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『真理を聴く耳』 2022年8月21日

説教題:『真理を聴く耳』 聖書箇所:マルコによる福音書 4章1節~20節 説教日:2022年8月21日・聖霊降臨節第十二主日 説教:大石 茉莉 伝道師


■はじめに

主イエスの教えの舞台は再びガリラヤ湖です。「再び」と書かれていることからも、ここが主イエスの活動拠点であったことがわかります。おびただしい群衆がまたまた主イエスを取り囲みます。彼らは病の者であり、悪霊に取りつかれていた者、主イエスの評判を聞いて集まってきた者たちです。目的は、主イエスに触れてもらい癒してもらうためです。3章にも同じような状況がありました。主イエスは多くの病人を癒されましたから、病気に悩む人々は皆、主イエスに触れようとしたのでした。主イエスはそのような群衆に対してどうされたかというと、「ほとりで教え始めた」とあります。教えを話されるために、人々から距離をとり舟に乗られました。何をお教え、お話になったのかといえば、もう何度も繰り返してきました、1章14節、15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」というお言葉がその中心です。そのはじめのお言葉から、主イエスが神の国とは何か、そして神の国のために主イエスがどのように働いてこられたか、ということが様々な出来事を通して示されて参りました。そして今日のこの譬えとして主イエスが語られたお言葉をマルコはまとめて記録しているのです。


■種を蒔く人のたとえ

主イエスは神の国についての教えを話される中で「種を蒔く人」のたとえを話されました。この3節から9節のたとえは、「よく聞きなさい」で始まり、「聞く耳のある者は聞きなさい。」という言葉で締めくくられています。今日の聖書箇所20節までの中には、「聞く」という言葉が繰り返されています。神の言葉を聞くこと、つまり、主イエスの言葉を聞くことの重要性が強調されているのです。

3節から9節ではたとえが語られ、そしてそのたとえは13節から20節で説明されています。そのたとえはこういうものです。種を蒔く人が種蒔きに出かけました。そしてその後、4つの例が示されます。一つ目は道端に落ちた種。これは鳥に食べられてしまいました。二つ目は石だらけで土の少ないところに落ちた種、これは芽を出しましたけれども、日の強さに負けて根がないために枯れてしまいました。三つめの種は茨の中に落ちました。それらは茨に覆われて実を結ばなかったのです。そして四つ目です。良い土地に落ちて、芽生え、育って実を結び、あるものは30倍、あるものは60倍、そしてあるものは100倍にもなった。そのように主イエスは語られました。

この4章はたとえが続いています。今日の箇所の後、別のたとえがあり、そしてまた、「成長する種」「からし種」と種シリーズが続いています。主イエスは神の国を「種」にたとえてお話になられたのです。


■御言葉の種蒔き

3節から9節の譬えが4つの例で語られた時、種は「落ちた」という表現で蒔かれたことが表されています。種そのものはどれも同じです。どの種も「落ちた」と表現されています。私たちが種を蒔くとしたら、種が落ちるという表現を使うでしょうか。その動作から考えても、落ちるとは言わないでしょう。「地面に落ちてくる」という表現は、天から

雨のように降ってくる、雨が地に落ちるように、種が天から降り注がれているということです。つまり神のなせる業を表しているのです。神のなせる業、つまりそれは主イエスによってこの地で宣べ伝えられる御言葉です。種は種だけでは成長することはなく、種はそれを受け止める地があって、実を結んでゆくのです。神の言葉、御言葉と生きた人間が出会い、そして神の国が芽生え、育ち始めるのです。

神の国とは、花咲く楽園のようなところに人間が置かれることではなくて、主イエスの御言葉によって今生きているこの世が神の国として育っていくということなのです。地に落ちて、芽を出して、育って実を結んでゆくのです。ここで示された4つの例のうち、道端、石だらけ、茨、という3つの例は実を結びませんでした。最後の良い土地だけが実を結んだのです。日本語では同じ「種」という言葉で示されていますが、原文では、初めに示されている3つの例の種は単数形で示されて、最後の良い土地の種は複数形で表されています。そのように神の言葉は多くの豊かな実を結ぶのです。

イザヤ書55章10節、11節にはこのように書かれています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。/それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。/そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。/それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」神の言葉は必ず豊かな実を結ぶことは旧約の時代からこうして示されているのです。


■たとえを用いて話す理由

ここで10節~12節の御言葉に触れたいと思います。なぜ、主イエスがたとえを用いてお話になったのか、という理由が書かれています。1章から読み進めてきた中で、何度か、「メシアの秘密」というキーワードについてお話しいたしました。イエスとは何者であるのか?という問いです。群衆にとって、弟子たちにとって、敵対する人々にとって、主イエスとは何者なのか?そのことがこのマルコ福音書において通奏低音のように響いています。そしてこの短い3節は、そのメシアの秘密に関係しているのです。主イエスがひとりになられた時、周りにいた弟子たちが語られたたとえについて尋ねました。十二人と一緒に周りにいた人たち、と書かれておりますが、十二人のなかでも特に主イエスの近くにいた側近的な者たち、と解釈するほうが原文の意味としては正確だと思います。それに続く主イエスのお言葉から考えてもそのほうが自然です。主イエスは言われました。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」とあります。あなたがた、は内の人々であり、それに対応するように、外の人々という言葉が使われています。内の人、外の人、という表現は3章の十二人の弟子を選ぶところ、そしてイエスの母、兄弟のところからも続いている表現です。十二人を主イエスの近く、そばに置くためにお選びになり、そして神の御心を行う者が内にいるのであり、たとえ血縁関係にある兄弟といえども、主イエスを主として見ることのできない者たちは、その外に立つ者である、と主イエスは言われたのでした。ここでの主イエスのお言葉「あなたがた、つまり、内輪の存在、には神の国の秘密が打ち明けられる」とは、どういうことでしょうか。「秘密」と訳されておりますけれど「奥義」という言葉の方が日本語としては良いように思います。ギリシア語でミュステーリオン、私達が良く知っているミステリーの語源となっている言葉です。「神の国の奥義」とは、主イエスがこの世に来てくださったことで、神の国はこの地上に実現しつつある、ということです。そしてそれを告げ知らせる権限を、主イエスは十二弟子にお与えになりました。ですから、本来は十二弟子にはすでに神の国の秘密は打ち明けられており、それを告げ知らせる権限が与えられている、ということなのです。しかし、十二弟子はそれを明確には理解してはいませんでした。そのため主イエスは弟子たちに対してどのようにされたかといいますと、少し先になりますが、33節、34節に書かれております。「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、ご自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」のです。

主イエスのたとえは本当に意味することを明らかにするのと同時に、それを隠すものでもありました。当時、話し方によっては、異端や反逆の罪として捕らえられる可能性もあったからです。ですから、主イエスは外の人々にたとえを用いたのは投獄されることから逃れるためであったという人もいます。たしかにそのような面もあったでしょう。神の国についてを、種や茨、良い土地、という言葉を用いて語れば、そのことで投獄されるようなことにはならないでしょう。主イエスはたとえを用いてお話になることで、ご自分のメッセージをあからさまにせずに伝えることができたと言えるのです。

外の人々にはたとえで話されました。「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない。」そのようになるためである。と厳しいお言葉を言われました。これはイザヤ書6章9.10節からの引用です。神からの召命を受けたイザヤは「よく見よ、繰り返し見るがよい、よく聞け、繰り返し聞くがよい」と神の言葉を告げ知らせ続けますが、人々はこころをかたくなにし、イスラエルの民は悟る心と、見る目と、聞く耳を与えられなかったのです。旧約の民はそのように神への反逆を繰り返しました。

すでに記されておりましたように、ファリサイ派の人々は主イエスを拒絶し、どうやって殺そうかという相談すらしていました。ファリサイ派は自分たちは神の民イスラエルの選びの中にあると思っていました。それゆえに救いから漏れることはないと思っていました。しかし、そうではない、と主イエスは言われるのです。救いに与るためには、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」その言葉に聞き従う、つまり、それを語る主イエスを信じなさい、それが必要なことであると言われたのです。


■真理を聞く耳

主イエスはそのようにして、神の国の奥義を十二弟子に示されました。それは「派遣して宣教させるため」です。十二弟子を選ばれた時に、その意義が語られておりました。彼らが継承して、多くの人々を神の国に導きいれるためであります。そしてこのように福音書という形でも継承され、私たちの時代までも神の国への導きが続いているのです。主イエスは言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい。」主イエスの神の国への招きを聞いて、受け入れなさい。主イエスのもとに来て、神の言葉を聞き続けなさい。神の国は隠されています、秘密にされているのです。目で見て確認したり、理解する事柄ではなくて、これは信じる事柄です。そして終わりの日には、必ず完全に明らかにされると約束されているのです。パウロも言っています。ローマの信徒への手紙10章17節、「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」


■結び

今日の御言葉に示された4つの土地、私たちはどうしたらはじめの3つでなく、最後に示された良い土地になれるだろうか、と考えてしまいがちです。しかし、そのような読み方はどこか間違っています。このたとえは「種を蒔く人のたとえ」であって、「異なる土地のたとえ」ではないからです。これは私たちについて語られているのではなく、種を蒔く人についてが語られているのです。そのような視点でこのたとえを味わっていますと、種を蒔くお方の寛大さ、豊かさが語られていることがわかります。種をケチらず、良い土地も、育たない土地も、良し悪しを決めず、蒔き続けるお方がある、ということです。育たない土地があることは十分ご存知の上で、良い土地での30倍、60倍、100倍の豊かな実り、祝福を喜ばれるのです。私たちは誰もがそのようでありたいと願います。しかしそれは私たちの努力によるのではなく、大切なことは、神が、すべての土地が良い土地となり、すべての土地において豊かな実を結ぶために、種を蒔き続けてくださっているということです。終末の完成の時における大いなる収穫は約束されています。私たちは神の御前に立つ一人の信仰者として、主イエスの真理の言葉を聴き続ける。それが私たちに求められています。ただただ、愚直に御言葉に耳を傾け続け、御国がなりますように、と今日も祈りましょう。

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