説教題: 『神との和解によって』
聖書箇所: 旧約聖書 レビ記19章13-18節
聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書5:21-26
説教日: 2024年10月13日・聖霊降臨節第22主日
説教: 大石 茉莉 伝道師
■はじめに
「あなたがたも聞いているとおり」主イエスは今日の教えをそのような言葉で始められました。この5章から7章は主イエスが弟子たち、そして群衆たちに向けて語られた教えである、と何回か前にお話しいたしました。そうしてはじめに語られたのが、8つの幸いでありました。前回の17節からがちょうど橋渡しのような感じで、律法について語られ、そして今日の箇所からがその律法に語られている教えを主イエスがどのように教えられるのか、というところになります。小見出しを見ましても「腹を立ててはならない」「姦淫してはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」と続くわけですから、十戒に則っています。このマタイ福音書が書かれた時代を今一度おさらいしてみますと、ユダヤ教を信じる人々の中から主イエス・キリストの十字架の死と復活、それを信じる人々が生まれていったわけです。ユダヤ教の教えはシナゴーグと呼ばれる会堂で語られていました。今日の21節にある「あなたがたも聞いているとおり」というのは、ユダヤ教において、シナゴーグで教えられているように、ということです。主イエスは今日の箇所から「あなたがたも聞いているとおり」を何回も繰り返して、今まで聞いてきたユダヤ教の教えではこのように聞いているであろうが、私が教える教えはこうである。それは律法の否定ではなく、律法の完成者として私が教える、新しい契約、それを聞きなさい、と言っておられるのです。
■「殺すな」の教え
「殺してはならない」この教えは言うまでもなく十戒において命じられている戒めです。出エジプト記20章13節に記されています。さて、「殺してはならない」と言うこの戒め、当たり前じゃないか、と思われる方が多いのではないでしょうか。誰でも殺人は悪いことであり、もし殺人が許されたとしたら秩序が保てなくなるでありましょう。「人を殺してはならない」この戒めは人間社会が成立するのに、最も基本的な戒めであるといえましょう。主イエスは21節で、「昔の人の教えに人を殺すな。殺す者は裁きを受ける。」とある、と十戒を示されました。十戒はイスラエルの民が神との関係に生きるための基本でありますから、誰でも知っている教えであると言えます。
そのすぐ後、22節にある言葉は「しかし、わたしは言っておく。」であります。この昔の戒めに対して、ご自身の新しい戒めを対比させて語っておられるのです。
そうしてお語りになった22節では、「腹を立てる」ということに始まり、三つの言葉を使って語っておられます。「兄弟に腹を立てる者は裁きを受け」、次に「兄弟に『ばか』という者は最高法院に引き渡され」、そして「『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」と順繰りにひどい状態が示されます。最初に「裁き」とあるのは、人間の裁判所に当てはめれば、地方裁判所ということになりましょうか。そして最高法院は最高裁判所まで行って裁かれ、人間の裁判はそこで終わりとなり、そして最後には神の裁きが示されるということです。さらにその内容も、最初は「腹を立てる」でありますから、これは自分の中に湧き起こる怒りと言えましょう。しかし、その次には、「ばかと言う」でありますから、心に留めるのではなく、相手に対して直接にその怒りを口にすると言うことです。さらには「愚か者という」の「愚か者」は価値のない者、ということであり、13節にありました塩の譬えで、塩に塩気がなくなる、つまり塩としての価値がなくなる、ということを表しているのと同じ言葉が使われています。この言葉は、神に捨てられた者ということでもあり、それは呪いの言葉でもあるのです。お前は神を信じていないのか、同時に神からも捨てられているのだ、呪われるが良い、という意味です。主イエスは言われるのです。確かに、心の中で腹を立てるよりも、「ばか」と口にする方が、それよりも「愚か者」という方が、大きな怒りを表す行為でありますけれども、主イエスがここで言っておられるのは、ここまでなら良くて、これ以上はダメというようなことではなくて、それらに本質的な違いはないということです。それらは全てが人を傷つける、殺すことと同じであって、神の怒り、裁きの対象である、ということです。
■人間の命は・・・
そもそも人間の命、それは誰のものでしょうか?自分のものでしょうか?キリスト教に無縁、キリスト教を信じてはいない、という方だとしても、自分の命、そしてそれをずっとずっと遡った命、それはどなたかがお創りになった、創られた方がおられる、創造主がおられるということを否定はできないでありましょう。その創り主が命を与え、そして命を終わらせる。それは極めて自然なことではないでしょうか。ヨブ記1:21に「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。」と書かれていますように、人類史上、母の胎から出てきた時に、何かをすでに纏っていたなどというのは聞いたことがありません。誰もがまさに素っ裸で生まれ出てきたのです。旧約聖書創世記2章6節「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。」と記されているように、人間は神によって土から造られ、そして神の息を吹き入れられたことによって生きる者となり、それゆえに、神の息が取り去られたらその命は終わる、それは極めて自然な現象であるのです。ですから、人間の命、それは神がその主であり、神が支配されているもの。それはキリスト教を信じている、いない、に関わらず、納得するものではないでしょうか。今日の教えの続きと言える5章36節には、「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできない」、そして6章27節「思い悩んだからと言って、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」とあります。この二つの御言葉は途方もなく深いものだと誰もが思うのではないでしょうか。
人間の髪の毛の数、ご存知ですか?おおよそ10万本だそうです。10万本の内の1本、自分の髪の毛なのに、10万分の1、つまり0.001%も白くなったものを黒くすることはできないということです。それは逆に考えますと、100%から0.001を引いて、99.999%できないということです。こう考えるとすごくよくわかって、なるほどな〜と思ってしまいます。髪の毛の一本に関しては、その程度の気楽なもので考えられますけれども、人の寿命に関しては、誰もが緊張感を持ってその時を迎えた経験がおありだと思います。せめてこの人に会わせるまで、せめてこの日まで、せめて後少し、この時まで、そのように思っても人の命の最後の時をコントロールすることはできないのです。それはまさに神様がお決めになる時、としか言えないものなのです。私たち一人ひとりの命は、こうして神様のものである以上、自分自身のものでもなく、ましてや他人である誰かが傷つけ奪うということは神の御心に反するものなのだと言うことが言われているのです。
■神との和解
さて、この教えをそうして理解してきますと、私たちにとってとても難しい教えであるということがわかります。私たちは「人を殺してはならない」、その戒めであれば、守れるであろう、と思っています。人に対して、殺してやりたい、と思うことと、実際に殺す、ということには大きな隔たりがあります。しかし、主イエスはそのように思うこと、それは実際に人を殺すことと同じだとおっしゃるのです。そのように言われた後に続くのが、23節以下の教えです。祭壇に供え物を献げようとするとき、それはつまり、礼拝の時、ということです。何よりも大切であると思われる礼拝より先に、自分に反感を持っている人と仲直りをしなさい、和解しなさい、と言われているかのようです。しかし、23節に「そこで思い出したなら」と書かれている、ここが大切です。つまり、礼拝の場が何を意味しているかと言うことです。私たちは礼拝において、祈りの時を持ちます。何十人かが共に集っていても、音一つしない静かな祈りの時が与えられます。私たちの礼拝、そしてその祈りの中では「悔い改めの祈り」をそれぞれが神に捧げ、そして神からの罪の赦しが与えられる。そのことを言い表しているのです。人間同士の和解は神との和解が前提なのです。もし、和解しないのならば、「最後の1クァドランスを返すまで決して牢から出ることはできない」と主イエスは言っておられます。これは神の裁きのことを言い表しています。1クァドランスと言うのは1デナリオンの64分の1、1デナリオンが1日の賃金と言う基準ですから、その64分の1、現代に当てはめたら150円ほどと言うことになりましょうか。たった150円であろうとも、いえ、1円であろうとも、負債をもきちんと返し終わらなければ、投げ込まれた牢屋から出ることはできないと主イエスは言われるのです。
■主イエスによって
私たち人間は自分の怒りを抑えるということがとても難しいことであると知っています。なぜ、この人はこうしないのか、こうして欲しいのに、と自分が正しいと思っていることをしてくれないと納得がいかず、そしてイライラから怒りへと膨らんでいきます。しかし、それは逆側からみましたら、必ずや誰かがこの私に対して、そのような怒りの感情を持っていると言うことです。怒りに生きず、憎しみに燃えず、生きる。私たちには到底できないことでありますけれども、それを成されたただお一人のお方が主イエス・キリストであられます。主イエスはそのことを十字架への道でお示しくださいました。十字架上で、「父よ、彼らの罪をお赦しください。」と祈られました。そのようにして主イエスは、私たちに怒りではなく、和解によって生きる、という道を示し、赦しを与えてくださったのです。私たち自身の内側に湧き起こるものは、怒りであったとしても、主イエスが成されたことを思うとき、つまり、主イエスが私たちのうちにいてくださるとき、私たちは相手のために祈り、相手との平安が成し遂げられることを知るのではないでしょうか。
■結び
主イエスは私たちと神とを和解させるためにこの世に来てくださいました。そして私たちの怒りや敵意や憎しみ、それらの罪を全てご自分の身に引き受けて十字架におかかりになってくださいました。それゆえに、神は私たちの罪の全て、神に対する背きも、敵意も、断ち切って、愛のうちに生きるようにして下さったのです。神は人をそのまま受け入れ、この罪深い自分をも愛して下さっていることを示してくださいます。神の愛を仲立ちとして、私たちは自分を受け入れ、人を受け入れていくことができるのです。主イエスの教えは、「〜してはならない」ではなく、「〜しなさい」という教えです。それが主イエスの言われる律法の完成です。そしてそれは主イエスの救いの御業に基づいているからこそ、そのように私たちにお命じになられるのです。私たちの主がそのようにお命じておられるのですから、私たちはただそれに従う。それが神の御心であり、主イエスを仲立ちにして、周りの人を見る時、私たちの怒りや憎しみより途方もなく大きな愛で、主が全ての人を愛しておられることに気づくのです。その時、私たちのなすべきことはただ主に従って、人との関係を築いていきたいと願う、ただそれだけであります。
Comments