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『神が着せてくださる服』2024年4月14日

説教題: 『神が着せてくださる服』 

聖書箇所: 旧約聖書 ゼカリヤ書3:3−8

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙3:23−29

説教日: 2024年4月14日・復活節第3主日

説教: 大石 茉莉 伝道師


■はじめに

「信仰が現れる前には、」今日の御言葉はこの言葉で始まっています。「信仰が現れる」とはどういうことでしょうか?そもそもさらに遡って「信仰」とは何でしょうか?「私の信仰」というような使い方をしますから、「私が神を信じていること」「私自身によりどころとする神があること」というような捉え方をされている方が多いのではないでしょうか。実際、国語辞典などを見ましても、そのように書かれています。「誰々さんは信仰深い人だ」というような言い方もいたします。そのような時もその誰々さんの確信の強さを言い表しているわけですし、私の信仰という時も、私は神を信じている、という確信を表す言葉として使われています。イメージ的にも信じる側の内側から出てくるものというように捉えていることでしょう。しかし、本来、信仰という言葉は、その信じる対象、つまり、神の信頼性に関わる言葉であります。ですから私自身の確信というよりも、神、そして神の言葉が信頼に値すると認めることであります。アブラハムが義と認められたのも、彼の確信ではなく、無条件に従う神への信頼でありました。信仰と訳されている言葉は、πίστις ピスティスという言葉であり、真実とか信頼とも訳される言葉です。ですから、信仰とは、自らの確信ではなく、恵みを与えてくださる神が真実であるということなのです。そしてここで、信仰が現れた、と記されているのは、信仰は人間の側から湧き起こるものでなく、人間の外側から、つまり神の側から来るものである、ということが明らかにされています。25節にも「信仰が現れたので」とありますように、ここでパウロが表現するところの「信仰」を具体的に言えば、主イエスのことを指しています。つまり、今日の箇所では、主イエスが来られる前といらした後について語られているのです。主イエスは人として私たちの世に来てくださり、そして十字架で死なれ、そして復活し、神との和解をもたらしてくださいました。救いを実現してくださったのです。それゆえに、律法の時代は終わり、主イエスのご支配が始まりました。今日の箇所で、パウロはそのことを「信仰が現れた」と言っているのです。ですから、ここでパウロが語りたいことは、信仰は決して個人的な事柄ではなく、すべての民への世界的な事柄というスケールの話をしているのです。

 

■養育係としての律法

さて、パウロは24節で律法は養育係である、と言っています。養育係というのはどのような役目の人を言うのかと言いますと、当時のギリシアの世界には、子供の世話係として雇われ人がいました。家族と生活を共にし、子供の道徳的な教育に携わっていました。子供が誘惑に落ち込んだりしないよう、また、危険から守る、と言うのも彼の務めでありました。毎日、学校に送り届け、そして迎えに行く、というのも彼の仕事であり、実際の教育は教師に託すという責任があったのです。それはまるでパウロがいうように律法の役目と似ているわけです。つまり、養育係が教師のところに子供を連れて行き、託したように、律法はキリストのところに人々を導き、そしてキリストに託した、ということです。養育係は子供を誘惑から守るために監視の役割も果たしました。子供の行動を制限したわけです。つまり自由の制限です。23節に「わたしたちは律法の下で監視され」とあるのは、子供が養育係によって行動を制限されている状態をイメージしていただけたらわかるでありましょう。養育係の決める「良し」とされる枠から出ることはできず、そして人をも同じ基準で見ることになります。そしてもしそこから逸脱するようなことがあれば、それは相手を裁くということになるのです。律法はまさにそのような役割として存在してきた、とパウロは言うのです。そして子供が成長して、もはや養育係を必要としなくなるように、キリストへと導かれた人は、律法を必要とせず、キリストの恵みに頼って生きるようになります。それゆえ、パウロはキリストにあって、わたしたちはもはや、養育係のもとにはいない、と言うのです。パウロはローマのエリート階級の家に生まれ育ちました。ですから、間違いなく彼自身にも子供の頃から養育係がつけられ、おそらく10年間ほどは、その養育係の指導と監視を受けて育ったのでありましょう。それがいかに窮屈なものであったのか、ユダヤ人としての成人を迎えた時に、その養育係から解放され、その時のことを思い出し、重ね合わせているのです。パウロも養育係からの厳しい指導の中で、おそらく叱責されたこともあったでありましょうし、そのことで自分を責めたこともあったでありましょう。私たちが自分を責めることから解放されるのは、その罪を主イエス・キリストが担ってくださった、と知る時です。先ほど、パウロが語る信仰とは個人的な事柄ではなく、もっとスケールの大きな話をしているのだと申しましたけれども、神が主イエス・キリストを人として送ってくださったのは、我々人間の世界に神が介入してくださったと言うことであり、神の救いの歴史の中に、我々一人一人の歴史、救いが位置づけられている、と言うことです。主イエスによる救いを求めるならば、私たちの主イエスは救い出してくださいます。主イエスの十字架の前に首を垂れ、主イエスの死と復活を信じるならば、その恵みは無条件に与えられるのです。

律法は、24節にありますように、「私たちが信仰によって義とされるため」でありました。これが律法の最終的な目的であります。律法は人を裁くばかりであり、主イエスの到来によって不要となった、と語ってきたパウロでありますが、それでは意味がないものなのかといえばそうではありません。人は罪が示されることによって、初めて救いを求めるようになります。自分に罪はないと考えている人は救いを必要としていないわけですから、福音を求めることはありません。しかし、自分の罪に向き合うとき、人は神の救いを求めます。自らの心の中にある様々な罪が自分ではどうにもできないとわかる時、それを解決してくださるのは、神のみ、主イエスの十字架によって清算されたと知る時、人は神に向かうのです。そのことを明らかに示してくれるのが律法なのです。

 

◾️ キリストを着る

こうして主イエスの十字架と死と復活は、私たちを監視して、罪の支配のもとに閉じ込めていた律法から解放してくださいました。養育係から巣立った私たちはどうなったのか、どのような世界に生きているのか、そのことをパウロは26節以下で語ります。

「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」主イエスは神の法に叶うか、叶わないか、従うか、従わないか、という基準ではなく、その人の存在そのものを神のものとしてしまう、神のもとにある、という新しい道を開いてくださいました。洗礼によって、主イエスを救い主であると告白することはキリストに結ばれることであり、そして同時に主イエスが父なる神の独り子であられるわけですから、私たちは神の子とされるということであります。そのことをパウロは「キリストを着る」と表現しています。キリストを着ているから、正真正銘、神の子なのである、というのです。私たちは自分たちがキリストと同じ神の子とされていると言われても、自分がそれにふさわしくないということを知っております。しかし、そんな私たちは自分たちの力でキリストを獲得したのではなく、洗礼によって、キリストを着せられたのであります。今日、お読みした旧約聖書はゼカリヤ書3章、大祭司ヨシュアのことが記されております。大祭司ヨシュアはペルシャのキュロス王によってイスラエルの民がバビロンから解放された時、総督ゼルバベルと共に帰還民を率いて戻ってきました。戻ってからはゼルバベルと共にエルサレム神殿の再建に貢献することとなります。さて、このゼカリヤ書3章で預言者ゼカリヤが見た第四の幻はこのヨシュアに関するものでありました。ヨシュアはサタンの告発を受けて、「汚れた衣」を着て、天の法廷に立たされていました。大祭司は礼拝を司るものであり、聖さが求められます。しかし、ヨシュアの衣は汚れていました。この「汚れ」はヨシュア自身の罪であると同時に、イスラエルの民の積み重ねてきた罪をも象徴しています。御使は自分に仕えている者たちに向かって、「ヨシュアの汚れた衣を脱がせてやりなさい。」そしてヨシュアにはこのように告げられました。「わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。」こうしてヨシュアは神から晴れ着を着せてもらうのです。ここに神の大いなる愛と慈しみが示されています。私たちの着ている服も、そして服のみならず、心も決して清いとは言えません。しかし、そんな私たちにも、神は「主イエスを信じる者たちよ、わたしはあなたの罪を取り去った。主イエス・キリストと言う晴れ着を着せてもらいなさい。」と言ってくださるのです。私たちはこうしてキリストに連なる者とされているのです。神は愛のお方、慈愛に満ちたお方であられます。罪を犯した人間に、服を着せてくださる、それは創世記の始まりにも示されているのです。創世記3章21節、「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」神の約束を守れず、罪を犯したアダムとエバに神は自ら衣をつくり、そして着せかけてくださったのです。この衣によって人の罪は覆われる。この衣は神からくる。私たち人間はその衣を買ったり、自分で作ったりするのではなく、ただいただくのです。この「衣」と言うのは、私の中ではマントのようなイメージです。すっぽりと体を覆ってくれて、暖かく神の守りのシンボルと言えるでありましょう。ルカによる福音書の有名は放蕩息子のお話、15章22節でも、父は僕に言います。「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せなさい。」このマントを着せられた人は、神の愛に包まれ、神に愛され、神に赦されていることを知るのです。私たち人間の罪は赦されますが、なくなるものではありません。常に罪を持ち、それゆえに悔い改めが必要なのです。そんな醜い私たちでありますけれども、キリストを纏った私たちでありますから、その醜さはキリストによって覆われているのです。そして神は私たちがキリストを着ている、と言うこと、晴れ着を着て輝いていることを喜ばれるのです。

 

■ユダヤ人もギリシア人も

「キリストを着ている」という、この神の祝福は、民族、社会的身分、性別、など、当時の社会ではあって当たり前であった差別、区別でなくあえて差別と言いますが、その差別を超え、キリストにあって一つにするのです。パウロは28節で「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。」と記しています。実はこの表現はユダヤ教の伝統的な概念を覆すものでありました。ユダヤ人が神に感謝するユダヤ教の祈りにこのようなものがあったそうです。それはこうです。「神よ、あなたは私を異邦人や奴隷や、女に作られなかったことを感謝いたします。」パウロはユダヤ人であり、ユダヤ教徒であったわけですから、当然この定形の祈りを知っていたに違いありません。あえて、この祈りを取り上げ、それを逆転させて語っているのです。古い差別は過ぎ去って、キリストにあって一致が生まれ、ことごとくキリストにあって一つとされているのです

 

■結び

キリストにあって一つとされている私たちは、当然キリストのものでありますから、キリストのものが同じように分け与えられるのであります。神の子、主イエスに与えられる神の国、神の財産は、私たちにも同様に与えられるのであります。すでに16節で見ましたアブラハムへの約束、つまり、全世界の相続という壮大な計画であります。そしてそれは主イエスによって成就したわけですから、主を信じる者たちが神の国を受け継いでいくと言う約束であります。今、私たちが生きておりますこの地は、神のものであり、そして私たちに与えられているものであります。そして神に服を着せていただいている私たちは、大祭司ヨシュアのように、神の国の実現のために働く者として立てられているのであります。そのことを覚え、感謝して主の僕としての働きを担ってまいりたいと思います。

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