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『真ん中に立ちなさい』 2022年7月17日

説教題:『真ん中に立ちなさい』 聖書箇所: マルコによる福音書 3章1節~6節 説教日: 2022年7月17日・聖霊降臨節第七主日 説教: 大石 茉莉


■はじめに

さて今日からマルコの3章に入りました。今日の箇所、わずか6節でありますけれども、この箇所をお読みになって、おそらくすべての方が緊張した場面を想像することと思います。とても挑戦的な主イエスの姿とそれに対立するファリサイ派が描かれております。

主イエスはガリラヤで伝道を始められて、汚れた霊に取りつかれた男や多くの病人を癒されたことが1章、2章に記されておりました。その評判はまたたく間に、ガリラヤ地方の隅々まで広がりました。人々は主イエスを賞賛しました。しかし、ファリサイ派の人々の見方は違っていました。敵対する存在として主イエスを見始めたのです。はじめは、2章の始まりに登場する中風の男に対する「あなたの罪は赦される」という主イエスの発言からでした。そのようなことを言えるのは神だけであり、主イエスが神を冒瀆していると見なしたのです。そして、罪人との食事、断食問答、安息日の規定、と2章を読んでまいりましたところのいずれの箇所でも、ファリサイ派の人々の敵意の込められた発言が記されていました。それぞれの箇所は、それに応じられる主イエスのお言葉で終わっていますけれども、実際の場面を想像しますと、主イエスのお言葉を聞いた彼らは、おそらく苦虫を噛み潰したような顔をし、表面上は黙って引き下がったかもしれませんが、内心では主イエスに対する敵意の炎がどんどん燃え上がっていったのだろうと想像できます。その敵意が殺意へと変わっていったことが今日の箇所であきらかになっています。


■手の萎えた人

さて、今日の御言葉の3章1節で主イエスはまた会堂にお入りになったと記されています。再び安息日が巡ってきたのです。安息日ごとにユダヤ人は会堂に集まって神様を礼拝し、律法の教えを聞いていました。主イエスはその安息日の礼拝において、人々に話をするためにお入りになったのです。会堂には片手の萎えた人がいました。なぜそうなったのか、は書かれていませんが、男の人であったようです。そして想像するに、仕事にも生活にも不自由であった事でしょう、経済的にも恵まれていたとは思えません。そして何よりも大変なことは、当時は、病や体を損なうことは、罪の結果であると考えられていたということです。ですから、この男の人は堂々と会堂にいたのではなく、目立たないように、会堂の隅で、周囲の人々の差別的な視線を避けるように、人々の陰に隠れるようにしていたのでしょう。


■訴えようとするファリサイ派

2節の始まりに「人々は、」とあるのは、これはファリサイ派の人々のことです。「彼らは主イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気を癒されるかどうか注目していた」と書かれています。新共同訳では「注目していた」と訳されているこの言葉は他の聖書では、じっと見ていた、様子をうかがっていた、と訳されています。「悪意を持って見張っていた」というのが一番適切な表現でしょう。はじめにお話ししましたように、2章において繰り広げられてきた主イエスや弟子たちの行いは、律法を遵守することを何よりも大切にしてきたファリサイ派にとっては、律法破りであり、律法をないがしろにするものとして、我慢のならないことでした。ですから、なんとかして主イエスを訴える機会を狙っていたのです。そんな彼らにとって、この「手の萎えた人」の存在はうってつけでした。

安息日は「仕事をしてはならない日」です。病に関する治療行為は、命に関わる緊急な場合のみ認められているものでした。今すぐに治療しなければ命に関わるというものでないならば、安息日に治療行為を行うことは規定違反となるのです。この片手の萎えた人、この人はいつからかは分かりませんが、すでにこの状態で生活している人です。今すぐにどうにかしなければ死んでしまうという状況ではありません。そのことは誰が見ても明らかなことでありましたから、数時間待って、日が暮れて安息日が終わってから、主イエスが癒しをおこなえば安息日規定に反することはありませんが、安息日の礼拝の中で癒しを行うことは安息日の律法を意図的に破ることになるのです。


■真ん中に立ちなさい

しかし、主イエスは日が暮れて、安息日が過ぎてから私のところに来なさい、とはおっしゃらなかった。会堂の人々のいる前で、安息日の真っ最中に、この人にむかって「真ん中に立ちなさい」と言われました。このことばからわかるように、主イエスはこの人をわざわざ会堂の真ん中に意図的に連れ出しました。そのように言われたこの片手の萎えた人はいたたまれない思いを感じたことでしょう。先ほど申しましたように、この人は会堂の隅にひっそりと目立たないようにいることが精いっぱいだったからです。しかし、主イエスはファリサイ派の挑戦を真正面から受けられます。それは神の権威を示されるためでもあるのです。そしてまた、主イエスの救いに与るということは、主イエスと自分の間だけでこっそりと行われるものではなく、多くの人々の中で与えられるものなのです。主イエスこそまことの神であり、救い主であられることを人々に示すためです。

私たちも、洗礼という主イエスの救いの御業に与る時、教会の人々の真ん中に立ち、主イエスキリストを信じることを公に言い表します。会衆の見守る中で、信仰を告白し、そして洗礼を受け、救いの御業に与るのです。誰もが皆、主イエスから「真ん中に立ちなさい」と声をかけられて、そのように招かれているのです。

1節、3節に「手の萎えた人」5節に「その人に」という言葉がでてきますけれども、ここで使われている「人」は単なる代名詞ではありません。つまり、「彼に」という表現ではありません。実は「人間」という単語が使われています。ですから正確には「片手の萎えた人間」「手の萎えた人間」「その人間に」となります。なぜ「彼に」というような代名詞ではなく、「人間」という言葉が使われているか、を考えますと、主イエスが声をかけられたのは、この人だけではなく、私たち人間すべてに向かって、「真ん中に立ちなさい」「手を伸ばしなさい」と声をかけてくださっているからです。主イエスによる招きの声です。すべての人間が、主イエスの救いの御業に与るよう招かれているのです。


■主イエスの挑戦

そして主イエスは、自分を訴えようとしているファリサイ派の人々に向かって「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」とお語りになりました。主イエスは決して律法を軽んじてはおられませんでした。「安息日に律法で許されているのは」と言われ、安息日が律法に根ざすことを否定されてはいないのです。しかし、あなたがたの安息日の守り方は真実に律法に従ったものか、と問われるのです。本来、ファリサイ派の人々は神の掟に忠実であろうとしたことから始まっています。しかし、彼らはだんだんと律法に縛られ、律法の奴隷となっていきました。安息日に命を救うことよりも、命を殺すことを考えるようになっていたのです。ここで主イエスのお言葉にある「命を救う」の命は、単に肉体的な生き死にのことではなく、魂が活かされるということを意味しています。手の萎えた男、そしてそれは救いを求めている人間すべて、のことであると先ほど申しました。主イエスの救いに与ること、それは救いによって新しい生が与えられること。それは何にもまして喜ばしい出来事であり、律法の規定を超えるものなのです。

ファリサイ派の人々も、善を行うことはよいことであり、病に苦しむ人を癒すことが悪ではなく、よいことであることはわかっていたはずです。しかし彼らは形式的に律法を守ることで救いを見出そうとしていました。だから、主イエスの問いに黙っていたのです、答えないのです。自らの正しさをもって自分自身を武装している彼らは、それを破られまいと必死になり、無言の抵抗を示しているのです。そもそも彼らは、主イエスを訴える口実を得ることが目的でありました。安息日がいかなるものかということを論じるつもりもなかったことでしょう。


■頑なな心

人々の無言に対された主イエスは、「怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しまれた」とあります。主イエスが「怒り」「悲しまれた」とマルコは記しています。主イエスの「怒り」そして、「ひどく悲しむ、嘆く」というこの言葉は聖書において、この箇所でしか使われていません。主イエスの感情がこのようにあらわされている箇所は他にはないのです。何に対して「怒り、悲しまれた」かといえば、人々の「かたくなな心」に対してです。心が頑なになると、人は黙り、そして体も固まります。心の柔らかさ、しなやかさがなくなるのです。人々は神の律法、神の掟に込められている神の御心を、柔らかく感じ取る心を失っていました。主イエスはそのことを深く悲しみ、そしてそのために重ねられている不義に対して怒りを覚えられたのです。

そしてこの「かたくなな心」というのは、別の聖書によれば、「死んでしまった心」「心がない」とも書かれています。心を持っているつもりでも、死んでしまっている、なくなってしまっているのです。「心無い人」という表現を私たちは知っております。自分の目的や自分の欲望を満たすことを最優先に考えるとき、周りの人、周囲の状況に無関心になり、そして心無い人となるのです。ファリサイ派の人々は、自分の物差しだけを正しいものとしているがゆえに、心に痛みを持っているこの手の萎えた人間のことには無関心になり、見えなくなっているのです。

そしてそれは究極的に何を指し示すかというと、そのように自分の正しさを中心に置くことは、主イエスの救いの御業を拒絶していること、つまりは、主イエスは救い主であるということを拒絶していることです。主イエスはそのことに対して、怒り、悲しまれたのです。それは罪の中にある人間に対する神の怒りと悲しみです。大いなる愛があるがゆえの神の怒りと悲しみなのです。


■結び

怒りと悲しみのまなざしで人々を見つめた主イエスは、片手の萎えた男に「手を伸ばしなさい」と言われました。彼の手は元通りになりました。ここで素晴らしいことは、この男は主イエスの言葉をそのままに信じたことです。「手が治っていないから、伸ばせません」とは言わなかった。治ってから手を伸ばしたのではなく、彼が手を伸ばしたから治ったのです。これが信仰であります。主イエスのお言葉通りにまず手を伸ばしてみたのです。こうして人々の前で癒しの奇跡が行われました。沈黙により主イエスを拒絶している人々に、ご自分が救い主であられることを、安息日の主であることをお示しになられました。そしてそのことによりファリサイ派との対立は決定的になったと言ってよいでしょう。沈黙の陰に隠された敵意は、殺意となりました。彼らは出て行って、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めたのです。ヘロデ派とは、ガリラヤ領主であったヘロデ・アンティパスに従う政治的な党派です。当時のローマの権力と深い結びつきを持ち、政治的な関心が強く、宗教的理想主義のファリサイ派と政治的現実主義のヘロデ派は犬猿の仲でありました。その両者が手を組み、主イエスを死に追いやるための相談を始めたのです。すべてが敵になり、主イエスを十字架の死へと進ませることとなりました。

手の萎えた男、そしてかたくなな心を持つ人々、これらの姿は共に私たちの姿です。救いを求めながらも、会堂の隅にいる。そして同時に、自分の正しさを主張して心無い者となる。そんな私たちの中に、主イエスは入って来られ、癒しを与えてくださいます。そして私たちの頑なさを憐れんでくださいます。

そして、このような私たちのために、主イエスは十字架を受け入れ、その身に受けられました。この十字架によって、私たちの頑なな心の根本にある罪が赦されているのです。

主イエスは私たち一人一人に言われます。「真ん中に立ちなさい」「手を伸ばしなさい」。主イエスはわたしたちの手を取り、そしてわたしたちを神の御前に立たせてくださるのです。堂々と、力強く招いて下さる主イエスのこの大いなる恵みに応答する者でありたいと祈ります。


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