top of page

『祝福の継承者として』  2024年5月12日

説教題: 『祝福の継承者として』 

聖書箇所: 旧約聖書 創世記17:15−19 

聖書箇所: 新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙4:21-5:1

説教日: 2024年5月12日・復活節第7主日

説教: 大石 茉莉 伝道師

 

はじめに

前回の箇所では、パウロは「兄弟たち」と親しく呼びかけましたが、今日の21節では再び、厳しい論調で語り始めます。語りかけているのは、「律法のもとにいたいと思っている人たち」、この人たちとは、ガラテヤの教会を混乱させているパウロの言うところの「偽教師」たち、でありますが、その間違った教えに惑わされているガラテヤの教会の人々へも向けて発しています。「あなたがたは律法に耳を貸さないのですか」という問いかけで22節からを語ります。ユダヤ人が律法という語を用いるとき、狭くはモーセを通して与えられたものを指しますが、広くはモーセ五書、さらには口伝律法、つまり言い伝えとして伝えられてきたものまでも含まれます。ここでは22節からがアブラハムの相続物語、27節にはイザヤ書の引用がなされていることから、聖典として残されているものを指しているようです。その旧約聖書に記されている物語をあなたがたは聞いているのか、知っているのか、と鋭く語りかけるのです。

 

■アブラハムの二人の息子

パウロはすでに3章で、アブラハムについて語ってきました。それは神がアブラハムと結んだ約束は、その子孫であるキリストによって成就したのであって、その契約は神によって有効とされたものであるゆえに、その後にできた律法によって変えられることはないのだ、と主張しました。そしてキリストを信じる者たちは、キリストによって神の子とされており、それゆえに我々もアブラハムの子孫であり、神の約束の相続人であるのだ、というつながりが4章まで語られてきました。今日の箇所ではさらにアブラハムの二人の息子たち、そしてその母たちを登場させて、ダメ押しをするかのように、その主張を畳み掛けています。アブラハムの二人の息子は一人は女奴隷から、もう一人は自由の身の女から生まれたと聖書に書いてある、とパウロの話は始まります。これは言うまでもなく、創世記16章にありますアブラハムの妻サラと女奴隷ハガルのことです。アブラハムとサラの夫妻には子供が授からないまま、老齢となってしまいました。アブラハムは神の召命を受けた時、「アブラハムの子孫によって全ての民が祝福を受ける」という約束を神から頂いていました。ですから、子孫を授からないとならないわけです。そこでサラは自分の代わりに奴隷のハガルを夫に差し出して、子どもを産ませました。このようにして生まれた子どもは女主人であるサラの子どもということになるのが当時の慣習でありました。そうして生まれた子どもがイシュマイルです。イシュマイルが生まれたのち、妻のサラにも子供が与えられることになります。創世記18章に記されています。それは主のみ使いによって予告され、約束通りにサラは男の子を授かりました。それがイサクです。23節には、「女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。」とあります。イシュマイルはアブラハムとハガルの間に、人間の思いによって、人間の男女の関係によって与えられました。パウロはそのことを「肉によって」と言い表しています。そしてイサクは、神の約束によって与えられた。そのことを自由な女、つまりサラから生まれたイサクは約束によって生まれたのだと言っているのです。

 

■二つの契約−その1

そしてそれには別の意味が隠されている、とパウロは24節で説明を始めます。この部分は口語訳聖書では、「さて、この物語は比喩としてみられる。」となっていました。この表現の方が分かりやすいように思います。パウロはこの創世記の歴史的出来事からパウロ独自の解釈を述べようとしています。それはまさに今の私たちが新約と旧約を合わせ読むことから、旧約に新たな意味を見出すという解釈の仕方であると言えるのでありましょう。

まずは創世記のハガルとサラ、イシュマイルとイサクの物語についての一般的な理解は以下のようになります。創世記21章あたりです。サラにも実子イサクが生まれると、サラはハガルとイシュマイルが邪魔であると感じるようになり、アブラハムに追い出してくれるようにいいます。アブラハムは心痛めますが、結局、ハガルとイシュマイルは逃げ出すことになります。荒野を彷徨い、餓死寸前というところまで追い込まれますが、神は彼らを憐れみます。イシュマイルをも祝福すると約束してくださいます。イシュマイルはのちのアラブ民族となるわけです。創世記にはこのように書かれておりますが、パウロはこれとは異なる聖書解釈をこれから繰り広げられます。この二人の女、ハガルとサラは二つの契約を表しているというのです。少々、わかりにくいので、丁寧に分析して参りましょう。ここで繰り広げられるパウロの論理では、サラとイサクにスポットライトがあてられ、ハガルとイシュマイルはいわば悪役であります。ハガルはエジプトの女でありましたから、イスラエル人からみますと異邦の奴隷の女、そして奴隷であるハガルから生まれたイシュマイルは奴隷の身分というように断定しています。そしてハガルはシナイ山のことで、今のエルサレムに当たるとパウロは論理を展開します。ハガル=シナイ山=エルサレム、と繋がっているわけですが、これは少々難解です。シナイ山は奴隷であったイスラエルの民がエジプトを脱出してから彷徨ったのち、たどり着いたところです。そしてシナイ山で律法が与えられました。パウロはここまで律法に囚われて生きる生き方を「律法の奴隷となる」と表現してきました。この「奴隷」というキーワードによってハガルとシナイ山が繋がったというわけです。そして、エルサレム神殿は律法の拠点であるということからハガル、シナイ山、エルサレムが繋がっている、という論法です。ユダヤ教は律法の宗教であり、ユダヤ教の律法に捉われる生き方は、その奴隷であるということであり、それをハガルとイシュマイルに当てはめているというわけです。

 

■二つの契約−その2

26節以下では、サラのことが語られます。27節の「なぜなら」以降で引用されている聖書箇所はイザヤ書54章1節です。このイザヤ書54章はバビロン捕囚から戻るイスラエルの喜びを歌ったものですが、ここにある「子を産まない不妊の女」という表現をサラに結びつけています。サラは子を産めないまま、歳をとり、もう子どもは与えられないと思っていたました。しかし、そのようなサラに子ども、イサクが与えられ、その子はアブラハムの子孫として神の祝福を受けるというこのアブラハムの祝福物語をここに持ってきているわけです。「喜べ、子を産まない不妊の女よ」自分の力では子供を産むことのできない、そのような人間的な可能性を失ってしまった中で、なお、神を信ぜよ、その先には神の祝福が与えられるのだ、人間の力、業によらず神に依り頼め。パウロはそのような意味を込めてこのイザヤ書を引用しています。この御言葉の豊かさは、子どものない悲しみが、多くの子どもを持つ喜びへと変えられている、と言うことです。現在でも、女性として生まれて、子どもを産むことができないと知った時に、痛み、悲しみを覚えない女性はいません。とてつもない絶望感を覚え、そして生きている意味すら否定されたような思いを持つのです。今は少しは良い時代になったと言えるでしょうが、このアブラハムの時代、時は4千年も前です。今は女性にさまざまな役割がありますが、この時代の女性の役割は子どもを産むこと、ただ子供を産むためだけに存在したと言っても過言ではありません。ですから、サラの悲しみは本当に計り知れないものであったのです。そのような中で、語られたこの御言葉は、存在の否定から、正統な立場へ移されることであり、そしてこの言葉をここでパウロが引用しているのは、正統的ユダヤ教徒から否定された異邦人キリスト者への慰めとして語られているのです。

そしてサラは「天のエルサレム」として表現されます。ハガルが「今のエルサレム」という対比です。当時、ユダヤ教ではエルサレムは我々の母、というように考えられていました。パウロは、その「あなたがたの母」はその子どもたち、つまりユダヤ教を信じる者たちと共に奴隷になっている、と言うわけです。ハガルの子、イシュマイルは、この今のエルサレムの子どもたちを指し示し、つまりそれは、イエス・キリストの十字架による救いが成し遂げられた後も、律法の支配の下に留まり続ける者たち、自分の行いによる救いを信じる者たち、割礼などのユダヤ教の教えによって救いが得られると信じる者たち。このような人々とガラテヤの人々を重ね合わせて言っているのです。それに対して「天のエルサレム」が「わたしたちの母」、つまりキリスト者の母である、とパウロは言うわけです。サラは不妊の女であったにも関わらず、神の約束によって子どもが与えられた。ハガルのような肉によって、つまり「人間の行いによって」与えられた子どもイシュマイルではなく、神の力によって子どもイサクが与えられた。そのことがこのアブラハムの二人の息子の物語には示されているのである、と言うのがパウロがここで語っている比喩であります。ハガル、イシュマイル、律法、律法支配にある現在のエルサレム、を一つのグループとして示し、サラ、イサク、キリスト者の自由、天のエルサレム、ともう一つのグループとして示しているのです。

 

■約束の子

そのように二つの道筋を示した上で、パウロは28節で、「兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合と同じように、約束の子です。」と言います。イサクは神の約束の成就としての子どもである、と言うことはすでに語られました。つまり、人間の行いや力、業によらない、神の一方的な恵みの御業であると言うことです。この「人間の行い、業によらない神の一方的な恵み」と言うのはすでに何度もこのガラテヤ書において、パウロが主イエス・キリストによる救いを信じる信仰がそうである、と告げてきました。キリストの救いを信じる私たちキリスト者は、人間の力、行い、業によって生きるのではなく、神の恵みによって生きているのであり、それはキリストによって実現した神の約束であります。

さて、29節では「けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。」霊によって生まれる、と言うのは、キリスト者のことであり、聖霊の働きにより、キリストの救いの道を歩んでいる者たち、つまりガラテヤの教会の人々を指しています。あなたがたは聖霊の働きにより、新たに生まれ、そして約束の子として歩んできたが、今は肉による、つまり律法を押し付けられる迫害の時代となっている、とこれもイシュマイルがイサクをいじめた、からかったと言う創世記の記事を当てはめて言っているわけです。さて、その比喩が30節に続きます。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである。」創世記ではハガルとイシュマイルを追い出して欲しい、と言ったのはサラでありましたが、ここでパウロはそのことを取り上げているのではなく、聖書に、聖典になんと書いてあるか、と言う形で、神の御心として語っているのです。ガラテヤの人々は今は、ユダヤ教徒からの割礼の強要という迫害にあっているが、それは必ずや神の御心として退けられる。キリストの福音に生きる者は神の子どもであり、約束の子、相続人である。それゆえに私たちは迫害にあったとしても、その苦しみ、悲しみは必ず取り除かれるのだとパウロは言うのです。

 

■結び

パウロは今日の箇所で、ハガルとイシュマイル、サラとイサクを持ち出しました。ハガルとイシュマイルをあえて否定的な位置に置くことで、サラとイサクに光を当てています。約束の子らは迫害という不条理を超えて、最終的には祝福に至る。子のないサラの苦しみが、子に恵まれた喜びへと変わった、この逆転は、イサクにもあてはまり、正統な神の相続人としての祝福を受けることになる。神の祝福に生きたいと思うならば、私たちが取るべき道は、ハガルの道ではなく、サラの道である。律法によるのではなく、ただ神の約束と恵みに信頼して生きることである。ガラテヤの人々よ、あなたがたもこのイサクに連なる相続人、神の子ども、約束の子なのだ。それゆえ、今の迫害の時代を踏みとどまってほしい、とユダヤ教の聖典を引用することによって、そこからつながる新しい希望を提示しているのです。今に生きる私たちもこのイサクの系図に加えられているのだということを改めて覚えたいと思うのです。あなたがたは自由の女から生まれた子どもに連なる者たち、それを成してくださったキリストに従って歩め、奴隷の軛に二度と繋がれてはならない、とパウロは言います。神が与えてくださった主イエス・キリストにより頼む、この方にある神の恵みを受け取り、いただき、生きる者としていただこうではないですか。おりしも、次週は聖霊降臨日、常に聖霊は私たちと共にあって働いておられますが、改めて、聖霊の働きに感謝し、その導きを祈り願い、神の祝福を生きる真の民として歩みたいと思うのです。

最新記事

すべて表示

『主イエスに従う』 2024年9月1日

説教題: 『主イエスに従う』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書46:3-4 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:18-25 説教日: 2024年9月1日・聖霊降臨節第16主日 説教: 大石 茉莉 伝道師 ■ はじめに...

『闇から光へ』 2024年8月25日

説教題: 『闇から光へ』 聖書箇所: 旧約聖書 イザヤ書8:23b-9:6 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:12-17 説教日: 2024年8月25日・聖霊降臨節第15主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

『誘惑に打ち勝つ力』 2024年8月18日

説教題: 『誘惑に打ち勝つ力』  聖書箇所:旧約聖書 申命記8:2―10 聖書箇所: 新約聖書 マタイによる福音書4:1-11 説教日: 2024年8月18日・聖霊降臨節第14主日 説教: 大石 茉莉 伝道師   ■ はじめに...

Comments


bottom of page