説教題: 『神につながっている平安』 聖書箇所: 詩編139編7〜10節・ヨハネによる福音書15章4〜5a節 讃美歌: 520番・542番 説教日: 2023年11月5日・召天者記念礼拝 説教: 大石 茉莉 伝道師
【説教】
ふとした拍子に、神の元に召されたその人が、家族であったその人が、共に生き、共にいた時のことが思い出される。そのような経験はどなたでもおありでありましょう。時にそれは大きな喜びの出来事のことであったり、また、共に悲しんだことであったり、もしくは、他愛もない、日常の一コマであるかもしれません。今、ここに共に集っておりますわたくしたちはみな、家族や近しい人とのこの世での別れを経験しております。たとえ、その別れから随分の時が経っていても、鮮明に蘇ってくるその出来事は、その時の場所、景色、匂いや、空気、会話の全てまでもがまるでタイムスリップしたかのように私たちをその中に連れて行きます。そしてその時、それは時に悲しみの感情が湧き起こり、そして痛みをも引き起こすこともあるでしょう。涙をも伴うこともあることでありましょう。私たちは感情を持つ生き物でありますから、それらを無くすことはできず、むしろ、そのようなことが起こるのは自然なことであります。
人間にとって、生がその始まりであるのと同時に、死は終わりを示すものであります。生きることがこの先の希望を表すとしたら、死はこの先の絶望を、生が光だとしたら、死は闇、とつながるものであり、それは人に不安を引き起こします。それゆえに、悲しみと同時に、不安と恐れが私たちを襲います。そのような時、私たちはどうしたら良いのでしょうか?そのような時に、私たちを慰める言葉、それが今日お読みしました聖書の御言葉であります。
「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行きつこうとも/あなたはそこにもいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手を持ってわたしをとらえてくださる。」
今日は7節から10節という一部をお読みしましたけれども、この詩編139編は次のように始まります。「主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。/座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを知っておられる。」神は全知全能のお方であり、全体を見ておられるだけでなく、一人一人を見ておられる。そのことがここに語られています。私たちの先人の信仰者はこのお方を信頼していたのであります。この全てを知っておられる神を信頼し、委ねたのです。そしてその全知全能の神がこの世にお遣わしになったのが神の独り子、主イエス・キリストであります。わたしたちは、この、人となってきてくださった主イエスにつながることによって、父なる神の子とされるのです。主イエスは言われました。それが今日のもう一つの御言葉であります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」この譬えは初めてキリスト教に触れられる方にとっても、わかりやすいものではないでしょうか。わたしたちは決して自分の力だけで生きているわけではありません。誰もが何らかの社会に属し、人と関わり、助け合いながら生きています。Aさんと関わり、Bさんと話したりいたします。しかし、Aさんの代わりにCさんでも良いでありましょうし、時に私たちの人間関係はそうやって変化して行きます。それで良いのです。しかし、もっと根源的に、わたしたちを支えているお方がいる。それは決して変わらない。それが主イエスとの出会いです。今日、わたしたちが覚え、思いを馳せている教会に連なる兄弟姉妹たちは、皆、一人残らず、そのことを確信し、それゆえに主イエスを救い主と告白し、主イエスにつながり生きた方々であり、今も、主イエスにつながっているのです。そのことまで知る時、わたしたち、今、この世を生きているわたしたちは、大いなる安心と慰めをいただくのであります。
主イエスを救い主と告白して歩む信仰は、私たちのこの地上での歩みを平安に変えてくれます。そして主イエスにつながって生きる歩みは、すでに主のもとに召された兄弟姉妹ともつながるものであります。そして天に召された方々が今も、主と共に、この地上の生にある私たちのために執り成しの祈りを捧げて下さっていることをも知るのです。わたしたち一人一人が主イエスにつながる、そのことを神はお一人お一人に語りかけ、お一人お一人を招いてくださっています。招きに応えることができますように。
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