『神に喜ばれるように』 2025年2月2日
- NEDU Church
- 2月3日
- 読了時間: 9分
説教題: 『神に喜ばれるように』
聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書58:3-11
聖書箇所: 新約聖書. マタイによる福音書6:16-18
説教日: 2025年2月2日・降誕節第6主日
説教: 大石 茉莉 牧師
■はじめに
今日、共に聴きます御言葉は、マタイ6章16節から18節という短い箇所でありますが、この6章の始まりから繋がっている箇所であります。6章2節から4節では施しをするときには、そして5節から6節で祈るときには、として語られてきました。そしてその同じ形で断食するときには、として「断食」についての主イエスの教えが語られています。当時の人々にとって、施し、祈り、断食、この3つは信仰生活をどのように送っているか、ということを表すバロメーターでありました。
このマタイ5章から7章の主イエスの山上の説教の主題は「神の義」であります。何度お話ししてもなかなか漠然とした「神の義」かもしれませんが、この6章の始まりの「善行」という言葉も神の義であるとお話ししました。つまり、「善い」行いであったとしても、それが人に見てもらうためであるならば、それは神の義に反するということでありました。そしてまた次に示された「祈り」これも、人に見てもらおうと会堂や大通りの角に立って祈るのではなく、奥まった自分の部屋に入って戸を閉めて祈りなさい、と言われたのでした。あの人は宗教的にきちんとした人なのだな、などと思われるために祈るのではないということです。そして第三の教えが今日の「断食」についての教えであり、これら三つの教え、いずれも、人に見てもらおうとして、人の前でしてはならない、という主イエスの教えであります。
■偽善への戒め
主イエスはいずれにおいても、「人の前で、人に見てもらおうして」行う人々のことを、偽善者と呼んでおられます。6章2節にも、5節にも、そして今日の16節にも、「あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言っておられるわけです。数回前の施しと祈りにおいても偽善者、つまり、人の前で良いことをして、人に褒められたい、人の評判を気にして事を行うなかれ、と言っておられました。そのような人の評価を求めるなと言われるのです。偽善者の断食は、人に見てもらうために沈んだ顔つきをして、そして顔を見苦しくする、と主イエスは言われます。そのようにして人に目立ち、気づいてもらおうとすると。その人の心は神ではなく、人の方を向いているという事です。人からあの人は立派な人だと言われるのではなく、ただ神が喜んでくださることに目をむけるということが徹底して求められているのです。確かに自分は良いと言われる行いをしている、きちんと祈っている、という自分の正しさを主張する思いに抵抗し、それと戦い神の御前に立つことに集中する。その神の御前における真実、正しさだけが問われているということです。苦しそうな顔をして人にPRするような偽善者というのは、とてもわかりやすい例を主イエスは上げてくださったわけで、それは明らかにちょっとね・・・と私たちも思うわけですけれども、主イエスがここで言われたのは、そのような見るからの偽善者ではなくて、隠れ偽善者のことに目を向ける必要があります。当時でいえば、自らの信仰に向き合って、流されず、正しい信仰を守ろうとした人々がいたでありましょう。今日の私たちにおいても、誠実に信仰生活を守り、教会の伝統に忠実に生きる人々がいます。しかしながら、その人たちも、現代人のこの不信仰の時代を嘆き、心のどこかで批判しながら、そのような人たちに正しい信仰生活の姿を見せようとする、そのような危険と背中合わせであるということを覚えておかなくてはなりません。明らかな偽善者として顔を見苦しくしなくとも、黙々と淡々と、そして熱心に信仰生活を守ることを見せたくなってしまい、そのような姿を見られることが支えになってしまうということです。心のどこかで、私はあなたたちと違うということを言いたくなってしまうのです。このような姿と私たちも決して無縁ではないと思うのです。それはすでに偽善者としての生き方ということになるのです。私たちは苦しみや悲しみの中にある時、その辛さが誰にもわかってもらえない、知ってもらえない、と思うとき、私たちはたった一人で悲しみを担うことのできない存在なのです。そんな時に誰かがあの人は頑張っているね、と評価してくれるとなれば、そこに甘んじてしまう、そんな存在なのです。しかし、主イエスは言われるのです。私が見ている、そして父なる神が見ている。そのことだけが大切なのであるから、人から自由になれ、という決断を促しておられるのです。
■断食の意味
断食ということは、現代の私たちにとってあまり馴染みがないものでありましょう。そもそもの断食の意味は、悲しみ、苦しみの表現でありました。悲しい出来事が突きつけられた時、食事が喉を通らない、ということは私たちでも理解できますが、それ以上に食を断って悲しみを表しました。そして断食は祈りと深い関係にあります。それも悔い改めの祈りです。サムエル記下12章にはダビデの祈り、そして断食のことが記されています。11章ではダビデが自分の部下ウリヤの妻バト・シェバに目を止め、自分のものにし、姦淫の罪を犯し、さらに妊娠させ、さらには部下ウリヤを戦死させるという大罪を犯したことが記されています。預言者ナタンによってその罪を指摘され、ダビデはようやく悔い改めます。12章15節-497ページ「主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。」姦淫の罪によって生まれてきた子供は病気で死にそうになり、ダビデは断食をして祈りました。結果的には、その子は死んでしまいましたが、ダビデはこの時、悔い改め、祈り、断食をしたのです。これは特別な時の祈りでありますけれども、旧約の時代、年に一度、「贖罪日」という日が定められていました。レビ記23:27-29-199ページ「第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちのために罪の贖いの儀式を行う日である。この日に苦行をしない者は皆、民の中から断たれる。」ここに記されております、「苦行」が断食であり、悔い改めの祈りを捧げるように、定められていました。イスラエルの民はこの定めに従い、断食を行なっていたわけですが、問題は定められているから、ということで形式的になっていったということです。今日、イザヤ書53章3節以降をお読みいただきましたが、まさに今日、主イエスが指摘された問題、何のための断食であるのかということがここにはっきりと示されています。3節「何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。」民は叫ぶわけです。「神様、私たちは断食しましたのに、どうして報いを与えくださらないのですか」このように神に訴えますと、主なる神は言われます。4節「見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。」「見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。」お前たちの断食は、形ばかりのものではないか。このような形ばかりの祈りのどこに悔い改めがあるのか、と主なる神は言われるのです。「お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。」神は民の姿、民の行いをご覧になって、このように厳しい言葉を突きつけます。そして、私の望んでいるのはそのようなことではない、として、続く6節以降で驚くべきことを言われます。「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。」これが私の望む、本当の意味での断食である、と。
■神に喜ばれる生き方
今日の箇所の17節で主イエスはこう言われました。「あなたは断食する時、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」これはどういう意味でしょうか。今でもイスラエルといえば、オリーブオイルというように、古くからパレスチナ地方ではオリーブが栽培されておりました。現代の私たちでも客人がある時には、髪はボサボサでないように、鏡を見て整える、そのような身だしなみと言えましょう。主イエスが言っておられるのは、きちんとして断食していることを人にわからないようにしなさいということではありません。顔を洗うというのはいわば素顔ということです。ここで使われている「偽善者」という言葉が、仮面を被った役者を表すということは何度かお話ししてきましたけれども、まさに仮面をつけた顔ではなく、素顔であるということです。そして、さらなる意味は、頭に油をつけて、顔を洗うということは、来客に対するもてなしなのです。この主イエスのお言葉の意味は9章14節以下に示されています。ファリサイ派の人々が断食をしているのに、主イエスの弟子たちが断食をしていなかった、それはなぜですか?という問いが投げかけられました。主イエスはこう言われました。15節です。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」この花婿は主イエスです。主イエスと共に歩んでいる弟子たちは婚礼の祝いの時を生きているのであって、悲しみと嘆きの象徴である断食はふさわしくないのです。主イエスの弟子たちが断食をしていないのは、花婿である主イエスと共に喜びの席にあるからです。主イエスの「頭に油をつけ、顔を洗いなさい。」というお言葉には、喜び祝いつつ歩みなさいというメッセージが込められているのです。
■結び
断食はもはや悲しみと嘆きのしるしではなくなりました。悔い改めのしるしではありましょう。私たちは悔い改めのしるしとして祈ることはあっても、それは悲しみと嘆きのしるしではないのです。主イエスに祈る私たちは、主イエスの十字架によって罪赦され、神の子とされている喜びが与えられているのです。この後、私たちは聖餐に与ります。聖餐という食卓、聖餐の恵みに与る時、その食卓には花婿である主イエスが共にいてくださるのです。聖餐におけるパンとぶどう酒をいただくたびに、私たちは主イエスが私たちの罪の赦しのために、十字架にかかってくださったことを覚えます。私たちは、断食によってではなく、この聖餐という大いなる祝宴で、主イエスと共にあることを喜ぶのです。そして日々、悔い改めの祈りを捧げ、日々、主イエスの十字架によって罪赦されたものであることに感謝をいたします。私たちは、罪人であり、偽善者でありますが、主イエスによって招かれ、赦しをいただく者たちであります。人の目を気にし、神を忘れてしまう私たちでありますけれど、そのような私たちに、主イエスが執り成してくださり、そして神の御前に出ることが赦されています。人に顔を向けて生きる生き方を、主は「見苦しい」と言われます。主イエスが共にいてくださるからこそ、私たちは神に顔を向けて、神を呼び、喜びのうちを歩むのです。人に喜ばれたり、人から称賛されることではなく、神が喜んでくださる、そのことだけを求め続けることが私たちに与えられている恵みに対する応答であります。
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