章から7章までのいわゆる山上の教え、さまざまに語られた教えのことを指しているのは明らかです。さてどのようなことが教えられていたのかということを5章からの教えを振り返ってみますと、腹を立てることなく、人と和解しなさい、とか、右の頬を打つなら左の頬をもむけなさい、とか、敵を愛し迫害する者のために祈りなさい、とか、天に富を積みなさい、などのことばが与えられてきました。これを私たちが「聞いて実際に行う」こと・・・が求められているのでしょうか。私たちはすでにこれらの御言葉を聞いてきたわけですが、これらの主イエスの御言葉をどうしても道徳教訓的に聞いてしまいがちです。しかし、主イエスの教えはそのような意味だったでしょうか。決してそうではありませんでした。私たち人間は怒りを抑えられない存在でありますけれども、主イエスが「父よ、彼らの罪をお赦しください。」と十字架上で祈ってくださった、そのことを思い出しなさい、人よりもまず神と和解しなさいということでありましたし、左の頬までをも差し出してくださったのは主イエスでありました。主イエスは侮辱と苦しみを全て受け入れられました。最も弱い者として生きて、罪人として十字架において死刑とされる、そのような道を歩まれました。私たちはたとえ自分の行いとしてはそのようにできなくとも、そのように生きてくださった主イエスに従うことを約束した者なのです。そのことを覚えなさいということでありました。富もお金も決してそれを否定するのではなく、この世で私たちが生きていく中で、何を第一に置くのかというぶれない軸をきちんと持ちなさいということでありました。神が絶対である、そのことを自分の中心に置く限り、この世のものの価値と限界を見極めることができて、そしてそれに支配されないのです。主イエスを通して、私たちが「天の父なる神」と繋がり続けること、これが山上の教えの全てに示されていることでありました。これには私たちの努力とか行いとかによるのではなく、ただ主イエスがこの世に来てくださった、ただそのことだけなのです。それゆえに、「私を信頼しなさい」「私についてきなさい」「私に従いなさい」と言われるのです。
■天の父を拠り所とする
山上の説教で語られてきたさまざまな教え、それら全ては「天の父」「主イエス」「私」が一本の線で常に繋がって生きるためのものでありました。私たちは自分で生きているのではなく、神によって養われ、主イエスの十字架によって罪赦され、天の父の子としていただいているのです。天の父を唯一、父を呼ぶことのできる独り子主イエスがこの世に来てくださり、そして私たちが「私たちの天の父」と呼ぶことができるようにしてくださり、そしてその天の父なる神はあなたがた一人一人を子どもとして愛してくださっているのだと宣言してくださったのです。ですから、私たちが立派な行いをするとかによって神の前に相応しい人になるのではなく、ただ主イエスが来てくださり、天の父に私たちの罪をご自身が引き受けて神ととりなしてくださったのです。その天の父である神は、私たちに必要なものを全てご存じであり、与え、養ってくださるのです。それゆえ、何を食べようか、何を着ようか、と思い煩う必要もなく、ただ天の父なる神に信頼して歩むことを求めておられるのです。「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。」「力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。」詩編の詩人はそう力強く歌います。確かな土台、確かな岩の土台、それは神を拠り所とすることであり、天の父が支えてくださっている、天の父が私たちを愛してくださっている、そのことを信じて生きる。それが岩を土台とした家を建てる、ということなのです。それが、わたしのこれらの言葉を聞いて行う」ということです。ここで「行う」と言われている言葉は、私たち自身が何かをするという意味の言葉ではなくて、「引き起こされる」という意味の言葉です。つまり、「聞いて行う」ということは、羊が羊飼いの声を聞いて反応してついていくというイメージです。ですから、私たちは御言葉を与えられて、その言葉の主である神についていくのです。逆に、「聞くだけで行わない者」とは、神に背を向け、神から離れ、神の支え、養いによらず、自分の持っているもの、自分の正しさを根拠とし、それを拠り所とする生き方です。自分の正しさを拠り所にして、その上に家を建てる、人生を送ってゆくならば、その家は砂の上に建てた家であって、雨が降って、川が溢れ、風が吹くならば、倒れてしまうのです。
■人生の荒波
私たちの人生において、雨風に襲われないということはありません。必ずや雨が降り、嵐に巻き込まれたりします。そしてそれは時に、テレビの映像で見るようなハリケーンのように、一瞬にして全てを根こそぎ奪い取ってしまうようなことだってあるのです。人生における悲しみや苦しみは突然にやってくるのです。実際、私たち日本人は2011年3月11日、東日本大震災という大災害を経験いたしました。あの日、14時46分、そこまでいつもと変わらない日常をそれぞれが送っていました。しかし、その後、たった1時間もしないうちに、想像もできない大津波によって全てがなくなりました。2万人以上の方々が命を失ったのです。あの光景は誰もが忘れることのできないものでありましょう。それぞれが自分のこととして受け止めた衝撃的な死であり、誰もが私たち人間にはどうすることもできない自然の力の大きさに恐れさえ覚え、またこの世界を支配しているのは人間ではないということをまざまざと突きつけられたと言えるでしょう。どれだけ頑丈に建てられた建物であったとしても、一瞬にして押し流されてしまったのです。人間の無力さにどうしたら良いかわからないと思われたのではないでしょうか。私たちは何を頼りにすれば良いのでしょうか。
■主イエスのお姿
主イエスは27節で、「雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲いかかる」と語っておられます。この主イエスの言われた意味というのは、私たちそれぞれの人生において、受ける荒波、苦しみや苦難のことだけではなくて、この世の終わり、神の裁きのことを念頭においておられるのです。つまり、この5章からの山上の説教では、あなた方は神によしとされたものたちなのである、神を信頼せよ、神の恵みのうちを生きよ、そのために私がきたのではないか、と主イエスは語られてきました。私たちはこの世のどんなものにも流されないものの上に自分たちの基礎を置かなければならないと思うのです。それが天の父なる神を信頼することであり、主イエスであり、そして主イエスが語ってくださった御言葉であります。そして聖書の言葉に支えられるのではないでしょうか。私が今も時々思い出す聖書の御言葉に支えられた出来事をお話ししたいと思います。6年ほど前の10月、最大級の台風が東日本を襲ったことがありました。「過去に経験したことのないほどの台風」と言われ、実際に多くの被害をもたらしました。この時、私は一人で家にいて、どんどんひどくなる雨の様子に恐怖を覚えていました。その時、一人の教会の兄弟からLINEがきました。その方の住んでおられるところでは、避難命令が出たそうで、近くの小学校に今から避難するというのです。そして川が決壊したらそこでも危ないと思う、不安だ、というやりとりがあって、LINEで祈って欲しいというのです。そして祈りを捧げた後、日々読んでおります本を開きました。その本はご存知の方もおられると思いますが、小島誠志先生の「朝の道しるべ」という本です。その日の聖書箇所はヨハネ6章20・21節、「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」小島先生のコメントにはこうあります。「夜、荒れた海、狼狽している弟子たちに、主イエスは声をかけられました。彼らがイエスを迎えようとしたときに、舟は「目指す地に着いた」と言われています。危機の海で、そのただ中に立ちたもう主イエスの声を聞けるかどうかーそこに信仰生活の勝敗はかかっています。」そのままのコメントをその兄弟に送りました。その方から、「私たちにはこうして主イエスが今、ここにいてくださるのだということに気付かされた。もう大丈夫です。」と返信がありました。私自身もまさにこの御言葉によって、落ち着くことができたのでした。危機のただ中に立たれる主イエスのお姿、私たちははっきりと見ることができる、これ以上、確かなるものはないのではないでしょうか。
私たちの人生にはこうしたさまざまな危機があります。そしてそれらの雨も嵐も洪水も神が引き起こされるものであります。私たちはそのようなとき、世の終わりの時を考えます。実際、私たちの誰もが死を迎えます。終わりの時が必ず来るのです。私たちそれぞれの全てが神によって試される時がくる、そのような時にも耐えうる土台、耐えうる家。私たちは自分の知恵、人間の知恵によってではなく、神の知恵によって生きる、ただそのことが求められているのです。
この山上の説教の締めくくりでは、まず13節に「滅びに通じる門と命に通じる門」とありました。22節には「かの日には、実を結ばない木は切り倒されて火に投げ込まれる」ともありました。それらは私たちを恐れさせるためではなく、私たちに希望を告げているのです。神を信頼せよ、主イエスに従いなさい、神の支配の中にしっかりと立ちなさいということです。ハイデルベルク問答の第一問は「生きるにも死ぬにも、ただ一つの慰め」それは私たちが主イエスのものであるということであります。私たちはそのことが繰り返し告げられ、そしてそれに支えられ、慰めの力が与えられているのです。
■結び
最後の29節には、「主イエスが権威ある者としてお教えになった」と書かれています。主イエスは全能の父なる神から、私たちの救いのために権威を委ねられてこの世に来られたのですから、そのお言葉、その行い、全てに権威があるお方であられます。主イエスは死にも打ち勝ち、永遠のいのちに生きておられ、今も生きて私たちに働きかけてくださっているのです。私たちはその権威あるお方によって支えられ、私たちの土台となってくださっておられるのです。この地上の人生のみならず、死においてさえも私たちを支え、私たちを立たせてくださる。私たちはただ神に、主イエスに希望をおいて生きていく。それが主イエスが力強く語っておられることなのです。
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