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『神が結び合わされたもの』 2023年3月26日

説教題: 『神が結び合わされたもの』 聖書箇所: マルコによる福音書 10章1~12節 説教日: 2023年3月26日・受難節第五主日 説教: 大石 茉莉 伝道師

■はじめに

マルコによる福音書を読み進めてきまして、すでに第三幕に入ったと数回前に申し上げました。ペトロが信仰告白をし、主イエスがご自分の死と復活について語られるという8章27節からが第三幕であります。そしてエルサレムへ焦点を合わせておられる主イエスは、弟子たちとの残された時間を、弟子への訓練の時として持たれていることが9章には記されておりました。今日共に聴きます10章も弟子たちへの訓練、指導のためのやり取りが示されており、理解することの鈍い弟子たちに教える最後の章ともいえます。エルサレムでの苦難の前の最後の一コマをマルコはこの1章にまとめていると言えるでしょう。今日は1節から12節までの御言葉に聴きますが、13節から16節、17節から31節と3つの信仰問答が記されています。信仰問答、カテキズムとも言いますが、信仰の内容を問答形式で教えるものです。この10章では、結婚と離婚、子供たち、所有と財産についての3つの問答が取り上げられています。主イエスはそのそれぞれに真剣に向き合い、真実に教えることにつとめておられます。それは人を招くための教えなのです。神を神とし、神を信じ、神と共に生きるための学びを、主イエスは貫いておられます。


■エルサレムへの歩み

今日の御言葉の始まりには「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。」と書かれております。「そこ」とは、9章33節にあるカファルナウムのことです。カファルナウムは聖書巻末の地図を見ていただければわかりますが、ガリラヤ湖の北岸にある町です。主イエスのガリラヤにおける伝道の拠点でもありました。主イエスはそこを立ち去って、ガリラヤ地方を離れ、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」のです。ユダヤ地方というのは、地図でみますと下の方、ガリラヤ地方からヨルダン川に沿って南へ、そしてヨルダン川の向こう側というのは、ヨルダン川の東側、この地図ではペレアと呼ばれているあたりのことでしょう。主イエスの最終目的地はエルサレム。そこで主イエスは捕らえられ、十字架につけられる、そのことを主イエスはすでに2回ご自身で予告されました。8章31節以下、そして9章31節です。主イエスがいままでのホームグラウンドであったガリラヤから離れて、そしてエルサレムへと歩まれていることがこの1節に示されているのです。


■ペレアにて

そしてここでヨルダン川の向こう側のペレアという地のことがわざわざ記されている事にも意味があります。当時、ペレアはヘロデ・アンティパスが治めていました。ヘロデ・アンティパスといえば・・・6章14節以下の洗礼者ヨハネが殺されたことを伝える記事に登場いたします。このヨハネがなぜ殺されたのかと言えば、ヘロデ・アンティパスが兄弟フィリポの妻であったヘロディアを横取りする形で妻にして結婚しました。洗礼者ヨハネはそのことを批判し、それゆえに捕らえられ、ついには首をはねられて死に至ったのでありました。そのヘロデの治めるこのペレアにおいて、ファリサイ派が2節にありますように、「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか。」という問いを主イエスに投げかける、これはとても悪意に満ちた問いであります。ヘロデの支配下において、この問題に触れることは、まさにヨハネのように死を招きかねないことでありました。2節の終わりにありますように、「イエスを試そうとした」のであります。この「試す」は主イエスの律法の知識を問うということではなく、主イエスを危機に陥れようとしたということです。主イエスが「妻を離縁することは許されていない」と答えれば、ヘロデの支配下にあるこの場所ではヘロデに目を付けられ、ヨハネのように殺されることも考えられたからです。


■律法には何と書いてあるか

つまり、ファリサイ派の人々は、主イエスの教え、言葉に聞き従うために問うたのではなく、このような背景のもと主イエスがどのように答えるのか、まさに試そうとしたのです。そのような彼らの思いを主イエスは十分に知っておられました。逆に「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。モーセを通して与えられた神の掟である律法には何と書いてあるかと聞かれたのです。ファリサイ派の人々は旧約聖書のどこに何が書いてあるか、隅から隅まで覚えていたのですから、彼らはそもそも知っていて質問しているのです。ですから、主イエスの問いに即座に応えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました。」これは旧約聖書申命記24章1節以下です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見出し、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」とあります。今の私たちがこの言葉をみますと、人権侵害のように思えますが、当時、離婚は男性の側からのみに認められていたものでした。そしてこの「離縁状」の意味するところは、これを持っていれば、夫とは縁のない、つまり、他の男性とも結婚ができるというものでありましたから、この当時は女性の立場を守るものでもありました。モーセは離婚を命じたのではなく、条件付きの許可であり、そしてそれは弱い女性の立場を守るためでありました。

そして、この申命記の文面でも気になりますことは「恥ずべきこと」とは何なのか、ということです。この「恥ずべきこと」については、色々なことが言われています。いわゆる不貞行為、これは一般的に恥ずべき行為でありましょう。しかし、夫が別の女性を好きになった、これも自分を満足させない恥ずべきことである、というように男性に都合の良い勝手な解釈までされていたそうです。また、料理が下手、料理を焦げ付かせたというだけでもそれは恥ずべき行為、離婚の理由として十分だ、という解釈もなされたそうなのです。不実、不貞行為によるものから、料理問題でも離婚の理由になるという、学者の立ち位置によって見解が異なるものでありました。当然ながら、子供が生まれない妻であれば、他の女性との間に子供をつくる、などということもまかり通っていました。いずれにしても男性の身勝手が許されているというのは共通であります。とにもかくにも、自分たちが、本当はこうしたい、ここまでしたいのですが、神の掟はそれをどこまで許してくださいますか、という表面的で、かつ、彼らの都合の良い解釈をして当てはめていただけであり、本当に示されていることは何かということを理解してはいなかったのです。そのことを指摘するために、主イエスはこのような問いをされたのです。


■主のみ心

離婚、離縁ということは、その前提として結婚がなされていなければなりません。その結婚における御心を主イエスはお語りになります。創世記2章の創造物語のところです。神は天地万物をお造りになりました。神ご自身に似せて人を創造されました。そして人、アダムが「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」と思われ、アダムを深い眠りにつかせ、そのあばら骨から女を造り上げられました。創世記2章18節以下に記されております。「彼に合う助ける者」の「合う」というのは、「向かい合う」という意味です。互いに相手と向かい合って生きる、という意味なのです。アダムのあばら骨の一部を取って女を造った、というこの創造の意味は、男と女が本質的に同じものであることを示しています。ですから、そのようにして造られた女が神によって連れて来られた時、男は「これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と申しました。これは自分が向かい合って、共に助け合いつつ生きるパートナーが与えられたという喜びの叫びなのです。私たち人間の始まり、男と女の造られた原点はそのようでありました。ですから、結婚とは、神によって与えられた男と女が神の恵みと導きによって出会い、そして共に生きるということなのです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」と主イエスは言われるのです。それはこころにおいても体においても、向かい合い、相手と共に歩む、それが神様によって与えられた結婚の恵みなのです。


■律法でなく福音として

さて、そのようにして与えられている結婚の恵みです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」というこの言葉は、結婚式において、結婚の宣言で読まれるものであります。結婚の誓いをした二人に、牧師によってこの言葉が告げられ、夫婦としての宣言として告げられるのです。この結婚に対する考え方もカトリックとプロテスタントにおいては、理解が異なっています。私たちプロテスタントにおいては、聖書においてイエス・キリスト御自身に根拠を求めることができるものとして、洗礼と聖餐だけを聖礼典と定めましたが、カトリックにおいては、洗礼、堅信、聖体、告解、終油、叙階、結婚、という七つの秘跡が聖礼典として定められています。カトリックにおいては、結婚は聖礼典に含まれていますので離婚が認められないということなのです。

ただ、この言葉から離婚は認められるか認められないかという議論に陥ることは、まさにここでのファリサイ派の議論と同じになります。大切なのは、夫婦は神が結び合わせてくださったものである、ということを自らのこととして受け止めるということです。結婚する時には、お互い、この人しかいない、この人が好きである、支え合って生きていこう、と誰もが思うことでしょう。しかし、段々にお互いの違いや、様々な過ちなどから、相手を傷つけ、向かい合い支え合う生き方から、それぞれがそれぞれの方向を見て生きるという生き方になることがあります。相手からいろいろ言われるよりは、自分の生きたいように生きる方が楽だと思うことの先は離婚ということになるのでありましょう。しかし、「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」、つまり、自分の思いよりも神が定められたのだということを優先させる覚悟を持つということが大切なのではないかと思うのです。

今日の箇所の最後に書かれております御言葉も同じことを告げているでしょう。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。」姦通の罪、つまり離婚して再婚することの罪の問題を禁じているという律法的な問題ではなく、今与えられている関係を大切にしないのであれば、他の人に乗り換えてそれで幸せになれるなどということはないのです。ここで議論されてきたことは律法的な問題ではなく、神の恵み、福音の問題であるということです。


■結び

今日の冒頭でこの10章は主イエスがエルサレムに入られる前の、苦難の前の最後の一コマ、弟子たちへの教えのまとめである、と申しました。主イエスはこの先、エルサレムへ、そして十字架への道を歩まれます。主イエスははっきりとそのことを意識されて弟子たちに教えておられます。そしてそれはそこにいた弟子たちだけでなく、そこから先長く続く、まさに私たちへの教えでもあるのです。

人間関係の基本単位である夫婦、そこにはそれぞれのかたくなさ、それぞれの弱さ、それによってお互いを傷つけ合うことが起こります。それは人が本来は神中心に生きるように造られたにもかかわらず、神から離れ、自分中心に生きるという生き方をしているからにほかなりません。自分中心に生きるという人間の罪があるにもかかわらず、相手を大切にするという生き方は、主イエスの十字架によって支えられなければ成立しないのです。主イエスが十字架で死んでくださり、それによって神の許に立ち帰ることができるように罪の赦しを与えてくださったのです。相手との関係は、自分の思いによるものではなく、神によって支えられていることを、繰り返し繰り返し思い返し、夫婦という関係のみならず、隣人すべてとの関係を恵みのうちに築いてまいりたいと願います。


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